霧の森の秘密
葉竹いま
第1話
「ねえ、知ってる? 霧の森の秘密」とマリーは言った。
僕はソファにもたれかかった。「霧の森の秘密? さあ、知らないな」
マリーはアイスクリームを舐めながら無言で窓の外を見ている。僕は彼女の口元を遠慮がちに観察する。アイスクリームのようにマリーに舐められたい。気づくと僕はそう思っている。僕は下半身のふくらみを隠すように片膝を曲げる。
「深ければ深い森、のほうがいい」マリーは食べ終わったアイスの棒で僕を指す。指揮者というよりナイフ投げ師のような動き。ふくらみがばれませんように、と願いながら僕は言う。「深い森のがいい」
「そう。そして満月の朝が最適なの」マリーは棒で空中に円を描く。
「満月の朝」と僕は言う。マリーは言葉を繰り返されることを好む。カエルの合唱みたいでステキでしょ、と彼女は言ったことがある。感受性が鈍い僕としてはステキとは思わないがそんなことで喜ぶならずっと、もし可能なら永遠に彼女の言葉を繰り返すだろう。
マリーは棒を僕に渡し、冷蔵庫のドアを開けアイスクリームを出し、袋を開ける。彼女は袋を蝶のようにひらひら舞わせゴミ箱へ入れ、窓辺に戻り、アイスを舐めだす。僕は棒を舐めたくなる衝動を押さえ、彼女の横顔、いつも眠たげでどこを見ているのかわからない瞳、すっと通った鼻筋、そしてぷっくりとした唇の光沢を順にみた。
今朝、マリーは突然、僕の住むアパートに来た。課題でわからないところがあると言った。彼女とは大学、学科、年齢が同じ、ようするに同級生だ。僕たちは大学二年で夏休み。ふたりが出会って一年以上たつ。
「これ、お土産ね」マリーはエコバッグを僕に渡し、部屋に入った。同じ種類のアイスクリーム六個と透明な容器に入ったブルー・ベリー。僕はアイスを冷凍庫に、ブルー・ベリーを冷蔵庫に入れた。彼女は小ぶりなバックパックを床に置き、ダイニング・チェアを窓辺へ移動させた。マリーが僕の部屋に来るのは初めてなのに彼女の動きは、すべていつもどおり、という感じだ。
マリーはいつもどおりのように冷房を切り、窓を開ける。「気持ちいいよ、風」。彼女は両腕を頭上に伸ばし、ふり返る。彼女の胸のふくらみがくっきりわかる。彼女は息を吸い、吐きならが言う。「夏のにおいがする」
部屋の入り口にいる僕としては風は感じないし、夏のにおいもわからない。しかしマリーの首筋や手首から漂う百合の花みたいに甘く、ねっとりとした香りはわかる。マリーの部屋の香り、と思うと同時に僕の下半身がうずきだす。高鳴る心音を落ち着かせるため深呼吸する。「だね、夏のにおいがする」
「それでね、その秘密を知るためには準備が必要なの」マリーは棒で空中に四角を描く。
「準備?」
「そう、準備。まずは豆。大豆ではなく、ひよこ豆。しかもオーガニック。豆は生命を象徴している。それから塩。白い食塩ではなく、ヒマラヤで取れたピンク岩塩。塩は海の食べものだから。そして種。人間が交配した種は駄目。在来種の種だったらなんでもいい。種は大地と家族なの。次は鳥の羽。巣立ったばかりの鷹の羽が一番いいけれど、道に落ちてるカラスの羽でもだいじょうぶ。羽は空の子供なの。あとはね、モルダバイトという名の天然ガラス。モルダバイトは隕石が落ちたとき、地球の石などが溶けてできたものなの。天然ガラスは宇宙の忘れもの。他にもあるのよ。大変でしょ」マリーは棒で空中に波模様を描く。波形の残像が宙に浮く。すべての言葉を繰り返すわけにもいかず僕は言葉尻だけ繰り返す。「大変だな」
マリーは満足そうにうなずき話を続ける。「他にはね、結ばれていない男女が必要」
「結ばれていない男女?」
「要するにセックスしていない男女。君と私のように」マリーは棒で僕、自分と指す。
僕は唾を飲みこむ。「君と僕のように」
「あやしい儀式の『いけにえ』みたいでしょ。それでね、二人が満月の朝、必要なものを持って、深い霧におおわれた森に行けば秘密がわかる」マリーは棒を水平にし、架空の鍵穴にさしこみ手首をねじり、透明なドアノブに手をかける。「ねえ、もちろん行くでしょ」
「もちろん。もちろんだよ、行くに決まってるよ」あたりまえだろ、最高だよ! 僕は心の中で叫ぶ。「じゃあさ、まずひよこ豆買おうよ。たぶんアマゾンで売ってるよ」僕は棒で空中にAと描く。
「ネットで買うのはタブーなの。だって古代人はネット・ショッピングなんてしなかったでしょ」マリーは棒で空中に×を描く。
それから僕たちはすぐに部屋を出て、電車を乗り継ぎ、青山一丁目駅で降りた。マリーが言うには青山にオーガニック専門店があり、そこにひよこ豆が売っている、ということだ。駅を出たら彼女は僕がいないかのように無言のまま店に向かう。彼女は普段から速歩きだが今日はいつもに増して速い。背筋を伸ばし花柄のワンピースをなびかせながら歩く姿は、ランウェイを颯爽と歩くファッション・モデルのように美しい。
「ほらね、あったでしょ」マリーはひよこ豆の入った袋を僕に手渡す。
「さすがだよ。この店よく来るの?」
「たまにね。ここ、ヨーロッパ製品が多くて海外のスーパーにいるみたいで楽しいのよ」と言ってマリーは別のコーナーへ行く。確かに商品棚は外国語のものばかりだ。
マリーはオーガニック・アイスクリームを、僕はなぜかオーガニック歯磨き粉を買った。彼女がイートイン・コーナーでアイスを食べている間にヒマラヤピンク岩塩が売っていそうな店を検索する。すると背後から彼女の声がする。「ちょっとこれ、食べてみる?」
僕はスマホを落としそうになる。嘘だろ、なんのご褒美だよ。最高だぜ今日は!
