第7話 結納品

 今日は、塾も夕方を前にして閉まる。お祭りが始まれば、踊りのためにノンストップ大音量で流される「いやおいどんどんの唄」生演奏で、授業どころではないし、何より生徒がみんな遊びに行ってしまって、教室は閑古鳥である。

 駅前から自転車で浅科川を渡り、須賀神社の前まで帰ってきたところで、太夫とばったり出くわした。太夫は、薄い青のブラウスに七分丈の白いパンツ、ヒールの高いサンダルを履き、長い黒髪を後ろで一つにまとめている。

「あ、アッキーじゃん」

「やあ太夫。夏休みは何してるの」

「市民プールの監視員のバイトとか、あとは舞の稽古」

「そういや、いま竜胆が帰ってきてるんだよ。ひさしぶりに会ってく? ついでにお茶でもよばれてってよ」

「へえ、竜胆ちゃんが。じゃあよばれてこうかな」

 わが家の庭に入ると、太夫は、窓の桟の汚れも見逃さない姑のように、隅から隅まで素早く視線を走らせた。

「今日は猫来てないの? あの黒くてかわいいやつ」

「竜胆じゃなくて、本当は猫目当てなのがばればれなんだけど。今度来たら、写真撮って送ろうか?」

「ほしい!」

 太夫の元気な即答に苦笑する。

 私は、鍵を掛けていない引き戸をがらりと開けて、「ただいま」と呼びかけた。玄関の上がり框に、途中のスーパーで買ってきた、食料品の袋をどさりと置く。太夫は、「お邪魔します」と断って玄関に入った。

「竜胆、太夫がよばれに来たど」

 私が大声で呼びかけると、「ええー?」とくぐもった声がして、高校の運動服を着た竜胆が、納戸から出てきた。縛った髪も運動服も埃で白く汚れている。

「なんだい、その格好は」

「晶博が、納戸を整理して、ごったくはべちゃっとけって言ったんじゃん」

「そうだった。やっといてくれただな、ご苦労さん。どう、片付いたかい」

「まあ、なからね。母ちゃんと父ちゃんの本がいっぱい」

 私の後ろから太夫がにこりと笑いかけた。

「竜胆ちゃん、はあるかぶり」

 竜胆は頭の手拭いを取って、「おひさしぶりです」とはにかんだ。

 太夫を茶の間に座らせて、私は年季の入ったコーヒーメーカーにフィルターをセットした。何かお茶受けになるようなものはなかっただろうかと、私が台所の戸棚をごそごそ探っているうちに、太夫と竜胆は世間話を始めていた。

「こないだ、竜胆ちゃんの通ってる学校が、テレビに映ってたに。サイエンス甲子園に優勝したとかで」

「ああ、うちのグローバルサイエンスコースの人たちですよね。まあ、わたしは文系なんですけど」

「そうなんだ。東京は、学校帰りに遊ぶところもいっぱいあるでしょう」

「毎日補習授業が夕方六時まであって、課題の量も多いんで、あんま遊ぶ時間ないですよ。でもまあ、口やかましい人がいない分、のんびりできるかな。ねえ、叔父さま?」

「こんなときだけ叔父さん扱いするんじゃない。太夫、こんなのしかないけど、あがる? 竜胆、そこの引き出しから爪楊枝出してくれ」

 私は、奈良漬をいくらか切って茶の間に運んだ。竜胆が口をとがらせる。

「チョコレートとかクッキーとか、そういうお菓子はないの? 漬物なら、コーヒーじゃなくて緑茶のほうがいいんじゃない?」

「緑茶ねえ。確か、隣組長のお父さんが亡くなったときに、香典返しでもらった玉露がどっかにあったはずだけど……」

 そう言って台所にとって返そうとした私を、「わざわざ入れ直さなくていいよ」と太夫が引き留めた。結局、茶の間のテーブルには、湯気を立てるコーヒーと奈良漬という奇妙な組み合わせが並んだ。

 コーヒーにミルクを入れてかき混ぜていた太夫が、竜胆の手元に視線をやった。

「ところで、それ素敵な指輪だね」

「これ?」

 竜胆が掲げた指にはまっていたのは、乳白色の白いすべすべしたリングだった。

「納戸を整理してたら出てきたんですよ。なんか、骨みたいな感じ。象牙かなあ?」

「兄貴のだねえか。ほう、あの人は、お土産にいろいろ妙なものばか買ってくるだし。でも、その指輪は当たりだな。きれいだに」

「なんかこれ、変に見覚えがあるんだよね」

 竜胆は、薬指にはめた指輪をしげしげと見つめた。サイズを合わせて作ったわけでもないのに、その指輪は竜胆の指にぴったりだった。猫舌の太夫が、慎重にコーヒーをすする。

「単なるお土産じゃなくて、大事な物かもよ。何かの記念品とか」

 記念品という言葉を聞いて、私の脳内に火花が走った。気づけば、私は大声を出していた。

「思い出した! ほう、それ、結納品だに」

 竜胆が怪訝な顔をする。

「結納品? 母ちゃんと父ちゃんが結婚したときの?」

「いや、おめのだよ」

「わたし?」

 竜胆は、状況が理解できないという表情で、自分の顔を指差した。

「小学校低学年の頃かや? おめ、毎日まあんちガイコツ池まで出かけて遊んでただに。そこで一緒に遊んでる男の子の友達がいたみたいで、ままごと遊びでもしただかな、あるときおめが『ゆいのうひんもらった!』つって大喜びで帰ってきたことがあっただに。確かそんときおめがはめてたのが、ぶかぶかのその指輪だったと思うだ」

