第17話 可憐とは、誰のことかと姫は問い

 メグたちが部屋に下がった頃には、陽は赤みをましていた。

 あてがわれているのは病院とはやや離れた迎賓館の一角だ。大きな部屋を衝立で小分けにする形になっている。最初に入れられた部屋はあまりに豪奢すぎ、王女でもつつましい生活をしつけられたメグには落ち着けなかったため、交換してもらったのだ。全員がすぐに集まれる居間のあるのが、気に入っている。

 唯一の男である黒狐だけ、そばにある護衛武官用の部屋にいる。しかしここもそれなりにリッチな部屋で、「部屋のあちこちにガラスやら鏡があるのはなんとも」などと言っていた。

 

 しかし、一足先に部屋に戻っていた孔雪はすでに荷物をまとめはじめており、メグたちにも自分の荷をまとめておくよう指示した。

「わかってますが、それにしてもせっかちですね」メグの身の回りの世話を他人に取られるのを嫌うお福が迷惑そうな顔をすると、「あっ、お福さまは合間にこちらもご覧になってくださいね」と、孔雪は斟酌する様子もなく、御福に折りたたんだ紙を差し出した。海図のようである。

「おや、これはこの近くの海のものかしらね。私たちの上陸した港はこれね」

「さすがお福さま。もっと細かいのが欲しいのですが叶わず、今手配しておりますが、いつになるか」

 「まあ、油断しないのは、悪くはないか」とお福は言った。彼女自身、さっきの海軍将校たちから短い間にいろいろ聞き、考えるところがあったようだ。


 私欲のない江津の国主夫妻が、領民から敬愛の的とされているのは間違いない。だが、そのせいか側近衆を悪者に見立て、佞臣に惑わされる夫妻を正しい道へお導きするなどと口走しる輩が、「ときどき軍にまで湧くのだとか。口先だけならまだしも、中には妄想と現実の区別がつかなくなるのがいて、愚かさを理由に追放もできずと嘆いておりました」とまで言って、お福は小声になった。「内湾部の警備を担当する一部の軍船にご注意あれと。乗船や同行は極力避けろとのこと」どうやら、突然の来訪には旧交を温める以外の理由があったようだ。

「いずこの国も、いろいろあるのねえ。でも、わざわざ会いにきてくれるなんて、お福は信頼されているのですね」

「どうなんでしょう。今日の彼奴らこそ嘘つきということは、ないと思いますが」

「ところで」メグは孔雪を振り返った。「船を仕立てこの国を離れるのですか?」

「それは黒狐が戻ってから詳しく説明申し上げますが、当然ながら両方を考えねばなりません。美歌さんたちの話をまとめますと、あまりゆっくりはできませんが、いきあたりばったりに出るのもさらに危険」と、言いつつ孔雪は手を動かすのをやめない。決まってから準備をしはじめるメグと孔雪は根本から違うようだ。その意思力に圧倒される気持ちがして、室内に目を泳がせると、

「なあに、これは」隅のテーブルに積んだ色とりどりの品に気づいて指差した。


「先ほど届きました。すべてメグ様を近くご招待したいというこの国の人々から寄せられたものです」そう孔雪は説明した。「メグ様の滞在が知られたら、あっという間に集まりました」すべて各方面からの招待状だという。朝餐、昼餐、晩餐に狩り、礼拝、観劇。内容はさまざまだ。

「半分に付き合うだけでも季節が変わりますね」

「厚みが怪しいと調べましたところ、これが」お蘭が美しい風景の絵が描かれた紙を広げてみせた。「どうやら羊をたくさん飼っている牧場へのお誘いですね。湖のそばのようです。すてきだけど、相当山奥みたいですね」

「ちょっと遠いかなあ。今回はあまりゆっくりできないし」

「こんなのもありました」横で美歌が手に掲げているのは、手紙に添えられた厚みのある布だ。びっしりと刺繍がほどこしてある。念の入ったもので、周囲に願文らしき刺繍がされていて、枠のなかに未姫の名が入っている。

「なんだろう、これは」美歌は懸命に読み解こうとした。「どうも祈祷所からのお誘いみたいですね。四百年前に建立されたってことかな。これお読みになれますか。わたし、全部はわからなくて」と、渡された。


「まあ、きれい」メグは手元で広げ、刺繍を調べた。「ああそうね、由緒ある我が社に祈りを捧げに来いとあります。もとあった場所から移動して、子供を集めた学校もやっているとも。でも美歌さんさすがです、神聖文字を読めるとは。わたしは義務として覚えましたが、学ぶのが嫌で嫌で、いったい幾度逃げたことか」