「じゃあちょっとだけ、食べてみようかな」
なるべくクールに答え、髪をかきあげマリーのとなりに座る。もちろん「あーん、して」はなく(あったら奇跡だ)、彼女はカップと新しい使い捨てスプーンを(だよな、別だよな)僕に渡す。スプーンでの間接キスは夢に終わったが、クリームでの関節キスは残っている。
「これって結ばれたことにはならないんだよな」僕はパニクったことを言ってしまう。彼女は無言のままスマホの画面を見ている。「いや、なんでもない」僕はスプーンに向かってつぶやく。
あせってはいけない、と自分にいい聞かせる。僕はマリーが食べた箇所を紳士的によけてアイスクリームをすくう。
「うまっ、こんな美味いアイス初めてだ。やっぱセンスいいよ。なにやっても天才的結果をだすよな」。やりすぎぐらい大げさに、がマリーをほめるコツだ。
「でしょ」マリーは満足そうな笑みを見せ、僕の肩を彼女の肩で押す。僕は鼻がふくらむのをおさえるが、結局ふくらんでしまう。
「それとね、さっきの話。なるわけないでしょ、結ばれたことになんて。もしそうだったら世の中の男女は皆、兄弟姉妹よ」
「だよね。そうだよね」聞いていたんだね、マリー。
それから夕方まで僕たちは必要なものを買ったり探したりした。それでも必要なものはすべてそろわなかった。
「続きは明日? それともあさって?」とマリーは言った。
「明日なら夜まで、あさっては夕方までならだいじょうぶ。夜はバイトなんだ」
「じゃあ明日。せっかく集めたんだからなくさないでね。バイバイ」。マリーは僕の肘をつねり、改札を通った。僕は彼女の後ろ姿を、肘をなでながら見つづけた。
それから毎日のように僕たちはマリーが必要だという物を探し、手に入れた。買えるものは店に行って買えば良いので楽だったが、売っていないものを探すのが大変だった。一日中歩きまわり、見つからないこともあった。それらは不思議なことに、別日に違うものを探しているとき、見つかることが多々あった。
たとえば「干からびた雨蛙」。
井之頭公園を一日中探しまくり見つからず、三日後、「ペチャンコになったコカ・コーラの缶」を見つけている最中に「干からびた雨蛙」を発見、という具合だ。そういうときにマリーはいつも独り言をいった。「時間っていたずら好きね」
一ヶ月後。僕の部屋は、骨董品から漢方薬まで売り買いするような怪しい質屋のようになりかけていた。道で拾ったものはビニール袋に入れ、買ったものはそのままの状態でダンボール箱の中にしまってある。生ものがないことはありがたかったが、ミイラ化した両生類やハ虫類、昆虫の抜け殻はいくつかある。
夏休みは残り一ヶ月。マリーと毎日のように会えるのは嬉しかったがさすがにヘンテコなものがこれ以上増えるのは嫌だった。必要なものリストがあれば、残り後いくつと数を数えられるのだが、マリーはそういうものを持っていなかった。会うたびに今日のミッションは〇〇、と彼女は言った。だから後どれくらいで物がそろうのか、僕は知らなかった。だったら訊けばいいじゃん、と思うかもしれない。もちろん僕は訊いた。そうしたら彼女はこう言った。「ミッション終了後、次に必要なものがわかるの。だから私もこれから何を見つけるかはわからない」
本当なのだろうか。干からびた雨蛙が見つからなかったとき、次はペチャンコになったコカ・コーラの缶だってわかっていた。
「それって誰かが指示してるってこと?」
「ちがう。そういうんじゃないの。私がわかるのよ次が何かって。人生の縮図みたいなものよ」
「……よくわからない」
「それでいいの。よくわからないでいいじゃない。人生なんてわからないことだらけよ」
それ以上訊くとさらに迷宮入りだなと思い、話はそこまでにした。
着信音で僕は目覚める。マリーからだ。
「次のミッションがわかった。でもね、少し遠いから泊りがけになる。二、三日あれば大丈夫なんだけど明日から平気?」。いつだってマリーは突然だ。ていうか、泊まりだって!? 夢じゃないよな、と頬をつねってみる。……痛みあり。
「ちょっと待ってて」、すぐさまカレンダー・アプリをタッチする。友達と会う約束とバイトがすでに入っている。もちろん全部キャンセルだ。
「えっと、空いてればいいんだけどな。……いける行ける、行けるよ。ちょうど空いてたよ。それより遠いって、どこ?」
「私は南が良かったんだけど、北だって」マリーは誰かの指示かのように言う。
「北って、群馬とか栃木とか?」
「だったら日帰りで行けるでしょ。北海道よ。今の季節なにが美味しいかはわからないけど、うにいくら丼は一年中あるんじゃないかな」
「美味いんだろうなあ。想像するだけでよだれがでちゃうよ。ていうか、飛行機で?」
「もしかして高所恐怖症? あるいは重力恐怖症」
