第6話 エレベーターの怪

 私がバイトをしている学習塾は、いやおい駅前のビルの四階にある。駅前には、居酒屋が入ったビルが立ち並び、北には坂道沿いに商店街が伸びている。

 いまは繁忙期である夏期講習中なので、週に四度ほど塾に働きに来ている。壁に貼られた「彌生高校十人合格!」などと謳う宣伝ポスターを横目に見ながら、上向き矢印のボタンを点灯させた。

 一階が薬局、三階が美容院である。二階は以前、高齢者向けのデイケアセンターだったが、いまは空きになっている。ふと、先日、うちの塾に通っている中学生たちが、エレベーターで怪奇現象が起きた! と騒いでいたことを思い出した。

 塾に向かおうと生徒数人でエレベーターに乗り込んだところ、誰もボタンを押していない二階でエレベーターが止まり、扉が開いたというのだ。もちろん、二階にはテナントが入っていないから、ドアが開いている間の数秒間、中学生たちは薄暗いがらんどうのフロアにさらされたことになる。真相がエレベーターの誤作動だとしても、随分怖い状況である。

 学習塾の講師を始めてわかったことだが、今の中学生、特に女子中学生は、意外と幽霊の存在を信じている。

 うちは講師一人に対して生徒二人という態勢の個別指導塾で、教室には横長の机一つと椅子三脚が一セットになったブースが、十ほど存在する。一つのブースは、私を挟んで横並びに生徒が二人座っている状態である。

 その日は、他校に通っているが仲のいい中三の女子二人に、それぞれ社会と英語を教えていた。右側の女の子に、聖徳太子の事績について説明していると、彼女は脈絡もなく私に尋ねてきた。

「先生、幽霊って信じる?」

「うーん、見たことはないけどいるかもしれないね」

と私が答えると、女の子は、「最近、なんかが後ろにいる気がするんだよね」と、肩越しに背後を振り返った。

「はるか、幽霊はいると思う」

 その女の子が確信に満ちた声色で宣言すると、反対側で難関校向けの模試を解いていた女の子も、「絶対いるよな! みなみもそう思う!」と賛同した。

 この間、講師三人でバイト帰りにエレベーターに乗り込んだときに、生徒たちが騒いでいた怪奇現象に話が及んだ。理系の大学院生である先輩講師は、

「エレベーターに乗っていた幽霊が二階で降りていったんかなあ」

と、薄笑いを浮かべた。一つ年下だが、私よりバイト年数の長い経済学部の三回生が、思い出したように言う。

「そういや、二階には前、デイケアセンターが入ってませんでしたっけ」

「ああ、あったあった」

「自分が亡くなったことがわかってないおじいちゃんかおばあちゃんが、いまだにデイケアに通ってたりして」

 私が思いつきを口にすると、同僚の二人はふっつりと黙り込んだ。何となく、三人でエレベーターの階数表示を目で追う。

「なんか、筋の通った怪談話ができちゃいましたね」

 経済学部の後輩が、ぽつりと言った。

 一人でエレベーターに乗ると、階数表示が一階から二階、三階に変わっていくのを注視してしまう。幸い、頻繁にデイケアに通うまめな幽霊ではなかったようで、私の乗るエレベーターが二階で止まったことはない。

 昔見たドラマを思い出した。その終盤では、ヒロインが、古いホテルの、エレベーターが止まらない階を探索して、猟奇的殺人者の根城を発見するのだ。結構面白いドラマだったが、ヒロインの相手役の刑事を演じていた俳優が痴漢容疑で捕まって、打ち切りになってしまった。

 同じビルにテナントとして入っていても、最上階の塾で働く私は、直下の階の美容院を意識することはほとんどない。ごくたまに、美容院の客と乗り合わせるときのほかは、三階のテナント名のところに記された美容院の名前は、実体感を伴わない記号にすぎない。窓のない金属製の箱に乗った私は、地上から目的の階まで垂直に移動する。飛ばした途中の階にどんな人がいるのか、どんなことが行われているのかはわからないし、興味を抱くこともない。

しかし、もしこのビルに備え付けられているのがエレベーターではなくエスカレーターだったら、ほかの階への印象はもっと違ったことだろう。エスカレーターでゆっくり上昇する間、私は壁で隔てられていないほかのテナントの様子を見るともなしに眺めることになる。

