第13話 メグの姉と側近と、チビ姫
留置場の床から助け起こされ、無事に意識を取り戻した鴫法務卿だったが、今はまた上体が水平より下に下がって、床すれすれまで達している。
彼の真向かいには豪奢な二脚の椅子があり、一つにはこの江津の国主夫人である元兎姫こと美良野の方が腰掛けていて、隣には顔に湿布を貼ったままのメグが座っていた。いやおうなしに漂う独特のにおいから、(藤の薬とは成分が違うなあ)などと思っている。
壁が白く広々とした部屋は、外からの光を上手に取り込むようになっていた。美良野の方の公式謁見室にあたり、居心地がよくてお付きの衆もゆったりできるため、多くの報告はここで聞くそうだった。
「おそれながら我が国の法では、たとえ公女様に無礼を働いた場合であっても殴打のみでは当人以外を死罪にできませぬ。ただ、ことがことゆえに、狼藉を働いた役人ふたりの一族はすべて斎戒させ、奥に控えさせております。死罪以外の刑罰はすべてアルノーラ様のお望み通りにいたします。無期刑でも強制労働でも全員の手首を斬り落とすのでもご随意にお決めくださいませ。そののちすみやかに執行いたします。それと、あの愚かな二人に最後のお言葉を。処刑は今夕の予定です。牢番二名は明朝に」
「馬鹿なことはおやめなさい」メグは叱責した。「あれは、ありがちな誤解。一番悪いのは知らせもなく入国したわたくしです。あの二人はもとより、一族のだれひとり髪の毛一本切る必要などありませぬ。それに相手の身の上によって法を曲げたりしてはいけません。ふつう、ちょっと揉み合ったぐらいではなんの罪にも問われないでしょう」
「はい。しかし‥‥‥」
「そうですね、わたくしに望みがあるとすれば、相手が誰であれ法は厳正に守ること。そして必ずあの二人と牢番、および親族を解放することです。それも今すぐ。今すぐにですよ」
「ははっ」
「もし二人に言葉を与えるなら、職務の遂行に際しては、これまで以上に丁寧さと相手への思いやりに留意するよう伝えるだけでよろしい。それと、騒ぎに巻き込んだ一族に、いらぬ迷惑をかけたとわたくしの代わりに詫びてください」
「なんと、なんと慈悲深いお言葉。しかと承りました」鴫は体を床にすりつけるようにして礼をし、蜘蛛を思わせる格好のまま、退出した。
「この国は、連座が好きなのですか」メグの問いに姉は小さく吐息をついた。
「そう、歴史を見ても罪を一族に及ぼしたがる傾向はあります。むかしむかしにはそうした決まりもあったようですね。お前も知るように、わが殿は開明的な方。国を継がれて以来、よくない慣習や硬直した法の見直しに取り組んでこられたが、すべての者がすっぱり頭を切り替えられるわけもない。油断するとすぐ、一度は捨てた昔の発想が顔を出すのです」
「そうですか」
「しかし、今度ばかりはひどい目に合わせてしまった。誠にすまないことをしました」
気位の高さをよく知る姉が自分から謝ってきたのに、メグは少々うろたえた。「いえ、そのようなこと。連れたちにもご配慮いただき、ありがとうございます」
お福は意識を取り戻し、御典医の治療を受けたのち、別室で孔雪、お蘭、美歌と休んでいた。幸い症状は軽く、現在は元気だという。
彼女らは朝方までとは一転して国賓待遇の扱いを受け、昼餐の場で江津の国の重臣たちとの顔合わせという名目の謝罪もひととおり済ませたと聞いている。また、宿泊場所も迎賓館の中に準備してくれているはずだ。
メグはそっと姉の横顔を見た。やわらかな光が姉の整った顔立ちを一層際立たせている。自負心は強いが、それに見合うだけのものはすべて揃った人物だ。夫である国主も彼女を心から信頼し、なにかにつけ頼っているとは聞いている。それでも歴史ある一国を改革しようとすれば、思うように行かないことは多いに違いなく、メグの想像が及ばない苦労だってあるのだろう。姉の奮闘については、ときおり噂として伝わってはきていた。