 お福がうなずいた。「当時、指導にあたる学者たちから、メグ様の称号をスズメ姫にしたいとの冗談がありましたよ。すぐに授業を飛んで逃げてしまうから、その意趣返しに」

 部屋にいた全員が笑った。「でも」メグは懸命に話を逸らした。「こんな手の込んだ刺繍、一日じゃ無理よね。大勢でやったのかしら」

「ああ、それは簡単」なんでもないという顔でお福は答えた。「あらかじめ準備しておき、めぼしい人物の入国を知るや急ぎその名だけを入れて送るのです」

「なんのために?」

「来訪を請うためです。むろん、手ぶらで招待に応じてはダメですよ。それなりの額を寄付することが慣例です。こういうのは油断ならないんです」

 それを聞いて、皆が納得した顔になった。

「昔、母上がこのあたりの呼吸が飲み込めず、つい寄付をし過ぎてしまったって、本当みたいね」

「はい」お福がうなずいた。「たしか江津でも、治療費のいらない施療院ですとか、年寄りの世話をする施設だとかに気前よくされたはずです。もう二十年は前のことですが、こちらは忘れていても、あちらはそうでありません」


 すると、誰かがおとないを入れる声がした。お蘭が出た。

「あらー、橘さん……げほっ」殴られたような声がした。「どうしました?お蘭」

「失礼いたしました。若殿さまのお越しにございます」

 橘と蜻蛉丸を伴って訪れたのは、甥の流星だった。三人とも笑みを浮かべているが甥のは、頬の紅潮のわりにぎこちなく、どこか思い詰めた気配がある。

「叔母上、ご無理を言って申し訳ありません」

 彼は蜻蛉丸に命じて籠を出させた。そこには干した大きな貝やら魚の卵を漬けたもの、そして真珠まで入っていた。

「ご存知と思いますが、これは我が国の海産物。質は参州随一とされます」

「これを味見しろ、というのではないよね。部屋にくる理由として持ってきた」メグはにこやかに言って甥の顔をのぞきこんだ。「なにか話したいことがあるって、これに関わることかしら」

 彗星はだまってうなずいた。

「でも、ここまで立派なのは、めったに見ません。さすが海の里、江津」メグがそう言うとお福も大きくうなずいた。「昔は新年を迎えるには江津物が欠かせなかったのに、このごろはめっきりいい品を見かけなくなりました。不漁というわけではないのですね」

「ええ。いまや最高級品は藤の国ではなく、萌の国に送られています。より高い値がつくのです」

 領海はあっても、小さいうえによく荒れる萌の国は、古くから江津の海産物の上客だったのは知っていた。だが、現在は取引額において藤の国を上回るほどだという。流星はせいいっぱい大人びた顔をして言った。「果物や工芸品についてもそうなりつつあり、上から見下ろす態度の藤より、萌を大事にすべしと公言する者も、少なくありません」

「たしかに我が国には、意味なく江津を見下す者がいます。長年の間にそれが嫌われたのでしょうね」メグはうなずいた。


「だからと言って」急に激しい口調で甥は言った。「叔母上の、叔母上への態度をあいまいなままとは失礼極まりないし、叔母上の身に……」

「どういうことですか」メグは精一杯やさしく聞いたが、自分の言葉に激したのか流星は目から涙を落とし、うまくしゃべれない。ついにヒックヒックとえづきはじめた。傍で蜻蛉丸と橘がはらはらした顔をしている。気のいい兄妹は、すっかりとこの繊細な王子様に同情し切っているようだ。

「まあ、どうしたの。泣くことはありません」メグは膝をついて甥の栗色の髪をなでた。精一杯大人ぶっても、流星はまごうことなき少年である。体つきだって細いし、揃って長身の両親の血はまだ発現していない。

「お、おば上の身になにかあったら」懸命に言葉を継ごうとするがうまくいかない。ついに激しく咳き込みはじめた。


「むっ」気配を感じたお蘭がメグの前に出てきた。

 すると、「若様、僭越ながらわたくしが」声がして、灰色の影が部屋の隅にあらわれ、徐々に人の形になっていった。

 お蘭が仁王立ちになり、横に手近な棒をつかんだ美歌とお福が立ち、孔雪が素早く移動してメグを庇う形になって影をにらんだ。手に小さなナイフを持っている。

 「あら、あなた」姿を人の目に止めさせない、いわゆる霞の術を使い移動してきたのは、ストヴェだった。彼女はいったん後方に下がって膝を曲げて控えた。「たいへん失礼いたしました。他の者に見られたくないためにございます」