「いや違うけど、……バンジージャンプじゃないならだいじょうぶ」興奮で頭がこんがらがる。
「遊びに行くわけじゃないのよ。秘密のため、まじめに北海道に行くんだから。ちなみに私はバンジーもスカイ・ダイビングもしてみたいけど。それより今回のミッションは笑えないんだって」
ミッション・アンラフブルと僕は思いながら「笑えない?」と言う。
「ほんとに笑えない。だってね、今回は『マリモ』なの」マリーはくすくす笑う。
「マリモって緑色で丸くて湖の底でころころしてるやつ?」ついつい笑いがこぼれる。
「しかも天然もので。といっても、北海道の空港で売ってるかもしれないけど」
探せばきっと東京でも手に入るだろう。でも言わない。
「ねぇ、笑すぎ」
「だってマリモだろ。一緒じゃん、名前」
マリーの本名は『まりも』、風間まりも。名前の由来は、両親が北海道旅行したとき授かった子だから、らしい。子供のころから「変な名前」だと、からかわれたから自分の名前がずっと嫌いだったが年を重ね、さまざまな人たちに出会い、多くの本を読み、「変な」という言葉について新しい考えを学び、「変な」は、時代や国や地方や学校や家族がつくりだした幻想のようなあやふやなもので、そんなぼんやりしたものである「普通」という名の幻が、法律のように守らなければならない正義だと信じている人々の「普通」が変化すれば、同時に「変な」も変化すると気づいてから、そこまで悪くないかもと思えるようになった。だって日本語を知らない人が私の名前が「まりも」でも変な名前って思わないでしょ。でもマリモが、湖の底に沈んでいる丸い藻だって知ったら変って思うかもしれないけど。それでもネイティブ・アメリカンなら変って思わないかもしれない、だって彼らの名前は詩的だから、と前に彼女は言っていた。それでもやはり長年嫌だったことを好きになるのは難しいのだろう。彼女は仲良くなった人に対し、「まりも」や「まりもちゃん」や「まりちゃん」ではなく、「マリー」と呼んでね、と言った。
「じゃあ明日、羽田か成田で。あとで連絡するね」
僕が返事をする前に電話は切れた。
翌日の朝七時、僕たちは羽田空港に集合し、十時三十分には新千歳空港へ到着した。東京は残暑が続いているが、北海道はすでに秋に入っていて上着がなければ肌寒かった。せっかく北海道へ来たのだからマリモの生息地で有名な阿寒湖を目指すことにする。マリーが下調べしたレンタカー会社『フラワーふらふら』は札幌駅の近くにある。空港内でレンタルしようと僕は言ったがマリーはどうしてもフラワーふらふらが良いらしい。
ずいぶんと変わった店名だと思ったがレンタカーはさらに変だった。レンタカーのほとんどがキャンピングカーで黄色やピンク色の外装、花や幾何学模様が手書きで描いてある。それらを誇らしげに説明する男性店員は、しっとりとした髪が肩下まで伸び、丸メガネをかけ、口元はもみの木を逆さにしたような髭でおおわれている。虹色の風船がいくつも飛んでいる白地のシャツ、ベルボトムのブルージーンズ、銀色のスニーカーという奇妙な格好をしている。『ジョン・レノン』ってあだ名かもな、と僕は思った。
キャンプをする予定のない僕たちは普通車を借りるが外装は黄色、カラフルな花々がドアに咲くようにぎっしり描いてある。僕たちが車を選んでいるとき店員は、やる気がないのか髭をいじりながらスマホを見てばかりいたが、車を決めたときだけ愛想よく「ハッピーフラワー三号。ナイス・チョイス。よかったらこれ読んでみて」と言い、小冊子をなぜかワイパーにはさんだ。表紙は森の写真。冊子名は「レインボー」、特集「大自然にとけこみ、ナチュラルに生きる」。僕は小冊子とバックパックを後部座席に置き、運転席に座った。マリーは助手席に座り缶ビールに口をつける。「ジョンがくれたからしかたないのよ。冷えてるうちに飲みなラブ・アンド・ピース、って言ったし」
だよな、やっぱ似てるよな、ジョンだよな。
マリーはジョンに手を振っている。僕は、あいさつ代わりにクラクションを鳴らす。フォンフォーンという行進が始まりそうな、あるいはフラワーシャワーが宙を舞っていそうな音。車に負けずクラクション音も個性的だ。音が鳴りやむとジョンは初めて笑顔を見せ「ナイス・サウンド!」親指を立てた。
阿寒町に着いた頃には、すでに日が沈んでいた。夜になったばかりの空には金や銀や赤に、きらきら輝く星が東京の何倍も、ぎっしり散りばめられていた。
僕たちは予約済みのホテルにチェックインした。残念ながら別々の部屋だ。荷物を部屋に置き、ホテル内のレストランで夕食をとった。食後、マリーが眠いというのでその日は解散することにした。明日は早起きね、おやすみとマリーは言ってドアを閉めた。