ただし見た目だけで言えば、姉の外観からは心労によるやつれなど少しも感じられない。半年ほど会っていない間に、前にも増して貫禄がついたように思える。メグの祖母や母より、よほど女帝っぽい。
「そういえば、お前に付き従う者どもの忠義心には感心しました」と、美良野の方はまた口を開いた。「お福はもちろん、他の若い者たちも皆、主のためなら我が身を危険にさらすのに躊躇しない。理屈抜きで体を張る。うらやましいですね」
「恐縮です」
「そうそう、あの獣人。あれは元来、孔雪の手の者ですか」
「はい。あの者がなにか」
「どうやって気づいたかはわからぬが、留置場での異変を察知し、牢を破ろうとして男牢は大変な騒ぎだったそうです。というより見事に破られた。大ぜい怪我人が出たとか」
「そ、それはまことに申し訳ございませぬ」
「いや、この国の役人どもが軟弱すぎるのですよ。わが殿もまたいたく感心され、未姫どのの臣をそっくり抱えたいなどとおっしゃっています」
そして、姉はメグを横目で見ると、「実はね」
だがその時、美良野の方の座席近くに、供を連れた銀髪の女が近づいてきて、耳元でしばらく報告してから一礼し、また下がって行った。美良野の方はうなずいて言葉を続けた。「例の雲井の一族を拘束し、演芸場を閉鎖した件については、共に旅していた二人は自由にします。無実は証明されました。ですが、他の親族については時期尚早と考えます。粗略に扱わぬことはわたしが約束しますが、それ以上は無理。悪いが、たとえお前であっても、この件についてはすべてを明かせません」
「はい」
「つい先日、わが家族の命を狙う陰謀があったのは疑いない事実。それと今度の父上の件とつながりがあるのかどうか、関連を早急に調べさせています」
「そうですか」たしかに、こんなにあちこちで一斉に事件が起こるとは、どこかに黒幕がいて、火をつけて回っていると考えるべきかもしれない。
「さっきの話、実はね」美良野の方は渋い顔をして見せた。「その調べる方の責任者、我が国において内外の諜者を統括する立場だった内務卿自身が、陰謀に加担しておったのです。芦首頼母。お前も何度か会ったでしょう。雲井一族のひとりは、芦首の側近でした」
「まあ」ごく愛想のいい男だったと記憶している。
「危ないところで逆心が露見し、とりあえず対処はできた。ですがそのために我が国はいまや、他国の様子どころか国の中の情報もうまく処理できない状態なのです。いわば耳と鼻を半分塞がれたようなもの。恥ずかしい話ですが、例の内藤と萌の国の争いをしっかり把握したのも昨日になってからでした。しかし、あの豪胆斎という男は噂にたがわず、すごい術者ですね」
「なにか、ありましたか」
「国境付近や萌、藤それぞれの港については、当然ながら我々もまた監視しているのですが、それがすっかり騙されていました。つまり、萌の軍が軍事活動の準備をしていても、場所によって見逃す恐れがあるということ。わが殿は、その見直しに頭を痛めておられる」
海運国である江津の国は、漁師や船員に変装させた諜報員を使って絶えず状況の変化をウオッチさせているとの噂だったが、豪胆斎とその弟子は、それらの目を見事あざむいたということだろう。
「あっ、そうでした。叔父上のことについては、なにか」
「異変を聞き、すぐ叔父に書状を送りましたが、返事はありません。ただ、屋敷と琥珀館を往復しているのは確かめさせました。常と変わらぬ暮らしのようです。あのひとは内藤ともうまくやっておられましたし、どう転んでも生き延びるでしょう。分を弁え、いらぬ欲心を出さないでもらえると、なおいいのですが」
