第19話 お出かけは、お近くの港まで

 手綱をもったお蘭が、「ロバって、馬より扱いやすいかも」と、楽しそうに言った。彼女は、メグたちの乗った車の御者を買って出ていた。

 運動神経に優れ、馬ならやすやす扱える彼女も、ロバを御するのははじめてだったが、じきに慣れたようだった。城の近くの業者から買ったロバたちは、まだ若くて元気だ。これなら目指す神津の祈祷院に押し付けても迷惑がられまい。

 一行は、よく晴れた海辺の道を、それぞれ三頭のロバの引く車二台に分乗している。もう一台は黒狐が手綱を引き、孔雪がこちら側と行ったり来たりしている。そして客席には江津の城からついてきた護衛兵が四名、腰をかけている。当初は彼らが旅を主導すると主張したのだが、途中であった黒狐との「話し合い」の結果、大人しく奥に座っている。いずれも逞しい男たちなのに、なにがあったのか、今では黒狐が身じろぎするだけでビクッと小さく震える。


 空は雲ひとつなく青い。メグは結構いい気分でいるのだが、お福は腰にくるとぶつくさうるさい。その仏頂面に微笑みかけたメグに、お福はぷいと向こうを向くふりをして口の端で笑って見せた。自分でもわかっているのだ。

 おそらく、目指す船の状態がわからず、不安なのだろう。

 かつての戦乱の時代に、大小の軍船を苦もなく操ったという彼女なら、十人乗り程度の船ぐらいどうとでも扱えるはずだが、長らく港に係留されていた船に主人を載せて海原に出る計画に、とても神経質になっている。なにせ航路は行き当たりばったり、たとえ悪天候に巻き込まれても救助は期待できない。


 幸い、神津は美良野の城からはそう遠くない。先日、メグたちがたどり着いた中ノ津の港が大型の商船や軍艦などもいる本格的な仕事用の港湾とするなら、こちらは隣にある小型船向けの第二の港といった感じである。さっき茶店で休んだのが最後の小休止だと黒狐に言われている。目に入り出した、ほどよく緑のある神津付近の風景は、まさしく保養地といった雰囲気だし、好天はありがたい。明後日までは雨はないだろうという見込みなので、あまり緊張しないですむ。


 神津行きのきっかけは、メグの母である灘の方から届いた書状だった。外務卿の配下が部屋に届けた文箱から、ぽってりと厚い紙を使った手紙が出てきた。

 「これは灘の方様からですね」孔雪がメグに渡した。姉の美良野の方が双樹の文書館にいるメグの母に、妹を無事保護したと連絡した。それに対する礼状の中にメグあての私信が加えられていたという。

 「無事を喜んでくれています」メグは中身を皆に説明した。「ただ、事情はまだ母にも掴め切れてはいないようですね。焦らず落ち着いて、まずは存分に休めとか、励ましだけが書いてあります。あとは、江津は行き届いた国だし、姉上が万事よろしく取り計らってくださるはずだとありますね」

 ふむ、という感じで孔雪が片眉をあげた。

「そうそう、こんなときに、お福がいてくれたので実に心強いと」

「まあ、そのようにかいかぶられても」お福がいそいそと話に加わった。

「あ、まだ書いてあります。江津といえば、お福と来た際に二人こっそり食べたリンゴを焼いた菓子が美味しかったのですって。母上は、思い出といえば食べ物ばかりねえ」

「はあ」一転してお福は恥ずかしそうな顔をした。


「あっ、いまでもその店はあって、すぐ食べられるようになっているとあります。そんなに美味しかったの?とっても気になってきました」

 横で聞いていたお蘭と美歌も興味を覚えたような顔をしている。

「はあ、神津の港での話ですね。覚えております」お福は困ったように言った。

「でもあれは、山を越えてきた年寄りの行商人から買ったものでした。だからこそ、いい歳をして情けない、と当時の御用人さまに小言をくらったわけです」

「ほう」孔雪の目が光った。「お二人が神津の港に行かれた目的は?。たしかあそこは保養地のはず。裏があったのではありませんか」

「さすがあなたの鼻は効きますね、孔雪」お福は言った。「わたしも今の今まで、すっかり忘れていたというか、なくなったものと思い込んでいました。美良野の方様がお輿入れをされる前の話です」