シャワーを浴び、髪を乾かし、布団にもぐる。長距離移動の疲れをふんわりした心地よさが包みこむ。マリーはもう寝たかな、と思うと同時に眠気がすっと消える。ドアからもれる青白い光が室内をぼんやり照らす。壁のしみ、それが密かに動くかのように僕の目線は天井から壁へ、じわじわ移る。
見えるはずのない壁の向こうにピントを合わせようと無駄な努力をしてしまう。この壁の向こうにマリーがいる。もしかしたら彼女は今、裸かもしれない。どんな形でどんな色のパンティを身につけているのだろうか。寝るときはブラジャーをつけないのだろうか。どんな形の乳房をしているのか。僕は壁に耳を押しつけ、透視できるはずのない鼓膜に視神経を集中させる。
もちろん何も見えず、さらに非常に残念ながらしっかりした防音壁で、聞こえたのは僕の荒い鼻息だけだった。
翌朝五時三十三分。僕とマリーは阿寒湖を目指す。といっても歩いて行ける距離だ。
「なんだかあっけなく着いちゃたね。もっと冒険があると思ったのに」マリーは残念そうにベンチにすとんと座る。
「だね」僕はマリーのとなりに、すき間をあけ座る。湖面は朝日を波型に反射している。鳥たちの鳴き声がキラリ光るように右から左へ通過する。僕は目を細める。目線は湖面の輝きに、意識はマリーに注ぐ。
まさかの事が突然起こる。もちろん僕は準備できていない。だから『まさか』なのだろうが。
僕の左肩にマリーが頭をちょこんとのせる。肩がびくりと震える。嘘だろ、と叫びそうになる。さらに彼女は僕の腕に両腕をからめる。しかも、ぎゅっとする。
「ちょっと寒いから」聞いたことのない彼女の声質は蜂蜜のようにとろり甘く、僕の耳の中へするりと入る。
「ああ」返事になりきれない返事は、喉の奥で詰まったように響く。
「そのまま、そのまま聞いてくれる?」
僕は黙ったまま肯く。
「まずはお礼を言うね。ここ一ヶ月ほぼ毎日、意味不明なもの探しに付き合ってくれて。ありがとう」
僕は首をゆっくり横に振る。「意味不明じゃないよ。秘密を知るためだから」
「うん、そうだね。そうだったね。ごめんね。意味不明じゃないよね」マリーの声は弱弱しく震えている。「それでね、集まるの全部。今回で」
「えっ」僕は顔を回す。マリーの髪と僕の頬がこすれ合う。僕はすぐに元に戻る。「ということは、ついに森の秘密がわかるんだね」
「霧の森の」
「霧の森の秘密」
「でもね。私としてはまだまだいろんなものを君と一緒に探したかったんだ」マリーは指に力を入れる。僕もだよ、と思うが動揺が、心音の高鳴りが声を変化させる。「そうだね」
「ねぇ、わかってると思うけど私」
マリーは顔を上げる。僕は彼女を見る。彼女に近すぎてピントはどこにも合わない。彼女は秘密をもらすかのような声でささやいた。「けっこう楽しかった」
僕は、そうとう混乱していたのだろう、思ったことを声にしてしまった。「キスは結ばれたことに、なるのかな」
マリーは息が止まったかのように静止し、それから僕の肩に頬をあて、あまえる猫のように首をゆっくり振った。「ならない、と思う」
「と思う。……なるかもしれない」
「なるかもしれないし、ならないかもしれない」
僕はもちろんキスしたかった。でもキスが結ばれたことになるならば、一ヶ月の苦労は無駄になる。しかし一瞬だろうがマリーとのキスに比べたら、たいしたことではない。と思っているくせに僕はかっこつける。
「じゃあさ、霧の森の秘密がわかったらキスとかするってのはどうかな」ぜんぜん、かっこいい感じじゃないな。
「キスとかの、とかってなに?」マリーはいつものいたずら顔になっている。
「それはほら、キスにもいろいろ種類があるだろ。浅かったり深かったり。フレンチとか、探せばイタリアンやスパニッシュや和風だってあるかもしれない。ロシアは寒すぎて屋外ではキスできないかもしれないけど家の中なら大丈夫だよ。ウォッカを飲めば内臓からしっかり温まるだろうし。とくに個室なら他にもやることがある。たとえばオセロとか。だからキスとかって言ったんだ」僕は何を言ってるんだ? 「もちろんポーカーでもいいし、もっと別のことでもいい。なにせ暖炉があるから寒くないし」
「ねえ、それってセックスのこと言ってるの?」まったくマリーはストレートすぎる。
「いやちがう、そうじゃなくて、あれだよ。ほら、ロシア人が好きな赤いスープ、あれをすすりながらウォッカを飲んで、それから、」
「私と、したいの?」
あたりまえだろ、と言いたいが言葉は、どこでどう変化したのかわからないが愛の告白のようなものになった。
「知ってると思うけど、マリーのこと好きだから」
マリーは僕の腕をぎゅっと握りしめ、ぱっと離し立ち上がる。彼女のぴんと伸びた背中に吸いよせられるように僕も立つ。
彼女は振り返り「知ってるよ。やっと言ったね」と言って僕に抱きついた。