「この者から聞いてください。すべて存じています」と甥は言った。

 内務卿の側近がなぜ、と意外に感じたが、ストヴェは元来、幼い貴人を呪術から守る霊的護衛官として流星に仕えていたのだそうだ。


「若様に代わり申し上げます」可愛らしい声でストヴェは言った。「まず、我が国の外務卿の補佐役および国主用人の補佐役が今朝、密かに須田原に旅立ちました。いずれも実質的な責任者といえるほどの人物。また萌の国より、十余名からなる特使一団が須田原に入国したのも確認いたしました。両国は五十日ごとに定例会議を持っておりますが、これはそれとは異なります」

 須田原の国とは、江津と萌の両国に国境を接する国である。鉱山資源が豊富であり、有名な鉄騎兵がいて、政治的には中立として振る舞うことが多い。

「父と兄の遭難、それと私の処遇について話し合うためですか」

「ご賢察の通り。この手の会議によくあるように、あらすじはおおよそ出来上がり、あとは互いの顔色を見つつすり合わせを行うだけでございますが、未姫様のことのみ決めかねていて、どうやら保留になる見込みです。若殿様はそれにお怒りなのです」

「祭祀女王になられるお方の命運を、宙に浮いたままにするなど許されない」流星は憤慨したように言った。「なのに父上も母上もそれを諒とされ、家臣たちの中には調子に乗り…」

 先日、留置場でもめた役人みたいな台詞を、公然と口にするのが他にもいたらしい。流星はまた泣き出した。

「つまり当分の間、メグ様にとって不安と危険は続くと言うことですね」

 前に出てきた孔雪が言った。

「口を挟みまして申し訳ございません。しかし」

「いいの。あなたもここにいて。流星には意味がわかっています」

 

 メグは微笑みながら、甥っ子の栗色の髪をやさしく両手で挟んだ。彼の妹の持つ弾けそうな美しさや利発さに比べると大人しくさえ感じるが、大人になればきっと、凛々しく思慮深い男になるだろう。

「ありがとう、流星。でもね、お父上とお母上には、まず守らなければならないものがあるの」とメグは言った。

「まず第一に、信義ですよね」

「そうね。でもお二人は、領民に対する信義を第一にお考えにならねばならない。そのためには、ほかと矛盾してしまうことだってある。さしずめわたくしの処遇は、その代表。でも大丈夫よ、流星。わたしには頼りになる家臣がいますし、あなただって味方してくれる。今が少し厳しいのは事実ですし、わたしはおっちょこちょいの役立たずだけど、きっとなんとか、切り抜けられるわ」

「でも……」

「いいんです、流星。ここにくるのだって決心が必要だったでしょう。勇気を奮い起こしてくれたのね。うれしくて仕方ありません。けど、国の大事を他国者に軽々に話すのは考えものです。賢明な貴方ならわかっているでしょうけど。それだけ教えてくれたら十分よ」

「はい」流星はしゃくり上げながら、「ストヴェ、お前から話せることをすべて叔母上に」

「承知」ストヴェはうなずき、また語り出した。「なお会議の場所は須田原の御用取次の屋敷。すでに料理人と季節の珍味が集められました。ここはときどき、非公式の顔合わせに使われますが、今回もそうでした」

「細かいところまで見ているのねえ。そうか、あなたの鳥耳?」

 ストヴェはかすかに笑みを浮かべた。その顔をメグは遠慮なく観察した。これまでに会った霊視や呪術を生業とする人間は、すぐ近くに寄ると顔にびっしりシワが刻まれていて驚かされることがあった。だが、彼女の肌はつやつやと張り詰めていて、まだ二十を大きく出ているとは見えない。明るい室内でずきんを脱いだその素顔は、鑑定の際の分別くさった表情とは異なり、いかにも生真面目そうな若い女の子でしかない。

 このあたり、孔雪と似ている。ただし、ストヴェに孔雪が漂わせる大物感はない。孔雪に妙な貫禄がありすぎるのだ。


「当然ながら、鳥はあちこちから入り込んでいます。さりながら暴力的な邪魔が入らぬのは豪胆斎と筆頭弟子、源葉庵は会議に不参加を意味します。そして懐刀とされる妖魔使いミゲルも。そしてその代わり、建物を囲んだ塀には気配隠しの蔦と霞蛇が大量に配置されていました。すなわち鳥よりも忍び猿や偵察犬を多用する相手に気取られたくない意志のあらわれ」