「ぜひ、聞かせてください」孔雪は満足げにうなずいた。「その手紙には、お方様が江津側に気取られずお伝えになりたいことが隠されている気がします」


 うなずくとお福は声をひそめかげんに、「かつて、お方さまに従い、私は江津に入国、いくつかの祈祷所や宿場を訪ねました。中に神津の港もありました。表向きの目的は兎姫様お輿入れに先立っての安全祈願でしたが、実は鳳鳴公の特命を受けていました」と語り出した。

 それはまだ兎姫と呼ばれていた美良野の方と美里公との結婚に先立ち、彼女の緊急脱出ルートを秘密裏に構築するものだった。居城から抜け出しやすい場所に馬や船、あるいは身を潜める場所を準備し、状況に応じていずれかを使い救出部隊の到着を待つという計画である。

「案をまとめたのは鳳鳴公の用人、榊原どの。そして全容は兎姫様ご本人にもすべて明かしたわけではありません。鳳鳴公は『お節介じじいと嫌われたくないし』などとおっしゃっていましたが、若いうちから身内に繰り返し煮湯を飲まされた方ですから、夫となるセイモン様を稀に見る誠実な人物とお認めになってはいても、母君の側近はじめ江津の宮中を信じてはおられなかった。『君主が城を動かしているわけではない』ともおっしゃっていました」

 お福たちが最も時間をかけたのは、江津の首都・美良野から近い神津の港に、偽装し持ち込んだ高速船を係留、いつでも使えるようにしておく作戦だった。

「それを、あなたと母上がやったの」メグが驚いて聞くと、

「もちろん他にも人はいました。ただ、鳳鳴公は灘の方様をいたく信頼されておられましたし、私は多少船に詳しかったもので、責任を持って確認したのです。それに、もし船の存在が知られても、灘の方のご所有なら怪しまれることも少なかろうということでした。神津の港には当時、各地の諸侯のご婦人方や金持ちの家族がたくさん舟をつないでいましたから。流行っていたのですね」

「どうやら、灘の方様は船がまだ動態保存してあり、必要ならば江津に頼らず、自力で双樹へと渡れることを示唆しておられる。納得しました」と孔雪が言った。


「でも、そこまで警戒するなんて、いくさの危機でもあったの?」とメグが聞くと、「いえ、なにより心配されたのは嫁いびりです」とお福は答えた。

「嫁いびり?」お蘭と美歌が顔を見合わせた。するとお福は横のふたりを向き、「将来あなたがたの身に降りかかりそうなそれと一緒にしてはいけませんよ。こちらは国と国、王族どうしの結婚話。規模と意味が違いますからね」

 はいはい、と言う感じで二人はうなずいた。

「兎姫様と美里公との婚姻は当初、誰もが喜んだわけでなかった。いえ、両国の領民は熱狂的に祝福しましたし、ひそかに育んだ恋を成就されたご当人たちもそれは嬉しそうでした。しかし、婚儀にしつこく反対する勢力もあったのです」

「江津と藤には、互いに近親憎悪的な感情を抱く層がいると聞きます」孔雪の言葉にお福はうなずいた。「とりわけ江津側にそれは顕著で、中でも美里公の御生母様の側近連中の反発は凄まじく、過激な発言が続いた。さらに、影で糸を引く母君のご実家はかの名門、広島家ですからね。暗闘や暗殺はまさにお家芸。己たちが勝手に企画していた縁談が兎姫のせいで流れたと、逆恨みしたのです」


「紋章が短剣に毒薬瓶なのよね」メグも口を出した。

「それは愛と欲の蠱毒って劇の話ですよ、あの一族を元ネタにした」

「あら、お福も観たってことでしょ」二人の会話にお蘭たちも加わった。

「観ました、『愛がまことならこの毒を乗り越えよ!』って。死ぬよね、普通」

「亀姫様って、美形の兄弟が命がけで取り合うほどお綺麗だったって本当ですか?」

「晩年の実物にお仕えした人の話では、いかつい顔の方だったそうですよ。それはさておき、当時は杞憂どころか実際に命を狙われる危険がたっぷり、内戦だってあり得た。とにかく、生命の危険にさらされるぐらいなら、その前に疾く逃げよ、ということですね」