「いいわよ、秘密を知ったら、私たち。暖炉のある部屋で」。そこまで言うと彼女は僕から離れ歩きだす。
「で、それで暖炉の部屋で、どうなんだよ」
僕が追いつきそうになるとマリーは走りだす。僕も走るがマリーのほうがぜんぜん速い。鳥たちのさえずりと彼女の笑い声と僕の呼吸音。無縁であろう音たちが、早朝の澄んだ空気によって親密に重なり合う。今この瞬間を、この幸福を、ずっと感じていたい。僕はそう願い、彼女の背中を中心に流れ去る風景を、吸いこむように見続けた。
北海道から東京へ戻り三日後。僕たちはレンタカーを借り、夜中に東京を出発し、山梨県へ向かった。
午前四時二分。富士山の麓に広がる深い森、樹海に到着した。空はこれから、夜へ向かうかのように青黒い。沈みかけの満月が西の空に、ぼんやり浮かんでいる。霧の森はここだとマリーは言ったが霧はかかっていない。自殺の名所で有名な森だけあって入り口にある看板に、赤黒い大文字で「命を大切にしよう」小文字で「やりなおせない人生はありません。今からでもおそくはありません」と印字で書いてある。これを見て考えなおした人はいるのだろうか。
マリーは僕の考えを見透かすように、しかし看板に向かって言った。「そんなの考えたでしょ。何度もなんども、死にたくなるまで」
僕たちは遊歩道を脇道にそれ、森の中へ入った。死体に出会いませんよに、と祈り、同時に迷子にならないために樹の幹にテープで印をつけ、奥へ進む。もしこの印が取れたら、という不吉な予感をふり払うように目線を上げる。太陽はまだ出ていないが枝葉のすき間から見える空は明るくなってきている。朝でよかった。今が夜だったら、と思うだけで寒気を感じる。
歩き始めて十五分ほどしたときマリーは足を止めた。「これ以上奥に行くと死者がいるかも」
死者がいる? 変な言い方だ。死んでいる人は、もういないのに。「なるべくだったら会いたくないよね」と言うが、絶対会いたくないと願う。
これから何をするのだろうか。一ヶ月かけてそろえた物たちを何に使うのか、どうやって秘密を知るのか、そもそも何の秘密なのか、なぜ秘密が霧の森にあるのか、僕は何も知らなかった。僕としてはマリーと一緒に居られることが楽しかった。それでも以前一度だけ、秘密について訊いたことがあった。
「秘密はなぜ、霧の森の中にあるのかな」
「……私も、わからない。……霧が、霧に感情があるとして、心底隠したい特別な秘密なのかもしれない。あるいは『誰か』の秘密が、『誰か』から生命を奪いとり、生きているかのように自分からこっそり霧の中にまぎれこんだのかもしれない。それとも別の理由かも」
「よくわからないな」マリーの言葉が霧の中にあるみたいだ。
「なんでもかんでもすぐにわかっちゃったら、人生つまらないでしょ。スマホ片手にソファに寝そべったまま、謎だらけの殺人事件を解くコナンくんなんて、誰もみたくないわよ。だから世の中には、ネット上になくて霧の中に隠れている秘密があったほうがいいの」
「でも僕たちはその秘密を知ろうとしている」
「いいのよ、私たちだけが知れば。秘密を知ったことを秘密にしておけばいいでしょ。そうすれば私たち以外は秘密のままなんだから」
「もし僕がその秘密をネットに書き込んだらもうそれは、単なる知識になってしまう」
「そんなことしたらあなたね、森の神さまに呪われるわよ。載せた翌日には髪の毛がごっそり全部ぬけちゃうんだから。そして君は、公開したことを後悔するんだから」
「なんだよ、それ」公開と後悔。でもマリーはそのことに気づいていない。彼女は腕を組み、怒りをおさえるかのように唇に力を入れている。
「ごめん。そんなことしないよ。絶対にしない。約束する」。
それ以来、霧の森の秘密について訊ねることはしなかった。
マリーはバックパックを地面に下ろし中を覗いた。「それにしてもよくこんなに集めたわよね」彼女はバッグに手を入れ、小皿を出した。子供がいたずら書きしたような河童が描いてある。彼女は皿を僕の手元に差しだす。皿を手にした瞬間、記憶の声が聞こえてくる。「ぜんぜんないな、河童の小皿。」「じゃあ描けばいいのよ、君が。」仕方なく僕は描く。皿を手にしたマリーはくすくす笑う。
マリーは小皿をしまい、次に竹とんぼを出す。「人間もこうやって回転すれば飛べるのかな。」「わからないけど、もしかしたら挑戦した人がいるかも。」「ねえ今度、実験しようよ。」「たぶんというか絶対だろうけど、僕が飛ぶ役なんでしょ。」「あたりまえ。私にはね、小さいけどおっぱいがあってバランス取れないから。」僕にだって(サイズについては、ブラジャーのようにアルファベットで表すことができないからわからないが)おちんちんが付いていてバランスはとれない、とは言わなかった。
