第8章 大改革の兆し その4

「……はぁ……」


 エンジスが完全に立ち去ったのを確認すると、ノアは大きな溜息を一つ吐いた。

 先程ブルックソンとリュウと話していた時間よりも、二分の一にも満たない短い会話だったのに、異常に力んだせいで一瞬で疲労を蓄積されてしまっていた。

 エンジスとは今後、通路で顔を合わせないように避けようと思いながら、ノアは二枚の誓約書を手にして、社長室に戻って来た。


 とにかくまず椅子に座り、そして誓約書を二枚ともしっかり細かい部分まで確認する。

 作成したのが敵であるエンジスなだけに、難しい表現や捻くれた表現で自分に不利な条件が書き足されていたり、自分の知らない条件を勝手に別欄を付けて小さく記されてあったりしないか、入念に入念なチェックが必要であったからだ。


「うん……とりあえず大丈夫そうね」


 しばらく誓約書と睨み合い、異常な点が無かったのを確認し終えると、ノアはペンを手に取って、サイン欄に自分の名前を署名した。

 これで勝負は正式に決せられ、そんな気はノアには端から無いが、もう降りることも、逃げも隠れもできない。

 旅客営業部を再生して会社に残るか、それとも低迷させたまま会社を去ることになるのか、どちらか二択となった。


 タイムリミットは第二四半期の終わりである9月末日。残り四ヶ月とちょっとあった。

 しかし会社の成長期間から見たら、四ヶ月などあっという間だ。急ぐに越したことは無かった。


「早めに渡しておいた方がいいよね。ゆっくり座る暇も無いや」


 さっき座ったばかりなのにもうノアは立ち上がり、誓約書をエンジスに渡し、グロードに伝言を伝えるため、業務部に向かって行った。


 ***


 その翌日、辞令は下された。

 ブルックソンは旅客営業部の部長に、そしてリュウは旅客営業部の部長補佐という新たな役職に就くことになった。

 ブルックソンの人事は課長から部長に上がったということで、正当性があるように認知されたが、リュウに関しては一般社員から部長補佐に上がったので、社内では異例の大出世だと持て囃されることとなっていた。


 しかし面子が広報課ばかりに偏り、この人事を面白く無いと考えて抗議してきたのが、旅客営業部営業課の課長、ダリオ・ジェンキンスだった。

 最もこの人事にケチをつけてくるだろうと、ノアが始めから警戒していた当のエンジスは、グロードからの報告によると業務部で沈黙を守っており、動きはまったく無いようだった。

 しかしジェンキンスは営業課の、ズブズブの元エンジス派の人間であり、もしかしたら裏でエンジスがジェンキンスをけしかけたのではないかと、ノアは睨んでいた。


「社長、先程から申し上げている通り、この人事はあまりに不平等なものではございませんか?」

「ジェンキンス君、これは社長だけでなく、副社長である私と人事課長も認めた上での人事だ。決して社長の独断では……」


 場所は社長室。

 人事異動通知が各部の連絡板に張り出されてから、一時間も経たぬ内にジェンキンスはここに乗りこみ、今のような訴えを続け、それを今日の早朝に、オレンシティの出張から帰ってきたばかりのアルビナが、なんとか穏便に収めようとジェンキンスに弁明をしていた。


「私は副社長ではなく、社長の意向が聞きたいのです!」

「ぐ……ううむ……」


 バランサーであるアルビナなど目もくれずといった感じに、ジェンキンスはあくまでノアの首だけを狙いにかかる。後先を考えないで突っかかって来るその姿は、上官の命令は絶対だと洗脳され、敵地に特攻を仕掛ける兵士のようであった。

 そして彼にとってその上官にあたるのが、エンジスである。


「社長、あなたが広報課にちょくちょく顔を出していることを、私が知らないとでもお思いですか? 旅客営業部の情報をリークしてもらったその見返りこそが、今回のこの人事なのではないですかっ!?」

「ジェンキンス君! なんてことをっ!」

「さあどうなんですか? 答えられるもんなら答えてみてくださいよ社長っ!!」


 ジェンキンスはノアに詰め寄り、問い質した。


「……分かりました、お答えします」


 満を持してノアは椅子から立ち上がった。

 こんな時のために事前に用意はしており、なによりこんな雑兵をゆっくり相手する時間などノアには惜しいくらいだった。


「ハッキリ言いましょう、あなた達営業課が、会社の足を引っ張っているからです」

「な……あ……足をって!」


 ノアの一撃に、ジェンキンスの足はぐらつく。

 一瞬でも体勢を崩したとなれば、命令通りに動いているだけの傀儡など他愛も無い。ロクに信念を持っていないのだから、正論を突き付け叩き切るだけだった。


「ここに旅客営業部の営業実績記録があります。この記録は営業課と広報課の実績が混ざって記されていますが、しかし営業先によって分別されているデータは存在しているんです。あなた達営業課は旅行代理店に対しての実績数値がここでは当てはまり、広報課は出版社や新聞社に対しての実績数値が当てはまります。そして、それらの実績数値をグラフ化したのがこれです」


 するとノアは、営業実績記録とは異なる二枚の線グラフが記された書類を、目の前で目を丸くしているジェンキンスに突きつけた。

 ちなみにこの書類は、ノアが記録の数値を見て自分で作った物だった。


「旅客営業部全体の実績低迷が著しくなった、三年前から去年までの数値を記しています。そしてこれを見てみると、出版社並びに新聞社への実績は、大きく上がることはありませんが下がることも無く、平年並みの実績を維持しています。ところが旅行代理店の数値はダラダラと下がり続けて、三年前と今とでは四分の一程も差があります。これでもうあなたにも分かるでしょう? どちらの課が、この旅客営業部の足を引っ張っているのかがっ!!」


 最後にノアは語気を荒げ、ジェンキンスは既に、目の焦点を合わせる余裕も無いほどに追い込まれていた。


「こ……こんなの……!」

「こんなの……何です?」

「こ……これは……」

「これは?」

「そ……その……」

「ジェンキンス課長、ハッキリ言いなさいっ!」

「ヒィッ!?」


 ノアに怒鳴られ、ジェンキンスは顔を覆い隠すように両腕を顔のところまで挙げて、防御するような体勢を取った。

 その姿を見て、ノアは勝負が決したことを悟った。

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