第15話 早春火葬

 もうじきお盆である。

 この地方は、夏の短さを反映してか、夏休みが短い。お盆が終われば、子供達の夏休みの終わりも、すぐそこの角を折れたところにある。

 夏休みの宿題にラストスパートをかける小中学生の手伝いをして、私は塾をあとにした。駅前には、お盆に帰省してきた人々が、スーツケースをがらがら引いて歩いている。

 普段はそれほど口数の多いほうではないので、塾の講師としてたくさんしゃべったあとは、自分の言葉が頭の中でずっと反響しているような気がする。

 帰りがけにスーパーに寄ると、涼しい店内に足を踏み入れた瞬間、仏花の青くさい匂いが襲ってきた。特設コーナーには、これでもかというほど仏花の花束が並べられている。お盆のご馳走や仏壇のお供えを買い求めにきた客で、昼過ぎのスーパーは混雑していた。

 祭壇に供える馬を作ろうと、形の良いきゅうりを探していると、傍らを小学校に入るか入らないかくらいの男の子が、歓声を上げながら駆け抜けていった。

「にーに、にーに! きゅうりがあるよ! 普通の緑のきゅうりがあるよ!」

 思わず耳をそばだてる。この子が日頃目にしているきゅうりとは、いかなるものなのだろうか。私は首を傾げながら、てのひらにとげの刺さるほど新鮮なきゅうりをカゴに入れる。

 私は、今日から三日分程度の食材とともに、仏壇に供える果物と干菓子、藁、そして仏花を二束、カートに放り込んだ。霞草やら、白、黄色の菊やらを束ねたものである。

 帰宅するとすぐに、バケツに水を張って花の茎を浸した。墓参りに行くのは、もっと涼しくなった夕方でいいだろうと思い、座敷で少し昼寝をすることにする。竜胆は、どこに出かけているのか、家にはひとけがなかった。

 どれくらい経っただろう。ごめんください、と玄関の外から呼びかけられたような気がして、目を覚ました。

 座敷の障子は閉め切ってあるので、時間はよくわからない。ひどく喉が渇いていた。台所に冷えた麦茶を取りに行こう、とぼんやり考えて、来客の声に起こされたことを、はっと思い出した。

 本当に人が来ているのか半信半疑のまま、座敷から出る。板敷の廊下に置いてある姿見で、寝癖がないか、よだれが垂れていないか、素早く確かめた。姿見には、背後の玄関の扉が映り込んでいる。扉の磨りガラスの向こうに、ぼんやりとした黒い人影が見えた。

 私は、「いま行きます」と声をかけて玄関に体を向けたが、そのときには、磨りガラスに人影はなかった。今の短い間に、諦めてもう帰ってしまったのかと、慌てて玄関の引き戸をがらがらと開ける。しかし、外に出てみても、庭にもその先の道路にも、人の姿はなかった。

 私は、昼寝から覚めたばかりのぼんやりした頭で、庭先に立ち尽くした。

 昼寝の夢の続きを見ているような気持ちだった。

 もう一度寝入って、目を覚ますと、いつのまにか竜胆が家に帰ってきていた。時刻は三時を回った頃である。

 「墓参りに行こう」と告げると、居間のソファにひっくり返って、おでこ丸出しで漫画を読んでいた竜胆は、文句を言うこともなく「うん」と素直にうなずいて、スカートのしわを直した。

 水道水を詰めた二リットルのペットボトル、新聞紙でくるんだ線香とマッチ、それから先ほど買った仏花。竜胆が歩いていきたいと言うので、墓参りセットをかごに乗せて、私は自転車を押していくことにした。

 この辺りに代々住んでいる家は、須賀山の陰になった墓地に墓を持っている。わが家と墓地の中間にある公民館を通り過ぎると、六体の地蔵が祀られており、道は下り坂になる。六地蔵の前には平たい大きな石が置かれている。昔は、葬儀を出せば、ここが死者との別れの場所であり、平たい石の上に一旦棺を置いたのだ。

 六地蔵の先は、異界である。

 とはいえ、眼前に広がるのは、まぶしい日差しを受けるごく普通の夏の風景である。道の脇には用水が流れ、作物の実る田畑のあぜ道には、ひまわりが咲いている。強い草のにおいがした。

 地域の人々からは、お宮と呼び慣わされる六箇木神社の鳥居を横目に通り過ぎる。須賀山からの湧き水が流れる沢に沿った細い道を登ると、そこが墓地である。

 我々と同じく墓参りに訪れた家族が数組、暮石の間に見える。墓石に刻まれた名字を見ると、ある四つの姓が断トツに多い。ここの集落は、逃げのびてきた平家の落ち武者四人が開いたという伝説だ。この集落に多い四つの姓は、その落ち武者たちの名字なのだそうだ。

 須賀家の墓は、家を守らなければならないはずの私が滅多に墓参りに来ないせいで、草ぼうぼうのひどい有様だった。隣の無縁仏の、苔むした小さな墓石が、こちらの墓に倒れかかってきている。

