第16話 死後のはじまり
小学校三年生のとき、クラスで『はだしのゲン』のアニメを見たことがある。年度末に、授業回数が余ったのだと思う。
私たちはカーテンの閉め切られた真っ暗な視聴覚室で、硬い床の上に膝を抱えて、スクリーンに投影される凄惨な物語を、強制的に見させられた。最初に視聴したときの印象がトラウマになって、それ以来『はだしのゲン』を見ていないので、細部の記憶は多分違っているだろう。
原爆が落ちてきたとき、まず、ピカッと目を覆うような光が走り、それから爆風が、爆心地周辺でいつも通りの生活を送っていた広島の人々の体を、業火の前の蝋人形のように溶かしさる。
お母さんと手を繋いで歩いていた小さな女の子の赤い風船が、パチンと割れる。ピンクのワンピースが弾け、布や紙と同じように女の子の肌が剥けて、真っ赤な筋肉があらわになる。かわいらしい顔の皮膚が吹き飛んで、目玉がこぼれ、骸骨が見え、その骨すらも溶けてなくなってしまう。
道を歩いていた男の子も、おじいさんも、お腹の大きな妊婦も、例外なく同じ目に遭う。グロテスクな過程が、使い回しのフィルムのように、何度もフルカラー音付きで繰り返されるのだ。私は、文字通り目を覆った。
死を受け止めるとは、それに似たことだと漠然と想像していた。
大切な人の死という原爆の直下で、皮膚を焼かれ、内臓を飛び散らし、むき出しの眼球を破裂させるように、暴力的な悲しみになすすべもなく斃されるものだと、また、そうあるべきだと思っていたのだ。
椿姉ちゃんが死んだ悲しみは、私の体を見るも無残な赤剥けにはしなかった。痛さで気が狂ったようにのたうち回ることもなく、私はただ、ポカリで水分補給をしながら、器用に涙を流し続けていた。火葬と葬式の間には、竜胆と笑いあったりした。
それでも、椿姉ちゃんの死から日が遠ざかるごとに、自分の体からごっそり大事な骨が抜かれてしまったような頼りなさは次第に強まっていった。皮膚の上から触って確かめてみても、どこの骨とも確かめられないのに、何だかふらふらしてまっすぐ立てない。新しいことに興味が持てず、何となく夜更けまで起きていてしまう。これではだめだと思っても、どうやったらその空白を埋めることができるのか、皆目見当もつかなかった。
張り合いをなくした気持ちは結局、時間しか解決しなかった。
椿姉ちゃんが死んで三ヶ月がたって、うわべでは快活に日々を過ごしていた私は、クラス替えで刷新されたクラスの空気を、無感動に吸って生活していた。
明日はゴールデンウィーク初日という黄金色をした放課後、私は友達二人と教室でだべっていた。友達の一人が、教室の電子ピアノを勝手に引き出してきて、流行りのポップスのサビを弾いた。もう一人と私は、うろ覚えの歌詞を、音の間違いだらけの伴奏に合わせて大声で歌った。
その場面を、外側から眺めている私がいた。外側の私は、「まるで映画の一場面のようだな」と思った。その場面の中にいる人は、映画のクライマックスのように、幸福な気持ちでいるべき状況だったのだ。
そのとき私は、あとになって、死に囚われた時間の終わりを思い出すとき、きっとこの場面が浮かぶのだろうと確信したのだ。「椿姉ちゃんの死後」という、新しい日々の始まりをこの場面にしようと、やっと自然に思うことができたのだった。
私が、しゃがんだ姿勢から膝を伸ばして立ち上がっても、竜胆はまだ手を合わせていた。
「ちょっと、向こうのお墓もお参りしてくるわ」
私は竜胆に声をかけて、乱杭歯のように立っている無縁仏の墓を乗り越えた。少し離れたところにある祖先の墓にお参りするのだ。兄から教えられたかすかな記憶を頼りに、草がのび放題の古い墓に、さっき三等分した線香の残りを供える。
私が須賀家の墓の前に戻ってくると、竜胆は、新聞紙の燃えかすを靴で踏み潰していた。
「帰ろうか」と声をかけると、ぱっと顔を上げて、笑みを見せた。
「晶博、今日は天ぷら揚げてよ」
「もうスーパーで材料は買ってきてあるよ。刺身もあるどお」
「やったー」
「寮では、天ぷらとか刺身とかは出るだかい」
「出るわけないじゃん。寮食は、給食みたいな感じだよ」
後ろに乗せてよ、とせがむので、帰りは竜胆を荷台に乗せて自転車を漕いだ。
家々の庭先にはすでに、死者を迎えるために藁を燃やした跡がある。揚げ物のにおいの漂う塀の上に、鮮やかなピンクの金平糖を思わせる百日紅の花が咲いている。
ときどき自転車がふらついて、道路脇の畑に突っ込みそうになった。そのたびに、私の腰につかまった竜胆は、小学生のように、きゃっきゃと歓声を上げた。
第十七話 訪問者 につづく
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