「ねえ」
阿紋
「ねえ」
「ねえ」
「何」
「何見てるの」
「何も見てないけど」
「そう」
「ぼんやりとね。見てるわけじゃないよ。ただ見えるんだ」
「何が見えるの」
「窓の外の景色」
「窓の外。窓なんてどこにもないじゃない」
「そうか」
「そうだよ」
「それじゃ、カオルちゃんは何を見てるの」
「あたしだって、見てるわけじゃない。ただ見えるの」
「何が見える」
「ヒロさんとおんなじだよ。だって、二人こうして並んで同じ方向見てるんだよ」
「でも、窓は見えないんだよね」
「見えないよ」
「じゃ、多分別のものを見てる」
「おかしいよ」
「何が」
「おかしい」
「水はさ。何でできてると思う」
「酸素と水素。学校で習ったでしょう。エイチ・ツー・オー。水素がふたつと、酸素がひとつ」
「そうかなあ。見えるの」
「そうかなあって、そりゃあたしは酸素も水素も見えないけど。多分あたしたちの前をフラフラしてるんでしょう。それが結びついて水になるのよ」
「でもさあ、水は水で酸素や水素じゃない。水は水からできてるんだ。いくら小さく細かくなっても水は水。酸素や水素じゃない。ちがう」
「水は蒸発して水蒸気になって、それが雨になって落ちてくるんでしょう」
「たしかに、雨は水だけど水蒸気は水じゃない。蒸発したらもう水じゃない」
「水蒸気と水はちがうの」
「ちがうよ」
「でも、同じじゃないの。蒸発してもエイチ・ツー・オーはエイチ・ツー・オーなんでしょう」
「それじゃ、エイチ・ツー・オーは水じゃない」
「でも、エイチ・ツー・オーは水じゃないの」
「なんかもういいよ。今日は少し変だよ」
「そうか」
「そうだよ」
「コーヒー飲もうか」
「そうだね。少し落ち着こう」
「タカシどうしてるかな」
「もういいよ」
「もういいって何が」
「だってタカシくんおかしいよ。今日のヒロさんよりずっと」
「もう、あの話聞かされるのうんざり」
「うんざりって神の話」
「でもさ。タカシ神なんて信じちゃいないよ」
「信じてないのはヒロさんでしょう。もうその話やめようよ」
「ぼくは神を信じてる」
「本当なの」
「本当さ」
「だってタカシくんヒロさんは無神論者だって言ってたよ」
「ねえ、とにかくすわろう。あたし、疲れちゃった」
「いい香りだね」
「そうね。何か落ち着くよね、コーヒーの香りって」
「ちがうよ。コーヒーじゃなくてカオルちゃんの匂いだよ」
「あたしに匂い。それは多分シャンプーの匂いだよ。さっきシャワー浴びたから。香水とかつけてないし。気がつかなかった」
「ちがう。カオルちゃんの匂いだ」
「あたしの匂い。そんなのわかるの。シャンプーの匂いだよ」
「そうか」
「そんなに匂うかな」
「気にしなくていいよ。いい匂いなんだし」
「気になる」
「それよりさっきの話」
「何だっけ」
「ヒロさんは神を信じてるの。タカシくんと同じ」
「タカシは神は信じてないよ。信じてるのはキリスト」
「キリストって神じゃないの」
「キリスト教徒はキリストを信じてる。イスラム教徒はアッラーを、仏教徒は仏陀を信じてる。でも、多分みんな神じゃない。神は全然別のところにいるんだ。名前なんてないんだ」
「その神を信じてるの」
「そう、信じてる」
「その名前もない神にお願いするの」
「お願いはしない。ただその神を信じてるだけ」
「お願いはしないの。お願いしなきゃ、信じる意味ないんじゃない」
「みんな救われたいんじゃないの。やなこととか忘れたいんじゃないの。タカシくんが言ってたよ。信じなきゃ救われないって。救いを求めてるから信じるんじゃないの」
「だから心配なんだ。ちょっとね」
「どうして。信じても救われないから」
「そう、いつまでたっても」
「ねえ、お守りとかも信じないの」
「あたしの体調が悪いときとか、お守りくれたじゃない。あたしいまでも持ってるよ。ほら。ヒロさんがくれたお守り」