 竜胆がぼやいた。

「ズボンに履き替えてくればよかったなあ。草がちくちくするし、虫も寄ってきそう」

「また、夏休み中に草むしりに来るだな。ま、今日は簡単にお参りだけで」

 私はため息をついて、重たいペットボトルを地面に下ろした。無縁仏の墓を、まっすぐ立て直してやる。竜胆が、ペットボトルの水を墓石にかけて、私が雑巾で白くこびりついた鳥の糞などを落とす。目についた雑草はむしったが、瑠璃色の露草は残しておいた。

 いつ供えたかも思い出せない、枯れた花を捨てて新しい花を墓前に生けると、須賀家の墓は、見違えるようにきれいになった。

 線香をくるんできた新聞紙を地面に置いて、火をつける。線香の束を炎に寄せて、三等分したうちの束の一つを竜胆に手渡す。墓前にしゃがみ込んで手を合わせる。目をつぶって、何を祈ればいいかわからず、とりあえず幼い頃習ったように、のんのん、と心の中で唱えた。

 この墓に眠っているのは、私と兄の両親、それから兄の妻であり竜胆の母である椿姉ちゃんだ。

 父の記憶といえば、金曜日の夜の仕事帰り、お菓子やおもちゃなどのお土産を買ってきてくれたことと、前述の通り、強制的に山登りに連行されたことくらいである。母のことは大好きだったが、それでも断片的な思い出しかない。寒い冬の夜、一緒の布団に潜り込んだ私の冷え切った足を包んで、「ぬくといか」と聞いてくれた手の暖かさを、たまに思い出すこともあるが。

 私が小学校高学年に上がる前に亡くなった両親の葬式のことは、ほとんど覚えていない。しかし、中学一年生のときに亡くなった椿姉ちゃんの葬儀は、鮮明に記憶に残っている。竜胆は、そのとき小学一年生だった。

 家で長く寝たきりの生活を続けていた椿姉ちゃんが息を引き取ったのは、銀白の絹織物のような冬の景色の中に、春の錦の糸が一、二本混ざりはじめた二月の半ばの頃だった。厳しく引き締まっていた空気が、髪の毛一本分ほど緩んできたような気がしたが、梅の蕾もまだほころんではいなかった。

 夜、寝る前に、兄が椿姉ちゃんの様子を見に行った。しばらく戻ってこないので、私も部屋に行くと、椿姉ちゃんの痩せ細った腕を胸に抱えた兄が、手首の脈を取ろうとしていた。

 兄は、部屋の入り口で立ちすくんでいる私を見つめて、眉を寄せ、口をとがらせるようにしながら、駄々をこねるような声で、「椿姉ちゃんが死んじゃったみてえだ」と言った。後から思い起こせば、それが、兄の涙をこらえた表情と声だったとわかる。

 枕に頭を乗せた椿姉ちゃんは、目を閉じていた。もう何日も、目を開けている時間はほんのわずかで、眠ってばかりだったのだ。兄は、何度か椿姉ちゃんの長い髪をなでつけると、自分の目元を拭いた。

「竜胆を呼んできてくれるか?」

 私は、うん、とうなずいて、居間でアニメを見ながら歯を磨いていた竜胆を、椿姉ちゃんの部屋に連れてきた。兄は、竜胆の頭に手を乗せて、じっと目を覗き込むと、「母ちゃんが死んじゃっただ」と教えた。

 竜胆は、まだ泡の残る口を横に大きく広げて、拳を両目に当て、べそべそと泣き出した。何度か「かあちゃん」と呼んで、その度に泣き声が大きくなった。

 見えない壁となって立ちはだかる、悲しみという概念そのものに頭からぶつかってしまったように、私も声を上げて泣いた。兄も目を赤くして、涙をこぼした。私たちはしばらく三人で泣いていた。

 やがて、兄は病院に電話しに行き、ほどなくして病院から医者と看護師がやってきた。医者は、椿姉ちゃんの死をあらためて確かめると、すぐに帰っていった。

 竜胆と私は、世界に悲しみを供給し続ける役割を持った兄妹のように、兄が知り合いに電話している間も、泣き続けた。喉が渇くとスポーツドリンクを飲み、竜胆にも飲ませてあげて、それからまた飽きることなく涙を流し続けた。

 翌日、葬儀屋がやってきて、椿姉ちゃんの体を清めると、死化粧をさせて、ドライアイスと一緒に棺に入れた。椿姉ちゃんは、病気になる前も化粧をほとんどしない人だったから、頰におしろいをして、唇に紅をさしたその死に顔は、まったく椿姉ちゃんらしくなかった。

 ほかにも檀家に何軒か葬式があったらしく、僧侶が忙しいということで、お通夜と葬式は五日も先に決まった。

 My grandfather has been dead for three years. (祖父は、三年間死んでいる)という、直訳すると少し奇妙に思える現在完了の表現が、英語にはある。だが、その五日間、椿姉ちゃんは、焼いて骨にされることもなく、かといって生き返ることも無論なく、日当たりの悪い座敷でずっと死んでいたのだ。家中に、抹香の少しツンとした匂いが漂っていた。いまでも瞬時に、その強い匂いを思い出すことができる。