「全然覚えてない……」

 竜胆は、恥ずかしさで死にそうな顔をした。

「でも、小さいときの思い出の品なんだし、大事にしまっといたら」

 太夫が言うと、竜胆は素直にうなずいた。

「そういえば、竜胆はいやおいどんどんには行くだかい」

 私が、奈良漬をぽりぽりかじりながら姪に尋ねると、彼女は事も無げに答えた。

「こっちの友達と遊びに行く約束してるよ」

「……ほうかい」

 竜胆が行きたいと言えば、「しょうがないな」と渋々の体で付いていってやるつもりだった私は、わずかにショックを受けた。そのことを知られないように努めながら、竜胆に注意する。

「夜は、めた遅くならないようにな」

「ハイハイ」と、竜胆はぞんざいな返事をする。太夫が、懐かしむような表情をした。

「どんどんか。もうはあるか行ってないな」

「じゃあ、晶博と一緒に行ったらどうですか?」

「は?」

 竜胆の突拍子もない提案に、私は頓狂な声を上げた。

「ああ、それはありかも」

 驚くべきことに、太夫が乗り気な返事をした。私は慌てて手を振る。

「いや、太夫も何言ってんの。俺はそもそもどんどんとか行く気なかったし」

「それは嘘。アッキーは、竜胆ちゃんが、自分とじゃなく友達と行くと聞いて動揺している」

 私は、自分の耳に血が集まるのがわかった。しばしば、こちらの気持ちをすべて見透かしたように物を言うときの太夫が苦手だ。

 竜胆が、もうこの話は終わったかのように、話題を移した。

「でも、由羽さんが、うちに来てくれてちょうどよかった。浴衣を着てきたいんだけど、着付けに自信なかったんですよね。ちょっと見てもらってもいいですか?」

 由羽というのは、太夫の本名である。太夫は、姪の頼みを快諾した。

「いいよ。ついでに髪もあげてあげようか?」

「わあ、よろしくお願いします」

 会話に入り込めない私を置き去りにして、二人はさっさと座敷に行ってしまった。座敷には、竜胆の浴衣や椿さんの遺品である友禅が、衣紋掛けにかけてある。

 茶の間に戻ってきたとき、竜胆は、蝶の柄の紺色の浴衣を着て、お団子にした髪にかんざしを挿していた。太夫は、竜胆の浴衣姿を満足そうに眺める。

「よく似合ってるに」

「竜胆。男には気をつけるだぞ。何か言われても付いていかないようにな」

「付いてくわけないじゃん」

 竜胆が、あきれた視線をよこした。

「じゃあいってきまーす」

「鍵は持ったかい」

「持った。じゃあ由羽さん、不束な叔父だけどよろしくね」

 竜胆は、靴箱から引っ張り出して、簡単に埃を払っただけの下駄を突っかけると、さっさと出かけてしまった。

 太夫と私は、どちらからともなく茶の間に戻ると、飲み終えたコーヒーのカップをかちゃかちゃと台所に移動させた。

「シンクのたらいの中に、適当にほとばしといてよ。あとで洗うから」

と言っても太夫は、律儀にその場で洗い出そうとするので、さっさと片付けてしまうことにする。

 太夫は、私が洗ったカップを布巾で拭きながら言った。

「竜胆ちゃん、おしゃれになったね。友達と行くって行ってたけど、本当は彼氏なんじゃない?」

 私は、厳しい顔で否定した。

「そんなことあるわけないに。まだ高一だよ」

「もう高一の間違いでしょ。まあず、アッキーは、いつまでも竜胆ちゃんを子供扱いするんだから」

 私は、太夫からお客さま用のカップを受け取って、戸棚の中にしまった。太夫は、ハンカチで丁寧に手を拭く。

「もう夕方だし、私たちもお祭りに出かけてみよっか。もう屋台はやってるでしょ」

 しかし、私たちはお祭りにすぐに向かうことはできなかった。家を出て、須賀神社の鳥居まで来たところで、小さな子供が、高校生くらいの少年に追いかけられているところに出くわしたからだ。

 塾のバイトで日常的に子供に接している私の目からは、その子は小学校三、四年生くらいに見えた。

 夏の日差しで焼けるようなアスファルトの上を、パタパタパタと走ってくる音がしたかと思うと、腰にどん、と勢いよく熱いエネルギーの塊がぶつかってきて、私はつんのめった。見下ろすと、見知らぬ少年が、私の腰を強い力でつかんでいた。

