第16番 いにしえのチゴイネルワイゼン

「リサイタルが近いのに、呼び出しちゃってごめんね」

 土曜日の昼下がり、僕は六つ年下の従兄弟の晴彦くんと、ふたりでカフェにいた。

「大丈夫、大丈夫。もともと今日は練習を休みにしようと思ってたから」

 大事なコンサートを控えている時期にわざわざ呼び出したのだから、もちろん、ただコーヒーを飲みに来たわけではない。

 僕は鞄から、紺色のビニール袋に包んだものを取り出した。

「晴彦くんに渡しておきたいものがあってね」


 寺山晴彦てらやまはるひこくんは、この春に芸術大学を卒業したばかりのヴァイオリニストだ。

 小さい頃からたくさんのコンクールで優勝していて、大学に入る前から彼の名前は全国区で知られていた。

 音楽学部を三月に首席で卒業し、四月からは同じ芸大の大学院に進学、更なる研鑽を積みながら、プロとしての第一歩を踏み出したところだった。


 現在、科学技術は日進月歩で進化しており、そう遠くない将来に、多くの仕事がロボットやAIに取って代わられるのではないかと言われている。

 芸術の分野でもAIの研究が進んでおり、絵画や文学などのジャンルでは、既に一定の評価を得た成果物もあるという。

 彼は超絶技巧の曲も鮮やかに弾き切る完璧なテクニックの持ち主で、それ故に「機械的だ」「冷たい」などと評されることもあるけれど、そこから今後どのように成長していくのか、AIには到達できない世界を切り開いていくべき才能として、大いに期待されていた。