口ぶりが一挙に冷たくなったのは、姉と叔父とは昔からそりが合わず不仲だったせいだ。
(そういえば……)
江津は巧みなガラス工芸でも知られているが、叔父が代表の美術館・琥珀館への名品の貸し出しを断った話を思い出した。江津側の窓口は美工芸連盟という団体で、総裁は美良野の方だ。もしも、叔父が国を継ぐことになったりしたら、姉はなにかやらかすだろうか。
彼女の表情を見ていたメグの心に、ふいに浮かんだ考えがあった。
(胸の内をそっくり打ち明けているかに見せても、姉上は心の奥底にある考えを隠そう、あるいは封じようとしている。それを気取られたくないんだ。もしかしたらご自身の中でも固まってないのかもしれないけど。十中八九、後ろめたい思惑ね)
微かに口元をこわばらせたさっきの姉の表情に見覚えがあった。人の心を見抜く名人でもあるメグの母、灘の方が父、海燕公と同席する場に出た時の姉がたまにやった顔つきだ。
長姉は理性の勝った人だった。病死した生母の後添として灘の方が迎えられたのは難しい年頃だったにかかわらず毛嫌いすることもなく、むしろ義母の見識や神事についての知識を認め、教えを乞うのもたびたびだった。しかし父、海燕公が実母には見せなかった気遣いを義母に示すのを目の当たりにし、複雑な気持ちだったのだろう。時々さっきみたいな顔をした。彼女が深いところにある感情や思惑を隠そうとする表情だ。
父は父で、前妻を若くに死なせた悔悟がそんな態度に表れていたに違いないのだが、姉とその側近は、天下で最も神に近いと畏れられる国、双樹出身の年若い女にただ媚びていると思いたかったのかもしれない。
そしてメグは直感した。姉にはきっと他にも妹に明かせない隠しごとがあるのだろう。腹の中に相反する二つの考えを抱くぐらい、一国の為政者ともなれば当たり前だろうが、
(この国に、長居するのは考えものかも。いや、急いで移動するべきかな)
いまさらながらメグは強く感じた。
そんな暗い観測を吹き飛ばすように扉が開き、子供の叫び声が響いた。
「おば、うえええ」白っぽい塊が部屋に飛び込んできて、メグの首っ玉を捕まえた。
「いたた、いたたた」メグは身を竦めて呻いた。小太り役人に痛めつけられた首筋は、そう簡単に治りはしない。
「やだ、どうなさったの」メグの首に抱きついたまま、少女は喋り続けた。明るい栗色の髪は父親譲りだ。姪のセイラ・彩芽である。
「いや、ちょっと。でも元気そうですね、彩芽」
「へへへ。背が伸びたの、わかる?」
「そういや、そうだ。重たくなったのはよくわかりますよ」
「これ、姫。叔母上は少々、お怪我をされているのですよ」
姉は女官から小さな紙切れを受け取りながら、娘に言った。
「まあ、どうして」彩芽は、やっと気づいたように大きな目でしげしげとメグの頬の湿布をみた。「やだ、ひどい。でもこれ、この前わたしも貼られました。ひんやりするでしょ」
可愛い衣装を身につけているのに、髪の毛は乱れっぱなしだ。たぶん朝からこの調子で暴れ回っていたのだろう。
「法務役人に愚か者がいたせいです。死罪も検討しましたが、未姫様は決してそんなことはならぬと明言された。彩芽も叔母上のように賢く慈悲深い大人になるのですよ」
「はい、母上さま」
チビ姫が乱入してきたので、美良野の方は私室に移動することにした。さっきよりは狭いが、人が暮らしていると感じさせる部屋であり、余白には兎の絵や置き物が並べられている。
「おばうえ、いつまでこっちにいらっしゃるの?」首はやめたが、姪っ子はメグの膝にぶら下がるようにして話しかけてくる。
「そうねえ。合わせて八人おりますから、長居してあまり迷惑はかけられないとは思っています。他所へ移れるようになれば、すぐ」
「でも、どうして急に来たの?大切な神事があったのではないの?」