「そんな怖い思いをしてまで、お方様はお嫁に行かれたのか」美歌がなんとなく感激の面持ちになっている。

「ええ。勇気のある方なのは疑いありません」と言ってからお福は、「ただ、最近とはすっかり状況が違うようですよ」と解説した。


「仄聞するところ嫁入ってからの美良野の方様は姑、小姑、口うるさい親族に女官たちといった抵抗勢力に対し一歩も引かず、時に自ら出向いて不満に耳を傾け、筋の通った批判は受け入れつつ、通すべき意見は通されたとか。数年にわたってそれを続けた結果、あれほど盛んだった抵抗勢力は勢いを失った。この間の軍人どもが言っておりました。今や主だった女官は揃ってお方さまの軍門に下り、表向きロバより従順だとか」

 一同はうなずいた。たしかに家臣たちの態度はひたすら恭順を示している。

「ご夫婦も琴瑟相和し、お元気なお世嗣もおられ、国の経済も順調。いまさら実家に逃げ帰ることもないと隠れ家などすでに放棄されたと聞きましたが、船はまだあったのですね」

「場所は、覚えていますか」

「なんとか思い出すよう努めましょう。ただ、御用人が舟番を任せた人間を私はあまり気に入ってなかった。修理の腕は確かと紹介されましたが、口下手で考えていることがよく分からない。別の人間に交代していることを望みます」


 そこまで聞いたメグは、「よし」と、手紙の山をごそごそとやり出した。

「なんです」お蘭の問いに、「いえ、この中に役に立つのがあるかと思って。たくさんお招きがあるでしょう。これを利用して、神津港の近くに行くことができれば、ちょうどいいのではないですか」

 一斉に女たちは調べるのを手伝いはじめた。

「城から山を越え谷を越え、別天地の領地まで狩りにこられよとあります。このお誘いは、遠すぎますねえ」「地図、地図」

 流星の届けてくれた地図を見ながら、それぞれの場所を調べて行った。国の資料庫から持ち出したものらしく、大きい土地には所有者の名が記されていて、誰の領地かがわかる。

「狩りと渓流釣りのお誘いのあるのはすごい山の中ですね、やっぱり」

「あっ、惚れ薬の若殿の一門の領地だ。大きいなあ」

「でも、住んでいる数は人より狐狸が多いと思うぞ、ぜったい」

「船のあるのは、おそらくこのあたりだったかと」とお福の指差したのは、神津の港をやや外れた入江だった。

「なるほど。城からなんとか自力で逃げられそうな場所ですね。お金持ちの別邸っぽい建物ならあるなあ」

「この近くからご招待ないかな」

「あっ」美歌が大きく目を見開いた。「あの刺繍をくれたところ、神津の灯台のふもとでしたよね」


 遠目にそれらしい白い塔が見えてきた。目的の祈祷院は、黒鷺館ほどではないが崖の上にあり、夜になると赤々と灯りをともすそうだった。

「そういえば、黒鷺の周囲の住民らは、大丈夫だったかな」メグのつぶやきに、

「その件についてはご心配なく」と孔雪が答えた。「昨日もストヴェさんがあらためて確認してくれました。火事や暴動、略奪などなかったのはご報告したと思いますが、人も舟も徐々に戻りつつあり、市も無事に開かれたようです」

「市が再開しましたか!」メグは力強くうなずいた。「それを聞いて安心しました。そう、ストヴェに礼をしないといけませんね」

「それも済んでおります。黒狐の刀を心ゆくまで調べさせるのと交換でした。大興奮されて参りましたが」

「そ、それは良かった。よほど念願だったんだ。ときに、あの刀は本当にしゃべった?」

「こちらまでは聞こえなかったですね。ただ、まさしく幻の『フラームの七声刀』のうちの二振りに間違いないそうです。あまりに喜ばれたので黒狐は、お譲りしてもいいけど代わりを探す時間がないし、また落ち着いてから、などと言っておりました」

「彼はあまり道具にこだわりそうにないのに、伝説の刀を二本も持つとはね。やっぱり刀だけは特別なのかな」

「人気がなく残っていたのを二本とも引き受けた、と説明しておりました」

「あら、捨て猫みたいな。えー、ところでお福」「はいはい」


 メグはささやき声になった。「このまま黙って逃げることになっても、姉上宛てに書状だけは送っておきますね」

「そうですね。ま、港近くに出かけるのは報告されているでしょうし、これはあくまで私の勘ですが、わざと知らんふりをなさっている気もします。例の須田原の会議から誰も帰らぬうちに、自ら何とかしろというところではないでしょうか」