マリーは竹とんぼをしまい、赤い巾着を出す。中にはB5サイズの消しゴムが入っている。「こんなでかい消しゴム誰が使うんだよ。筆箱に入んないだろ。ていうか、売ってるのが奇跡だよ。」「消しゴムだから筆箱へ、なんて誰が決めたの? 逆に消しゴム入れにエンピツを入れたらいいと思うけど。」マリーは翌日、巾着を作り、B5サイズの消しゴムとエンピツを入れ「巾着革命によってエンピツ中心の時代は終わり、これからは消しゴム中心の時代が始まるのだ」と演説するかのような声で宣言し、巾着をチャンピオン・トロフィーのように頭上にかかげた。
僕もバックパックを下ろし中の物を出した。干からびた雨蛙は折れないように透明なプラスティック・ケースに入れてある。「水を入れたら、その蛙、生き返るかも。」「かえる生きかえる。」マリーは呪文のようにつぶやく。「かえる生きかえる。生きかえるかえる」。
陽をさえぎり重なり合う樹々の根元で僕たちは、パックパックから交互にものを出し、思い出を語りあった。記憶は物に染み込んでいて、いつでも蘇る。とくに深い森の中ではくっきりと。もう過ぎ去ったはずの出来事がいま目の前で、起こっているかのようになめらかに再生される。
そんなことを考えたら、不気味で居心地の悪いはずの樹海の中が別世界のように見えてきた。この森は、時間を逆さまにしてしまうほど特別な場所であり、だから闇の中へ消えてしまった記憶に命が吹きこまれ、色彩ゆたかなあの時が鮮やかに現れる。もしそれが真実なら、人生最後の地にここを選ぶ者がいるのは肯ける。彼、彼女たちは見たくない現在を森の外に置いてきて、過ぎ去った大切なあの時を森の中でとり戻せるのだから。
最後に僕はマリモを出した。マリモはガラス瓶の水底に沈んでいる。天然ものだからなのか円形はいびつだ。「同じマリモでもこの子は瓶の中に、私は肉体の中に閉じ込められているのね」とマリーは言った。
「肉体の中に?」……この手も脚も内臓も自分だ。でもマリーは自分と肉体は別だと言う。意味がわからない。もし違うのなら、この腕は誰のものなんだ?
「私たちは勘違いしてるのよ。大いなる勘違い」彼女は自分の胸を指さす。「これだけが、肉体だけが自分なんだって思ってる。でもね私は、そうではないと感じる。魂とか輪廻転生とか、そのてのスピリチュアルな話ではなく、もっと簡単で単純なこと。でもね、単純だけど説明できない。したくてもできない。だって私たちが、言葉を知るよりもっと前から『それ』は在るから。説明しちゃうと、すべてが嘘になってしまいそうだから」
マリーは顔を上げた。樹々のすき間からこぼれる陽光が、花嫁をおおうベールのようにゆるやかに波打ち、彼女の目元をやわらかに照らした。
「きり」と彼女は言い、手で顔に影をつくった。「霧でないね」
「もし出なかったらまた来ればいいよ」と僕は言った。マリーは首を振る。
「今日が最初で最後なの。二度目の経験は、純粋ではなくなるから」マリーは木に話しかけるように樹皮を撫でた。
僕たちは巨大な倒木に座り、霧が出るのを待つことにした。数時間待ったが天気予報は外れ、天候が崩れることはなく午後になっても晴天が続き、夕方になっても霧はでなかった。
けっきょく僕たちは秘密を知ることなく樹海から出た。
車が発進するとマリーはすぐに目をつぶり、眠りに落ちた。赤信号で車を止めるたび、彼女に目線を移した。街頭に照らされるマリーの寝顔を見ながらため息まじりに「今日で終わりか」と何度も思った。
三日後。僕とマリーはキスをした。そしてキスとかの、「とか」へ僕たちは、上流から下流へながれる雪どけ水のように自然のごとく滑らかに進んだ。僕たちは抱きしめあったままベッドへ倒れこみ、お互いの服を慎重に、ゆで卵の殻をはがすかのように脱がせあい、裸になると再び抱きしめあって舌をからめあう深いキスをし、さらに舌に吸いつきあい深い深いキスをし、三日前にさまよった森、樹海のように闇でさえ吸いこんでしまいそうなキスをして、お互いの首筋や耳の裏の皮膚を遠慮がちに舐めあった。
そして僕とマリーは結ばれた。
「これでもう永遠に私たち、霧の森の秘密を知ることはできなくなったわね」とマリーは少しだけ悲しそうに、僕の腕の中で言った。三日前で終わったはず、なんて僕は言わない。「そうだね」でも僕は、秘密を知るよりこうやって、君を抱きしめているほうが良いに決まっている。
それから二日後、マリーは大きなバックパックを背負ったままアパートのチャイムを三回押した。ドアを開けると彼女はいつもの笑顔を見せ「よろしくね」と言った。何がよろしくなのかわからないが「よろしくね」と僕は返した。彼女は「ほんとによろしくだよ」と言った。意味不明でも「ほんとによろしくだよ」と当然のように返す。だってマリーは言葉の繰り返しが大好きだから。