「それはねえ」いきなり答えに詰まってしまった。救いを求めてメグが姉を見ると、「世の中は往々にして、予定通りに行かないことがあるのです」と言った。「まだ少し叔母上とお話がありますから、あなたはしばらく外しなさい」
「ええー、せっかくきたのにい」
「後ほどじっくりお話できますから」姉は不満げな娘を侍女に命じて部屋から連れ出させ、メグを振り返った。
「そんなに慌てて出国しなくてもよいのですよ。この国にも、小さいながらあなたの領地があるでしょう」
「あれは名誉として私の所有にしていただいただけですから」
「では、どこを目指すのですか。まだ国に戻るのは難しそうです。先ほどようやく、わが殿から内藤めに送った書状の返事が来ました」
「えっ、ほんとうですか」
「それによると、父上と太郎はどちらも移動中に馬もろとも濁流に巻き込まれて不明、いまは一時的に内藤が国政を代行していると言い訳をしてきました」
メグは小さく息を吸った。たとえ家族として心の通い合った記憶には乏しくても、父と兄を襲った難について聞くと、いろいろな感情が押し寄せてくる。
「かの者はまだ城主の名乗りをあげてはおりませんし、諸侯に対して弾劾状を送ったりもしていない」
「やむにやまれず非道の主君を追放してうんぬん、というあれですね。そのうち送りつけてくるのでしょうか」
「わかりません。まだ叔父擁立の具体的な動きもないし、少々動きが鈍く感じます。なにか思うように行かなかった重大なことがあったのかもしれませんし、国の完全掌握に失敗したのかもしれない」
「なるほど」内藤家老はたしかに実力者だが、彼に対抗する存在が国内にいないわけではない。重臣たちすべてが父を裏切ったのではないと考えるのは、メグにとっても多少の救いになった。姉は続けた。
「ただし、他の重臣からの公式な書簡もまだですし、目立った武力衝突の知らせもありません。ともかく、父上も太郎もまだ存命の可能性はあるということですね。それについてわたくしも殿も、今の段階では藤の国に対しあれをしろ、これをしろとは言いません。わたくしとお前との関係と同じ。血を分けた姉妹ではありますが、それぞれ独立しています」
「はい」
「我が家臣どもの中には、萌の国によって父上が弑されたことにして、内藤たちが一挙にかの国へ攻め込むのではとの声もあったのですが、その動きも依然見られない。同時に、内藤はあちこちに人を送ってはいろいろと探らせているようです。ことここに至ってすることではありませんね。ああそうそう。父上の用人、寿言は消息不明です。とにかく、お前に助言するとすれば、事態がどう転ぶかが読めないので、下手に動かずここで時を待つうちに、よい風も吹いてくるかもしれない、といったところです」
「ありがとうございます。でも……」メグはとりあえず、今後の目的地については保留とした。これからの予定を姉に「どれぐらい隠す」かについて、孔雪たちと相談が欠かせないと思ったからだ。オープンを装う姉だって、どうせこっちに隠していることは山ほどあるに違いない。
その後、姉の近習だという杉尾、新任の内務卿だという紺野に引き合わされた。どちらも女性であり、特に紺野は美しい銀髪をしたなかなか知的な雰囲気のある人物だった。なお、内務卿は二人体制となり、もう一人男性の高桑というのもメグが退室する際にきて挨拶した。こちらは生真面目そうな男だった。
そういえば、前任の内務卿の芦首頼母とは幾度も顔を合わせ、食事を一緒にしたこともあった。太って賑やかな人物だったと記憶しているが、もう処刑されてしまったのだろうか、とメグは考えた。
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