 こうしたエレベーターとエスカレーターの違いは、索引とキーワード検索の違いにも似ている。キーワード検索の強みは、目当ての事項を膨大な情報の中から、任意のキーワードで手間をかけずに引っ張り出せることにある。しかし、それは同時に、キーワードを知らないと手も足も出せないということを意味する。自分の知るキーワードで引っかかる情報にしか、行き着くことができない。そのほかの情報は、完全なるブラックボックスである。対して索引においては、リスト化された検索語がすべて提示されている。五十音順やアルファベット順など、その順序は整理されているが、検索者はとにかく、リストを初めから終わりまで丹念に追っていけばいい。

 冷房の効いていないエレベーターに乗り込んだ私は、Enterキーを叩くように、四階のボタンを押した。

 私の今日の担当は、普段から週に一度教えている中三の女子生徒の英語と、初めて授業を受け持つ中二の男子生徒の数学だった。夏期講習中は、日頃取っている英語などの科目に加えて、社会や理科などを追加で取る生徒が多いので、通常の担当外の生徒を見ることが増えるのだ。

 中三の女の子は、綴りの間違いの目立つ英語の宿題を机の上に投げ出して、授業とは何の関係もない質問を繰り出した。

「先生は、甚兵衛と浴衣、どっち着る?」

「どっちも持ってないよ」

「持ってたら?」

「甚兵衛かなあ。そんなことよりも、もう受験生なんだぞ。勉強しろ勉強」

「だって今日、どんどんだもん。塾終わったあと、部活の人と一緒に行くって約束してるし」

 中三女子は、いつもよりおしゃべりで、注意が散漫だった。

 それも、今日の夕方から開かれる夏祭りのせいである。そのお祭りの準備で、駅前から商店街一帯には交通規制が敷かれ、いやおい駅に続く道には「いやおい駅お城口には行かれません」と書かれた看板が立てられていた。塾の入ったビルの前の道にも、すでに屋台が立ち並び、スピーカーからは「いやおいどんどんの唄」が、大音量で流されている。

 私は、甚兵衛か浴衣かの二択を迫る中三女子に、動名詞・不定詞の使い分け練習プリントを押しつけると、中二男子のほうに向き直った。

 文字式と衝撃の邂逅を果たしてから、中学校の数学にすっかりついていけなくなった男子生徒は、円周角を求める図形問題を前にして手が止まっていた。私が、「角AECと角ADCは弧ACを共有してるよね?」と助け舟を出すと、中二男子は、「xは52度?」となぜか即答した。「それはどうやって求めたの?」と私が問うと、「だって52度くらいに見える」と言う。

 塾に来る生徒のうち一定数は、正しい答えにたどり着くためには、問題文や習った公式に根拠を求めなければならないという当たり前のことが、いつまでたっても身につかない。それは、学年が上がれば矯正されるかといえばそうではなく、中三になっても、高三になっても、無自覚なままふんわりと答えを選び続ける。特に多いのは、大学入試の国語の記号選択問題である。「以下の文のうち、本文の内容として誤っているものを選べ」。この問題を解く高校生の少なくない数が、選択肢を「なんとなく正しいように思えるから」正とし、「なんとなく間違っているように思えるから」誤と判断している。

 私が「答えは、x=52度だよ」と渋々認めると、中二男子は驚くほど喜んだ。

「だけど、勘じゃなくて、ちゃんと正しいやり方で解かなきゃだめだよ。そうじゃないと同じような問題を解くとき、間違えちゃうでしょ」

 私は、根気強く例題の解き方をおさらいした。今までに何人もの先生が、この男の子に同じことを説いているのだろう。

 脳内に不意に、浅科川にかかる橋の上の、巻貝に似た展望台が浮かんだ。正しい橋を選んで、正しい方角に注目して歩いていけば、展望台は必ず見つけることができる。しかし、決まった橋の決まった側に展望台を見つけるとき、私は果たして嬉しいと感じているだろうか。

 蜃気楼のように、常に出会えるとは限らない展望台に「幸運にも偶然」行きあう驚きと喜びを持っているこの子に、いま私は、「百パーセント展望台にたどり着ける方法」を身につけさせようと躍起になっているのだな、と考えた。


第七話 結納品 につづく

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