「自主独立があの方の基本方針ですから。でも、罠でなければいいな」そうメグが言うと、お福は顔をしかめつつうなずいた。「それを祈りましょう」

「それで、船はすぐ使えるのかしら」

「正直、心配しています」メグの問いにお福は認めた。「建造から時が経っているし、なにより特殊な船ですからね。わかったものが面倒を見ているはずですが確証はありません。黒狐によると、ときどき遊山にきた客向けの遊覧船として使っているようです。それは織り込み済みではあるのですけどね、放置するより丁寧に使い続ける方がいいので」

「そんなに大きな船じゃないのよね?」

「ええ。なにせ鳳鳴公が特注された高速妖精艇ですから。偽装はされてますが」

「妖精艇?」孔雪が目を細めた。

「船体が細く、大きな荷は乗せられない。そのかわり『シルフェの口笛』を宿らせてあって、とんでもない高速を出します」

「なんですか、口笛って」美歌が興味ありげに聞いた。

「虫みたいな妖精でね、舟に宿らせておいたらすごい風を帆に送ってくれる。似た寸法の戦闘艇に比べ、軽く三倍以上の速度が出ます。短時間ならそれ以上。ほかに目くらましの雲を出したりできるから、よほどの術者でないと跡を追ったりできません」


「すごーい」お蘭と美歌が大袈裟な声をあげた。

「ただし、外洋を航海するための船ではないのです。シルフェの口笛は大きな船は動かせませんし、距離も短い。一挙に双樹までは無理、飛び石づたいに碧海に行くしかない。本来、出迎えの軍船にこっそりすばやく乗り込むための船ですからね。灘の方様はそのあたり、よく判っておられないのですよ。繰り返しご説明したのですけれども」

「…物知らずでごめんなさい」メグは母の代わりに謝った。

「それより心配なのは」お福はしかめ顔で続けた。「さいぜんから申しますように、保存を任された者がどこまで面倒を見ているかです。シルフェの口笛どもは海藻やらフジツボ、水に住む小さな生物をエサがわりにします。だから、ちゃんと世話しておれば船体は美しく保たれているはずなのですが、こればっかりは間近で見るまでわからない。はしけなんかよりずっと精密なつくりですから、別の箇所が痛んでいることもある。不安の種はいくらでもあります」

 やっぱり船になると細かいね、などと美歌と言い合っていたお蘭が聞いた。

「そんなめちゃくちゃに早い船だったら、誰かがこっそり悪いことに使ったりしてないですかね。海賊とか」

「船に実力を発揮させるのは、それなりに難事なの。シルフェの口笛の起動には霊力を要する、ほんものの力をね。港町にいる占い師なんてのでは、だめ。むろん私一人でも無理」

「あら。ストヴェを拉致すればよかった。それはそれで大仕事だったろうけど」

「じゃあ、どうやって動かすの」

「心配ありません。メグ様がいらっしゃいます。と、いうより霊的に祝福された姫様方のおでましが前提なのです。けた外れの性能の悪用を防ぐ意味もあります」

 胸をそらし気味のお福にメグが聞いた。

「私、そういう大事な機会は、たいていドジを踏むのはお福も知っていますね。やめといたほうがよくない?」

「なにをおっしゃいますやら。ご自身をお信じくださいませ」


 小さな入江に、屋根のついた船が一艘、浮かんでいた。乗っているのは漕ぎ手が二人と、黒い笠をかぶった痩せ型の男が一人。笠から長い髪に白い肌がのぞく。水面には男の彫りの深い立派な顔が写っている。

 腰を下ろした笠の男が、ほっそりした手を海中に差し入れている。それを左右に動かすと、すっと巨大なヒレが水面に浮かび上がり、小舟の周りを回った。刃物のように銀色に光る突起もまた、同じように小舟の周りを周回する。