 僕が紺色のビニール袋から取り出したのは、十ページほどの古い楽譜だった。

「……チゴイネルワイゼン?」

 くすんだカナリア色の表紙には、上に大きく出版社名が書かれていて、その下には英語と日本語で「チゴイネルワイゼン/サラサーテ作曲」と記されている。

 現在では『ツィゴイネルワイゼン』と表記されるこの曲は、ヴァイオリンの名手として知られたサラサーテが作曲した、華麗な名人芸が散りばめられたショウピースだ。

 晴彦くんが昔から得意にしていたレパートリーで、今度のリサイタルでも演奏されることになっていた。


「この楽譜、実は僕たちのひいひいお爺ちゃんが持っていたものらしいんだ」

 晴彦くんは、僕の父親の妹の子どもにあたる。

 だから僕の父方と、晴彦くんの母方のお爺ちゃん以降の先祖は同じということになる。

 とはいえ、お爺ちゃんならともかく、ひいひいお爺ちゃんのことなんて、ふたりとも知っていることなんか何ひとつなかった。

 僕は晴彦くんに、この楽譜を手に入れた経緯を説明しはじめた。


*****


 ある日、僕が仕事を終えて会社から出ると、白いワンピース姿の若い女性が近づいてきた。

「あの、すみません。コウツハラさん……でしょうか?」

「はい、高津原こうつはらですが」

「突然すみません。今から少しお話しできる時間はないでしょうか? お渡ししたいものがあるのですが、できれば説明をさせていただきたいのです」

 その日は特に予定はなく、家に帰るだけだったので、近くのカフェに入って話を聞くことにした。


 彼女は自分のことを「マシュ」と名乗った。

 不思議な響きの名前だったけれど、ぱっと見て外国人の血が混じっているようには見えなかったから、愛称の類か何かかもしれないなどとぼんやり考えた。

 数日前、彼女が定食屋でお昼ごはんを食べていると、僕が会社の同僚と一緒に入ってきたそうだ。

 そして同僚が僕のことを「コウツハラ」と呼ぶのがたまたま聞こえてきて、僕の名前を知ったという。

 彼女は、高津原という名前に聞き覚えがあった。

 その昔、少しだけ住み込みで家事のお手伝いをしていたことがあり、それが高津原一郎こうつはらいちろうというおじいさんの家だった。

 珍しい名字だから、僕のことを高津原一郎と何らかの血縁関係がある人に違いないと思い、日を改めて今日、声をかけたということだった。


「あの、高津原さんは迷信とかオカルトとか、そういう話は信じられるタイプでしょうか?」

「このAIの時代に面白い質問をされますね。でも僕は、世の中は説明できることばかりじゃないと思っているから、そういうのは信じますよ」

「よかったです。じゃあ今から私がお話しすることを、いったん受け入れていただけますでしょうか。私が高津原さんにお世話になったのは、八十五年ほど前になります」

 さすがに驚いて、失礼とは思いつつ年齢を尋ねると、彼女はいま百歳ぐらいだという。

 そこを突っ込み始めると話が進まなくなるので、とりあえず彼女の話を全てそのまま受け入れることにした。


 いまから八十五年前、高津原家でのお手伝い期間が終わる最終日に、彼女は一郎からあるものを手渡された。

 それが『チゴイネルワイゼン』の楽譜だった。

 一郎はアマチュアのヴァイオリン弾きだった。

 『チゴイネルワイゼン』は、一郎の息子がヴァイオリンを習い始めたときに、いつか息子がこの曲を弾けるようにと願って買った楽譜だったそうだ。

 自分の子供や孫がヴァイオリンを習い、家族一緒に音楽を楽しみたいというのが一郎の夢だったという。


 しかし息子は、結婚してすぐの二十代のうちに亡くなってしまった。

 さらに、一郎は息子の嫁とあまり相性がよくなかったようで、嫁はしばらくすると、生まれたばかりの子どもを連れて家を出ていってしまった。

 家族でヴァイオリンを楽しむという一郎の夢は叶わなくなり、息子のために買った楽譜はほとんど供養して処分してしまったけれど、『チゴイネルワイゼン』だけは残してあった。

 彼女は、その楽譜を渡されたのだった。


「なあ、真朱ましゅさん。君の本当の姿は化け狸なんだろう? 人間よりもうんと長生きをすると聞いている。この楽譜をいつまでも俺が持っていてもしようがないから、いつか俺の子孫と会うことがあって、もしもその中にバイオリンを習っているものがいたら、そいつに渡してやってくれないか。いや、そんな上手い偶然があるとは、俺も本気で思ってはおらんよ。それでもお前さんに楽譜を渡すことで、俺がバイオリンに託した夢が続いていると思えば、ちょっとは気持ちが楽になる」

 一郎は続けて、チゴイネルワイゼンとは「ジプシーの旋律」という意味であり、人の世界ではジプシーのように移動を続けなければならない化け狸の君にぴったりだから、お守り代わりにもらってほしい、とも言ったという。


 僕はあまりにも予想外な彼女の話に、ただ黙って聞くことしかできなかった。

 でも不思議なくらい素直に、この話を事実として受け止めていた。

「高津原さんのご家族で、ヴァイオリンを習っておられる方は……おられないですよね?」

「いますよ」

「えっ! 本当ですか?」

「僕の家族ではないですが、芸術大学でヴァイオリンを学んでいる従兄弟がいます。彼の母親が高津原の血筋です。さっきのお約束通り、僕はこの話をそのまま受け止めますので、楽譜はお預かりして彼に必ず渡しておきます」


*****


 晴彦くんは、テーブルに置かれた『チゴイネルワイゼン』の楽譜をじっと見つめていた。

「いきなり晴彦くんにこんな話をしても、信じられないよね。僕は彼女からこの楽譜をもらってすぐに、高津原の家系を代々遡って調べてみたんだ。そしたら確かに、ひいひいお爺ちゃんの名前が一郎だった。それと、ひいお爺ちゃんが若くに亡くなっているという話も合っていた。だから僕は、彼女の話を信じてもいいと思ってる」

 晴彦くんは僕の話を聞きながら、楽譜を手に取ってパラパラとめくった。

 そして裏表紙を見て、もう一度表を向けてテーブルに置いてから、こう言った。

「その話、僕も信じるよ。むしろ、そうであってほしいって思う。もしかしたら僕にとって、この楽譜はいま一番必要なものかもしれない」

 そう語る彼の顔は、いままでに見たことがないくらい真剣な表情だった。


*****


 晴彦くんのヴァイオリン・リサイタルが大成功に終わったことは、リサイタルの翌日、昼休みにネットニュースで知った。

 SNSやブログにも、興奮した様子で書かれた感想がいくつかあり、それらを総合してまとめると、「この日は完璧なテクニックに加えて豊かな感情表現があり、まるで別人のようだった、彼は芸術家として一皮むけた」というようなものだった。

 特にツィゴイネルワイゼンは圧巻の演奏だった、と異口同音に書かれていた。

 僕は記事や投稿を辿っていきながら、あの日の晴彦くんの言葉を思い出していた。


「僕はここまでずっと、何でヴァイオリンを続けているのか、理由がわからないままやってきたんだ。もちろん誰かにやらされているわけではないけど、だからといって自分の強い意志で続けているという感覚もなかった。でもその答えが、たったいま見つかったんだ。この『チゴイネルワイゼン』の楽譜は、ひいひいお爺ちゃんから受け取った、魂のバトンだよ。僕がヴァイオリンを続ける理由は、僕だけのものじゃなかったんだ」


 芸術家は何かを本気で信じることで、その表現が「別人のようだ」といわれるくらいに変わるものなのだろうか?

 僕は芸術とは全く無縁の男だから、その辺りの感覚はわからない。

 でももしそうだとすると、芸術分野でAIが人間を追い越すことは、まだ当分はないだろうなと思った。

 今日は家に帰ったら、晴彦くんにお祝いの電話をしよう。

 それと、真朱ましゅさんにお礼の手紙も書いておかないと。

 いつか僕の子孫が彼女に会うことがあったら渡せるように。

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