よろしくね、は本当によろしくだよ、だったらしくマリーは僕の部屋に住むようになった。彼女は私物をバックパックで運び引っ越した。今の住まいと僕の部屋を二往復しただけだった。マリーはろくに物を持っていなく、服は僕の服と合わせてもクローゼットにしまえる量で、靴は三足、本は七冊、そのほか化粧用品や教科書などはバックパックにしまえる量だった。シェアハウスに住んでいたマリーは、冷蔵庫や洗濯機などの電化製品はもっていなく、家具も部屋に備えつけだったらしい。
住まいを解約し、マリーは僕と長く同居するつもりなのだろう。もちろん僕は嬉しかった。ただ、違和感も同時にあった。彼女は僕に何も相談せずに越してきた。それに対して、いら立ちはなかったが不安を感じた。たくさんの人々が足早に前へ前へと進んでいるのに僕の両脚はまったく動かず、そのうちに誰もが通りすぎ僕は独りになり、目に見えるものは永遠に続きそうなまっすぐな道と人々の足跡だけ。人間の気配が残った静寂のなか、僕はこう思う。「だれも僕に気づかなかった」。そんな夢にうなされたとき感じた不安に、どこか似ていた。
でも今は、マリーが僕を求めてくれる幸せを味わうことが優先だ。
森に行ってから一週間後の朝、目覚めるとマリーが僕の腕のなかで眠っている。そんな朝をむかえるなんて想像できただろうか。できる訳がない。マリーはむにゃむにゃと何か言って寝返りをうつ。しびれた腕をゆっくりと動かし、僕はベッドからするりと出る。今までと違う香りがふわり漂う。部屋は同じなのに何もかもが変わってしまったかのように感じる。
僕は冷蔵庫を開けミネラル・ウォーターを飲む。すると昨夜マリーが言ったことが頭をかすめる。「私たちこれから秘密をつくり合う仲になるのね」
「なるべく秘密はなし、のがいいよ」
「それは無理。赤ちゃん以外、秘密のない人間なんていないわよ。自分が人間なんだって意識したときから人は、秘密を抱えてしまう。でもね、私たちがこれから隠すであろう秘密は特別なの。だってあの秘密に似てるから。霧の森に置き去りにされ、いまだに樹海の中をさまよっている、迷子の秘密にそっくりな秘密」
半年後。マリーは大学を辞め、僕の部屋からいなくなった。彼女はなんでもかんでも突然だった。
ノートを破った置き手紙にはこう書いてあった。
急にいなくなってごめんなさい。他に好きなひとができた訳ではないの。今でも君のことが好き。でも、ひとりになる必要ができたの。どうしてもさけられないことで、私がどうこうできることではないんだ。ずっと君といたかったけど、しかたなかった。ごめんなさい。ひどいことをしてるって、わかってる。君を深く傷つけるだろうと、わかってる。だからもう、ここにはもどらないつもり。本当はこんなことしたくなかったんだけど、ごめんね。今までありがとう。それと最後にお願いがある。残ったものは売るなり捨てるなりして処分して。君と出会えて、秘密を共有できて嬉しかった。
手紙を読み終わり、まず思ったことは「秘密の共有なんてした覚えはない」だった。それから僕は、手紙を破ろうとする手を押さえこみ、ソファーを何度もなんども殴った。マリーがいなくなった理由がまったくわからず悔しかった。僕はマリーのことを何も知らなかったんだ。彼女は、僕なんかが想像できない深い闇を、心の奥に隠していた。僕は彼女が隠していた闇、『秘密になってしまった何か』に気づかなけらばならなかった。でも、できなかった。自分の鈍感さが憎い。彼女に言わせてあげれなかった。彼女に秘密をつくらせてしまった。
秘密という言葉を切り刻み、殺してしまいたい。
ソファーは、僕の怒りと悲しみを受け止めるかのように無言のまま殴られ続けた。
マリーにはもう二度と会えないだろうという確信と同時に、もしかするとマリーのことだからひよっこり現れるかもしれないというわずかな希望もあった。僕はひょっこりの方に賭け、彼女の私物は捨てずにとっておくことにした。
春は、桜ふぶきのようにさっと過ぎ、夏は地上に出た蝉の命のように短く、秋は山に沈む夕日のように足早で、赤黄色の夕空を青黒色にじわじわそめる夜空のように冬が来た。その年の関東地方には記録的大雪が降った。積雪が強固なアイスバーンとなり交通事故が多発し東京だけで十七人が亡くなった。凶器と化した雪は、水になることを拒むかのように何日もかけてゆっくり溶けていった。街路樹の新芽が出るころに僕は大学四年生になった。
