第1章 新米社長の憂鬱

第1章 新米社長の憂鬱 その1

「おはようございます、お嬢さん」


 出勤初日、社長室のデスクに座っているノアは幾度となくその挨拶を社員から受けていた。

 かつて父親の会社だったこの場所で、お嬢さんと呼ばれるのは仕方の無いことだろう。しかしノアが訝しむのは、それからだった。


「おはようございます。ええっと……旅客営業部長のキルギス・エンジスさんですね」

「お嬢さんに憶えられて光栄ですね」


 エンジスはまるで、親戚の子供にするようにやんわりと、社長であるノアに対して笑ってみせた。


「エンジスさん、わたし少しでもここのお仕事を覚えたいので、何かお手伝いできるお仕事はありませんか?」


 役職では社長であるが、しかし実質ノアは入社したての新人社員だ。

 少しでも多くの仕事を早く覚えたいというその心意気は、買われることが多数であると思われるが、しかしエンジスはそうではなかった。


「いえいえ、こちらの業務でお嬢さんのお手を煩わせるわけには参りませんので。お嬢さんはこの会社の社長なのですから、このまま堂々としていればいいんですよ」

「そう……ですか」

「では次の業務がありますので、わたしはこれで」

「はい……」


 エンジスは頭を軽く下げると、気持ち早歩きで社長席の前から扉の前へと向かい、それからもう一度ノアに、今度は先程よりももっと軽く頭を下げ、扉を開いて社長室を後にしていった。


「はぁ……またか……」


 先程からノアが頭を悩ませていたのは、この一連の事が再三にして続いていたことだった。

 朝から取引先に向かった貨物営業部長以外は、旅客営業部長をはじめ、総務部長にも、業務部長にも、経理部長にも、挨拶をしてきた人間には片っ端から声を掛けたが、皆同じことを、同じように言ってきた。

 

 あなたは社長なのだから、何もしなくていいと。


 本当にそれで良いのか? いや、良いはずがない。

 そうはノアも頭では理解していたのだが、しかし人からやらなくていいと言われたことを勝手にやるのは、それだけで迷惑になってしまうという常識に苛まれ、動こうにも動けずにいたのだ。


 そんなモヤモヤを抱きながら、立派な応接セットも備え付けられているこの部屋で、孤独にデスクに座っているだけで午前中は過ぎ去っていった。


「ノアちゃん、調子の方はどうだい?」


 正午に差し掛かったくらいに、ノアの叔父であるアルビナは外回りから帰社し、社長室へと赴いた。


「良くも悪くもありません。何もしてないんで……」

「そうか……そうなってしまったか……」


 ノアの正直な返答に、しかしアルビナはこうなることを事前に予測していた。アルビナには、ある思い当たる節があったからだ。

 しかしそれを今ノアに伝えることは、何のプラスにもならないと考えたアルビナは、時計をチラ見してから言った。


「ノアちゃん、お昼でも一緒にどうだい? ちょっと行ったところに、安くてウマイ定食屋があるんだ」


 そうアルビナが誘ったと同時に、時計の長針と短針が真上に重なった。正午である。

 

「ええ、いいですよ」


 午前中、この机から動かなかったとはいえ、お腹は空き、特に断る理由も無かったので、ノアはアルビナの誘いに乗ることにした。


 ルートボエニアの本社社屋は、ボエミア共和国の首都ペタロポリスの東港湾部に位置しており、そこから歩いて五百メートルもしない位置にアルビナの言う定食屋は建っていた。


 シラトリ食堂と記された木製の看板は色が剥がれ、ところどころ欠けており、排気口は油塗れ。 

 お世辞にも綺麗な店とは言えず、地元の人間のみが出入りを許されるような、そんな佇まいとなっていたのだが、しかしそれとは裏腹に、お昼時というのもあるが、それを差し引いても盛況であるくらいに店内は人で賑わっていた。


 二人は店内へ入ると、丁度入口手前に空席が残っており、クッションが下手れたその座席に腰を掛けた。

 テーブルの真ん中には一枚だけ、手書きの文字のみが記載されたメニュー表が置かれていた。


「ノアちゃん好きなのを選びな。俺はもう決まってるからさ」

「そうなんですか。じゃあ……」


 ノアはメニュー表を手に取り、ざっと全てに目を通す。

 唐揚げ、チキン南蛮、ミックスフライに焼肉と、定番の字面が並んでいる中、一つだけ明らかに浮いている名前の定食が存在していた。


「なんですか、このアルルウネさんの日替わり野菜定食っていうのは?」

「ノアちゃんもそれに目を着けたか! アルルウネさんは野菜作りの天才と言われていてな。雑誌の特集とかでよく出てるだろ?」

「ああ……そういえばちょっとだけ見たことあります。マンドレイクの」


 マンドレイクというのは植物であるのだが、その根が人型となっており、かつては引き抜くと悲鳴をあげて、それを聞いた人間は死んでしまうと言われていたのだが、近年そのマンドレイクに知性がつき始め、中には人間と同様に振る舞うマンドレイクが存在し始めていたのだ。

 その一人が、アルルウネなのである。


「自分の作る野菜を、店主のシラトリさんが最も適した調理をしてくれるってことで独占契約をしてるんだよ。ここに来る連中は大方、その野菜定食を注文してるよ。モチロン俺もその一人だ」

「そうなんですか。じゃあわたしも頼んでみようかな」

「おっ、そうかい。おーいおばちゃん! 野菜定食二つね」

「野菜定食二つね。少々お待ちください」

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