 お通夜は家の座敷でそのまま行われた。須賀、という名前の通り、私たちの家は、須賀神社の神職の一族と遠縁である。しかし、兄の青年時代に本家とは仲が悪くなり、交流も途絶えていた。通夜の席と、それに続く葬儀にも、親戚の代表として、本家から中年の男の人とその奥さんが来たが、兄に多少挨拶したくらいで、私と竜胆とはろくに言葉も交わさなかった。

 次の日の昼間、椿姉ちゃんを火葬場に移す前に、お別れの儀式をした。棺の中に横たわった椿姉ちゃんに、死出の旅に発つために、足袋や手甲や白い経帷子を着せてあげるのだ。それから、棺の隙間を埋めるように、生花を敷き詰める。最後に重たい棺の蓋を閉じて、四隅に釘を打つ。本当に釘を打つわけではない。ただ、小さな金槌で儀礼的に棺の蓋の角を何度か叩くのだ。

 コンコン、と軽く金槌を蓋に落としながら、涙があふれてきて止まらなかった。死んだ椿姉ちゃんと生きている私たちの間に、はっきりとした線を引いていることに罪悪感を覚えたのだ。私はいつのまにか心の中で、「ごめんね」と謝りながら、金槌を振っていた。

 幼い竜胆は、儀式の意味もわからずに、金槌を重たそうに持って蓋を叩いていたが、私の泣き顔を見て、つられて泣き出した。棺を霊柩車に乗せ、喪主である兄が位牌を持った。本来なら、娘である竜胆が遺影を持つべきなのだが、小さいので、私が代わりに遺影を抱いて、霊柩車に乗った。

 霊柩車は、椿姉ちゃんの棺と私たち家族三人を乗せて、じれったいほどのスピードで、太郎山の麓の火葬場に向かった。

 火葬場のことを、地元の人はみな焼き場という。殺伐とした呼び方だが、実際は、火葬炉四基と、きれいな待合室を持つ現代的な施設である。

 入り口を入ってすぐのホールが、火葬炉に面している。四基の火葬炉のうち、三基の前には、老人の遺影と焼香台が置かれていた。残る一基の火葬炉の前に遺影を立てかけると、写真の中の椿姉ちゃんの若さが目立った。ホールの自動ドアが開くたびに、冷たい風が吹き込んできた。

 火葬炉に入れる前に、棺の顔の部分に開いた小さな窓を開けて、椿姉ちゃんの顔をもう一度だけ見た。

「もうよろしいんですか?」

 焼き場の職員から控えめに問いかけられて、兄は涙ながらにうなずいた。骨になる前の椿姉ちゃんを見ることができる最後の機会だと思えば、いくら時間が与えられても思い切ることはできないだろう。白い手袋をはめた職員が小さな窓を閉じて、椿姉ちゃんの顔が完全に見えなくなったときも、私は泣いた。

 完全にお骨になるまで一時間半くらいだと言われて、私たちは待合室に移動した。焼き場の職員のおばさんが、お菓子やお茶を出してくれる。竜胆はもうけろっとして、めったに飲ませてもらえないコーラを飲んでいた。兄はしきりに鼻をかんだ。

 待っている間はもう平気な気がしたのに、火葬炉から引き出された骨を見ると、また駄目だった。私と竜胆は、再び泣き始めた。まるで、気まぐれな透明人間が、悲しみというヘルメットを、私と竜胆の頭に好き勝手にかぶせたり脱がせたりしているようだった。

 火葬炉から出された台の上には、ぼろぼろの人骨が載っていた。最後は寝たきりだったからだろう、腰骨や頭蓋骨のようにそれとわかる骨のほかは、満足に残っている骨は多くはかなった。

 無残に散らばった骨にショックを受けたらしく、兄は、しばし茫然自失として立ち尽くしていた。

 漠然と、骨とは、冷ややかな白さを持つ滑らかなものなのだと思っていた。しかし、目の前にある骨は、高温で焼いたからだろうが、かすかすとして隙間が多く、風に飛ばされそうなほど軽くてもろかった。色も、完全な白ではなく、ところどころに赤い血液のしみが浮かび上がっており、黄色く変色した部分もあった。

 これが喉仏、これが頭蓋骨、と焼き場の職員が淡々と説明する。兄と竜胆が、両側から大きな骨を長い箸で挟んで、骨壷に入れる。私が後ろから手を添えて、竜胆を手助けした。あとの骨は、私と兄で骨壷に入れたが、めぼしい骨はすぐになくなってしまった。

 焼き場の職員が、残りのかけらと粉末をスコップですくって、骨壷に注ぎいれる。兄が骨壷を、私が位牌と遺影を抱いて、焼き場とは川を挟んで反対方向にある葬儀場まで、葬儀社の人に車で送ってもらった。

 車窓から見上げる空は、すでに夕暮れの準備をしていた。あのときの空の飛行機はどれも、細長い雲を引いて、地平へと真っ逆さまに落ちていくように見えた。


第十六話 死後のはじまり につづく

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