「術を施した猿を使役するのは」孔雪が解説した。「都にあった北門法院の系統の術者に多い。つまり、豪胆斎の系統。それは重要な情報ですね」孔雪が言った。「どうやら、例の噂の信憑性が高まりました」

「なんです、それは」

「豪胆斎と萌の国主とは、もはや一枚岩ではない。三年前に代替わりした赤心王サラア・千尋様とは、歳の差もあって年々距離が広がりつつある、というものです」

 メグはポンと手を叩いた。

「そうそう、この前にあいつらから逃げた時も、変といえば変だった。他国に攻め入って獲物を捕縛したいなら、単に妖獣を押し立てるより、兵と緻密な網をつくって取り囲むのが確実だし、それが豪胆斎の得意技のはず。これ幸いとそのまま逃げたけど」

「おそらく、求める支援が得られなかったかと」ストヴェは言った。「豪胆斎には優れた弟子が何人もいて、常に国主のそば近くに仕える者も二名、確認されています。術師の間の噂では、いずれも大した腕前とか。しかし、そうなるとますます、ああいう勿体ぶった古狸に妖法支配をさせておく意味が薄れる」

 孔雪が付け足した。「まだ目立った事績はないものの、サラア・千尋様は英明で内外の人望は厚いとの声があります。少なくとも、策謀家肌だった父王とは気質が異なりそうです。父とはぴったりだった豪胆斎と、呼吸が合わなくなっている可能性は極めて高い」

「古いことをみんな知っている先代の謀臣って、うっとおしいものでしょうね」メグがつぶやくと、「その任にあった鳳鳴公の臣は、みな慰留を断り隠居しましたから」とお福が言った。それを聞いて孔雪は深くうなずいた。


「でも豪胆斎について知らせてくれたのは、最高の贈り物ですよ、流星」

 メグがそういうと、恥ずかしそうな顔をして流星はうなずいた。「我が国の者たちは、過去に手ひどく痛めつけられたため、あの呪術師のやることなすこと、すべて意味あるように感じ怯えています。今度の会議だって、むしろもっと堂々とすればよいと思うし、各国が力を合わせ、あの妖術師を追い出すぐらいやればいいのに」

「しかし、過度に萌に忖度する理由は妖獣軍団への恐れだけではない?」孔雪がストヴェに発した問いに流星がうなずいた。

「それが、これだ」と、持ってきた高価な食べ物を示した。ストヴェがあとをついだ。「軍事的には緊張関係にあっても、萌は商いにおいては上客です。あの国では六、七年前から季節ごとの江津の産品をいかに早く口にするかを競う『初物食い』が盛んで、今や利益は莫大です。我が国の穏やかな海岸風景を楽しむ観光も人気を呼び、年々萌からの旅客が増えています。ちなみに、これらは美良野の方様ご発案の売り込み手法が功を奏しました」

「姉上は、新しいことをお考えになるのがお好きだから」


「一方、堀内豪胆斎を警戒する理由にも漁獲物が関わっています。彼は近年、弟子のミゲルを主任とし、水中を棲家とする海魔獣の育成に力を入れています。海軍力については今なお圧倒的に江津が上ですが、駆除の面倒な海魔獣を港や漁場に放たれると、産業への影響は甚大です」

「それなら、隣国のヘンテコ公女など、二の次三の次になるわけよねえ」

「しかし同時に、別の動きも起こっているのです。それも未姫様についての」

「えっ、わたくし?」

 ストヴェは流星の顔を見てから続けた。「未姫様の入国が伝わった当初、我が国の上層のうちには、たしかに早い出国を願うに等しい台詞を口にする者もおりました。しかし、直にお姿を拝しお言葉を交わした者が増えるにつれ、風向きは変わりつつあります。宝玉のような輝きをお持ちでありながら態度は控えめ、伝統にも従順な姫様ならば、長く滞在していただいても不都合なく、なんならこの国の貴人と婚姻していただこう、と公言する者がこのところ急速に増えています。先ほども小さな騒ぎが」

 流星がうなずいて続けた。「ある有力一門の当主の息子が、ぜひ領地に未姫をお匿いしたいと父上に直訴したのです。雪兎でお会いしたらしく、あれほど可憐な姫が苦境にあるなら、一生お守りしたいと」

 メグは目をぱちぱちさせたが、他のものはそれぞれ満足そうにうなずいた。お福だけが「姫様は決して控えめでも従順でもありませぬぞ」と、どこか誇らしげに否定の弁をつぶやいた。

「そんな、我が国のふらふらする態度が、私は嫌なのです」流星は悔しそうに言った。


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