親のコネで地元の役所に就職できる僕にとって今年は、まず落ちることはないだろう公務員試験の合格と、卒業のための単位取得だけ考えればいい気楽な年になる予定だった。しかしマリーがいないことで気楽になんてなれなかった。マリーが去ってからの一年間、僕は人に会わなくなり、独りでいることが多くなった。受験生のように夜遅くまで勉強し、食事は一日一、二食になり、カフェでのバイトを辞め、リモートで働くようになった。体重は十キロ落ち頬がこけ、全身の皮膚が漂白したみたいに色落ち、目の下だけが黒くなった。
そんな生活をまた一年続けるのかと思うと胃が石のように硬くなり、酸っぱい臭いが口の中でひろがった。消えてしまいたい、死ねばこの苦しさはなくなるんだと真剣に考えることもあった。そう考えるといつも、あの看板の赤黒い文字が脳裏をよぎった。「命を大切にしよう」「やりなおせない人生はありません。今からでもおそくはありません」。それから看板にはない言葉が最後に聞こえた。「やりなおせない人生はあるかもしれませんが、過去はとり戻せません。彼女はもういないのです」。
僕はこの生活をやめなけらばならない。マリーを完全に忘れるなんて不可能だが待つことはやめると決め、そのためには新しい彼女をつくることが良いだろうと思った。新しい彼女ができてもマリーへの気持ちをすぐに消すことはできないだろうが、時間と共に少しずつ無くすことができるかもしれない。だからといって好きな子がいるわけではなく、気軽に連絡をとれる異性もいない。マリーと接点のない子を連絡先から探した。カフェのバイトで知り合って一番話しやすかった子に、メッセージを送った。返信はすぐにきて、会うことになった。
彼女は、マリーと反対のような性格で、消極的でおとなしく刺激の少ない子だった。記憶からすぐに消えてしまいそうな目と小ぶりな鼻、うすい唇をしていた。印象の薄さを補うかのようにしっかり化粧をし、おしゃれな洋服をたくさん持っていて、マリーと違って僕の話をちゃんと聞いてくれた。彼女と二回デートをし、彼女がマリーとまったく似ていないと確認し、そのうち彼女のことを好きになればいいなと思い、彼女に告白し、付き合うことになった。
彼女が初めて僕の部屋にくる三日前、マリーの私物はすべて処分することにした。その中に、北海道でレンタカー屋の店員がくれた冊子があった。冊子名「レインボー」、特集「大自然にとけこみ、ナチュラルに生きる」。ふざけるなと思うと同時に、冊子を床に叩きつけた。それから冊子を憎むかのように踏んづけ、半分に引き裂き丸め、ゴミ箱へ叩きつけ、蹴とばした。するとなぜか脳内で、ジョン・レノンのイマジンの伴奏が数秒流れ、虹のようにいつの間にか消え去った。
マリーとの思い出で唯一残されたものはマリモだけだった。マリモが残った部屋で、好きではないが好きになろうと努力中の彼女とセックスをしても、性欲が満たされるだけで幸福感は何もなかった。僕はひどい人間だ。その証拠に僕はいつも、裸の彼女を抱きながら水槽の底に沈むマリモを横目に射精した。
付き合っていくうちに相手を愛するなんて幻想で、けっきょく僕は彼女のことを愛することはなく、半年で別れることになった。
それから十年後、僕は安心安全なレールの上を外れることなく、地元の役所で働きながら週末の釣りを楽しみにしているだけのどこにでもいるつまらない男になっていた。
「将来のこと考えてるの?」と母は会うたびに言う。「お父さんなんてね、そろそろ孫の顔が見たい、ってしょっちゅう言ってるんだから。」「そうだね」と僕はいつも同じ返事をする。母さんたちには紹介してないけれど、一年間つき合った女性もいたんだよ。でも結局、彼女を僕は心から愛せなかった。だからね、もしかしたら孫には会えないかもしれないよ。ごめんね。
実家から車で二十分ほどでアパートにつき、ドアを開ける。玄関棚に鍵を置く。冷蔵庫から缶ビールを出し、グラスに注ぎ、ソファに座る。
ビールを一口飲み、レーズンをつまむ。レーズン、あの子もしょっちゅう食べていた。あの夏、探しまくった物の中にもレーズンがあった。「なんで三袋も買うんだよ。一袋でいいって言ったじゃん。」「そうよ、秘密を知るには一袋でじゅうぶん。これは私のぶん。君も食べたいならもう一袋追加するけど。」
しわしわのレーズンを見ていたら、干からびた雨蛙もあったよな、と思い出す。
霧の森の秘密とは何だったのか、なぜ理由を言わず去ったのか、今どこにいて、なにをしているのか。
今でもマリーは、生きているのだろうか。
十二年間、何度も繰り返してきた問い。僕はこの問いを死ぬまで繰り返す、という予感のような確信は、僕にとって恐怖であり幸福だった。
グラスの中のビールをいっきに飲みほし、窓辺にある水槽を見る。そこには今でもいびつな形をしたマリモが、十二年前と同じ姿勢で沈んでいる。
霧の森の秘密 葉竹いま @gKhj7XzP49f3
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