「え、なに?」

 私が混乱しながら尋ねると、子供は怯えた顔で私を見上げた。

「お兄ちゃん、助けて。知らない人が追いかけてくる」

「なんだって?」

 私が、子供が走ってきたほうを見ると、自販機の角から、若い青年が姿を現した。高校生くらいに見える。怒りに満ちた顔をして、その目は私の腰に取り付いた子供だけをねめつけていた。

 私は、とっさに子供を背中に隠した。高校生くらいの男の子は、子供をかばう私と太夫を視界に収めて、目を見張った。太夫が、厳しい顔で高校生に話しかける。

「君、この子に何の用なの? すごく怖がってるみたいなんだけど」

 追いかけていたほうの高校生は、困惑の色を顔に浮かべて、私たちを説得しようとした。

「おれは、怪しい者じゃありません。その子の知り合いなんです。本当です。その子に大事な話があるんです」

「嘘だ! ぼく、こんな人知らないよ!」

 私の腰にしがみついた子供がわめいた。高校生くらいの男の子が、顔を真っ赤にして怒鳴る。

「黙れ嘘つき! おれとの約束を果たせ!」

 子供の体は震えていて、嘘をついているようには思えなかった。だから私は、いまにも子供に詰め寄ってきそうに見える男の子に、拒絶の意を示すためにてのひらを向けた。

「この子を追いかけるのはやめろ」

「これ以上追い回すなら、近所の人も呼んでくるよ」

 太夫が、険しい表情で言い添える。高校生くらいの男の子は、憎々しげに子供をにらみつけたが、諦めてこちらに背を向けた。

 男の子が、自販機の角を曲がっていくのを見送ってから、太夫と私は大きく息をつく。

 私は、まだ腰にしがみついたままの少年を見下ろした。

「なあ、なんであの男の子に追いかけられてたんだ。あれが知らない人っていうのは本当?」

 少年は、アニメのキャラが描かれたTシャツに短パン、ビーチサンダルを履いていた。手足は折れそうなほど細い。典型的な夏休みの小学生だ。ただ、髪は日本人にしては茶色みがかっていて、襟足が長い。まるで、昔ヤンキーだった親に育てられた子供みたいだ。

 子供は、私を上目遣いに見つめた。

「ほんとだよ。プールから帰る途中で、さっきの人が急に追いかけてきたんだよ」

 私は、太夫と顔を見合わせた。さっきの男の子が本当に不審者だったというなら、この子供の親や小学校にも連絡しなければならないだろう。

「さっきの人がまだその辺にいるかもしれないから、私とお兄ちゃんが、家まで送ってってあげるよ。家には、おうちの人いるかな?」

 子供の肩に触れた太夫が、はっ、と手を引いた。

 急に、頭上の大きな雲が動いて太陽を隠し、私たちの周囲を一瞬にして影の中にした。太夫は、言おうか言うまいかためらうように、唇を震わせていたが、黙っていることが困難になったように、ぽつりと言った。

「この子、人間じゃない」

「え?」

 耳を疑った私の腰を、子供はまだつかんだままだった。

 ぱっと視線を下ろすと、子供は私を見返したが、その幼い顔がだんだんと、にたあっとした笑みを形作っていった。その口の中には、歯が一本も生えておらず、代わりに、暗闇がぽっかりと入っていた。

 全身に悪寒が駆け抜けた瞬間、子供はさっと私の体から手を離し、その姿がかき消えた。

「え、えっ?」

 私は、バグを起こしたロボットのように同じ一文字しか発音できなくなった。

強い風が吹いて、須賀神社の境内の杉木立が、ざざざ、と不穏な音を立てる。頭上の大きな雲が再び動いて、太陽が顔を見せた。暖かい日差しが燦々と降り注いでも、鳥肌は収まらなかった。

「どういうこと? ねえ太夫、人間じゃないって?」

 私は、子供にしがみつかれていた腰を何度も両手でこすった。しかし、子供特有の熱いてのひらの感触は、容易には消えそうになかった。

「なんであの子消えちゃったわけ?」

 太夫は、緊張した顔でしばらく私をじっと見ていたが、不意に作り物めいた笑顔を見せた。

「わかんない。須賀神社の使いとかだったのかも。昔っから、この辺じゃおかしなことばっか起こるでしょ。私たちもそれに巻き込まれちゃったんだよ、きっと」

 私は太夫の顔を唖然として眺めたが、太夫はそれ以上何も説明しようとしなかった。

 どうして太夫は、あの子が人間じゃないなんて言ったの? 本当はそう聞きたかったが、彼女は答えてくれない気がした。

「怪談のネタができちゃったね」

 太夫が、そっと私から視線をはずして言う。

 依然としてゾッとするような感覚から抜け出すことはできなかったが、私には、ははは、と力なく笑うことしかできなかった。そういう方法でしか、日常感覚に戻ることはできないとわかったのだ。 


第八話 鯨と躑躅姫のゲーム につづく

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