 漕ぎ手は実に気味悪そうな顔をしているのに、笠の男は楽しげに、

「やあ、遠くまできてもらったが機嫌は良さそうだ」と声をかけた。「これから、一仕事してもらわなければならない。みんな、準備はいいかな?」

 返事をするように、ぼこぼこと泡が水面まで浮かんできた。

「うんうん」男は年下の友人に対するように優しく、海に声をかけ続けた。「もしかするとお前たち、名にしおう江津海軍と一戦交えてもらわなくちゃいけない。でも師匠は『それは些事だ』っておっしゃる。しんじつ警戒すべきは、『魔女姫』だそうだよ。怖いよねえ。怖いけど、見返りもまたすばらしい」


 黒い笠の男はつと顔を上げた。入江の先の水面が静かに盛り上がっている。漕ぎ手たちの顔色が変わった。なにか途方もなく巨大な物体が、近くの水の中に潜んでいてその上、こちらに接近しつつあるのがわかったのだ。

「ああいいよ、そのまま、そのまま」と男は海に声をかけた。「お前みたいに大きいのは、ここには入れないからねえ。舟だってひっくり返っちゃうよ」

 ふふふ、と笠の男は笑ってから、漕ぎ手に声をかけた。「あ、安心してくれ。もうじき、迎えがくる。そうすれば、僕たちはここを出ていくよ。君らに連れて行けとは言わない。手数をかけたからね、これ以上は無茶を言わない」

「そ、そうですか。ではミゲル様、御武運を」漕ぎ手の一人が言った。

「ありがとう。でもこの辺りの小魚はそうざらえしたかもしれないから、先に謝っておく。なにせ、僕の連れは鯨より大きいから。うふふ。それに、だ」

 笠の男は海中に差し入れていた手を水から出した。ポトポトと水が落ちる。だが、指先から細く、白く光るものが伸びていて、その先はまだ海中だ。


 釣り糸か、と漕ぎ手の一人は目をすがめて光の先を確かめた。

「残念なことに君たち、口が軽すぎる。軍と、あの趣味の悪い雇い兵たちの両方に連絡をとろうとしたんだろう。最初に雇った僕を裏切って、ケチケチ小銭をかせごうだなんて、よくない趣味だなあ。君らも餌になること、決まりだね」

 漕ぎ手たちがぎょっとした顔になり、一人が懐に手をいれた。

 だが、ミゲルと呼ばれた男は、「それっ」と水中に入れた手を差し上げた。

 すると、まるで魚を吊り上げるかのように、指から伸びた糸状の物体が水を滴らせつつ、宙に跳ね上がった。そして、その先に繋がれていた黒い塊も水面に姿をあらわし、また落ちた。ぼろぼろだが人の胴体であるのはわかった。

「ほら、君たちのお仲間。だいぶ齧られちゃったけど」

 ミゲルが軽く手を振ると、どこをどうしたのか胴体は糸から離れた。次の瞬間、巨大な鼻面が水面に跳び上がり、水しぶきとともに胴体を咥えてまた海の中にもぐった。

 呻き声を上げつつ漕ぎ手の一人が短刀を取り出したが、ミゲルの指から伸びた白光が早かった。男は糸に胸から上を切り取られ、血を迸らせながら海中に落ちた。短刀はといえば、糸によって刃を半ば削りとられてしまい、船内に落ちた。

「じゃああん。僕の妖糸は鉄より強いよ」

「この、よ、妖魔使いめ」残った漕ぎ手は舷側に隠してあった長刀を引っ張り出し、横殴りに切り掛かったが、口笛のような音がして刀身が水に落ちた。見ると鍔元一寸も刃は残っていない。

「違うなあ。みんな僕の二つ名を間違える」

「ひっ」漕ぎ手が刃のなくなった刀を放り出し、横っ飛びに逃げようとした瞬間、海中から飛び上がった縄のようなものが身体に巻きつき、そのまま大きな水しぶきをあげた。海中に引き摺り込まれた漕ぎ手の悲鳴は、すぐに途絶えた。

「僕は、妖魔使いでも妖獣使いでもない。妖糸使いのミゲル。まあ、得意技がバレちゃうから、いつもは黙っているんだけどさ」

 ミゲルは美しい顔に満足そうな笑みを浮かべ、目を細めて沖を見た。そろそろ迎えがくる時刻だ。

 その笑顔を、水の下から巨大な目玉が見ていた。

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