「お守りをあげたのは、神様を信じてるとか、守ってもらおうとか、そんなんじゃないんだ。多分ね。それは多分カオルちゃんのことが好きだから。カオルちゃんに何かしてあげたくて。いくらカオルちゃんに好きだって言っても、何も残らないし」
「そうだよね。何か形に残るっていいよね。こんなふうに」
「でもさ、本当はちがうと思うんだ」
「ちがうって何が」
「本当は、カオルちゃんのことを好きだってことだけで十分だと思うんだ。カオルちゃんに好きだって言うだけで」
「別に言う必要もいないのかな。ぼくの気持ちは言葉にしなくても伝わっているはずだから。そうじゃない」
「そうだけど。言ってほしいなあ」
「結局人間てさ。形になったり、言葉にしないと不安でしかたがないんだ。人間て弱いからさ。何か証みたいなものがほしいんだよ。ぼくはそんなのいらないんじゃないかって思ってるんだけど、ぼくもカオルちゃんも弱いんだよ。ぼくとカオルちゃんだけじゃない。みんなも。思ったとおりにはいかないんだ」
「それって弱いのかな。それがフツーじゃないの」
「そうかもね」
「ねえ、あのオジサンじゃまだよね。なんであんなに人のじゃまになるように歩いてるの」
「そうしないと仕事にならない。それに、前と後ろに看板を下げてるから歩きにくいんだ」
「そうだけど、オジサンはちゃんと仕事をしてるんだ。オジサンを人間だって思っちゃダメだよ。オジサンは看板なんだ」
「人間がものになっちゃうの」
「そう。そうすることでオジサンはお金をもらってる」
「ロボットみたいだね」
「そうだね。でも本当にロボットができたらオジサンはロボットに仕事をとられちゃう」
「かわいそうだね」
「でも、しかたないよ。そんな世の中だから」
「人間がものになることだっておかしいのに、人間がものに仕事をとられちゃうの」
「救われないの」
「救われない。だから神は存在するんだ」
「何かよくわからないよ」
「ねえ、ケータイなってない」
「なってないよ」
「でも、聞こえるよ」
「きっと、まわりの誰かだよ。」
「そうみたいだね」
「でもドキッとしたでしょう」
「何が」
「ドキッとしたよ、きっと」
「別にそんなことないよ」
「本当」
「本当だよ」
「ねえ、大きいレストランなのに、ほとんどお客さんいないね」
「そんなときもあるよ。それにそのほうがゆっくりできていい」
「そうだね」
「ねえ、根っことか突き破ってこないのかな」
「根っことかって」
「ほら、すっごく大きな木の下に公衆トイレとか駅の入口とかあるでしょう。大丈夫なのかな。自然の力ってすごいっていうし」
「ぼくにはわからないよ。根っこがコンクリートを突き破って天井が落ちてくるかもしれないし。そうならないかもしれない。もちろんそうならないように設計してるんだろうけど、そうならないって保証はない」
「神のみぞ知るっていうよね」
「もしかして、ヒロさんの言ってる神ってその神のこと」
「そうなんだけどさ。何かしっくりこないんだよね。神の意志とかういのがさ。神に意志とか意図とかがあるとは思えないんだよね」
「でもさ、そんなことが起こらないように神様にお願いしたりするじゃない。ヒロさんの言ってる神はその神様とは違うんでしょう」
「それはさ、神の意志じゃなくて人間の意志だよね。願望っていうかさ。人間が神をつくりあげちゃってるっていうかさ」
「何事もあたしたちじゃ決められないってこと」
「そう、多分神に意志とか意図があるわけじゃなくて、それそのものが神なんじゃないかな」
「それそのものって」
「世の中で起こるすべてのこと」
「あたしたちはただそれを受け入れるだけ」
「本来宗教ってさ、そういうものだったんじゃないの」
「ねえ、ケータイなってるよ。今度はまちがいない」
「ねえ、誰から。どうかしたの」
「タカシが飛び降りた」
「ねえ」 阿紋 @amon-1968
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