第2番 友人のピアニストが用意してくれたアンコール

 コンサートホールは、鳴り止まない拍手で満たされている。

 アンコールを求める聴衆の熱気に背中を押されるようにして、クラシック界が注目する若手ピアニストが小走りに姿を現した。

 僕はいよいよだ、とイスに座りなおす。

 数日前に彼と会ったとき、確かにこう言っていた。

「今度のコンサート、アンコールの一曲目の演奏を、就職祝いとしてお前にプレゼントするよ」


 今月、僕は三年間勤めた会社を辞めて、電子部品を生産している小さな会社に転職した。

 今度の会社が四つ目の職場になる。

 今までの会社の職種は見事に全部バラバラ、なんの一貫性もない。

 常に新しい境地を求めていると言えば聞こえはいいけど、この放浪癖は我ながら嫌になる。

 田舎の母は、僕が電話で転職の報告をする度にブツブツ文句を言っていたけど、とうとう諦めたのか、今回は「ああそう」と言っただけだった。


 ステージに出てきた彼は、大きな右手をぱっと広げてみせた。

 マイクを通さない生声で「あと五分だけ」と語りかけると、客席がどっと湧いた。

 彼と僕とは、どこでこんなに違ってしまったんだろう?

 あいつとは中学・高校と一緒だったけど、あの頃からピアノがめちゃくちゃ上手かった。

 満員の観客の前で堂々とステージに立っている姿は、あの当時から容易に想定できた。

 でも僕にだって、何者にでもなれる可能性と未来があったはずなのに。


 まるで鮮魚がピチッと跳ねるように、アンコールの小気味よい曲が始まった。

 絶えずピコピコと刻まれるリズムは、昔のゲーム音楽のようにも思えてくる。

 今日のコンサートのメインに、ヒンデミットなんていう変わった作曲家を持ってくるぐらいだから、アンコールの曲も、僕には想像がつかない作曲家に違いない。

 どういうつもりで僕にこの曲をプレゼントしようと思ったのかはわからないけど、純粋に面白い曲で気に入った。

 曲はあっという間に終わり、またアンコールをねだる大きな拍手が沸き起こった。

 彼がこの熱狂から開放されるには、あと五分じゃ短すぎるかもしれない。


「すごいね。ちょっとしたアイドル並みじゃん」

 ようやく彼と話ができたのはコンサート終了後、それも延々と続いた握手会が終わった後だった。

 花束やプレゼントが山のように届けられた楽屋の中で、彼の着替えの邪魔にならないように、僕は壁ぎわのイスに腰掛けた。

「アンコールの一曲目、何ていう曲? すごく面白かった」

「リゲティの『ムジカ・リチェルカータ』っていう曲集の第三曲目。いわゆる現代音楽の部類かな」

「ムジカリチュ? よくわかんないけど、僕の好みにピッタリだったよ。ありがとう」

「違う違う。お前の好みなんて知らねぇよ。あの曲はな……」


 リゲティの『ムジカ・リチュルカータ』は十一曲からなる組曲で、第一曲目はレとラの二つの音しか使われていない。

 第二曲目はひとつ増えて三つの音、第三曲目は四つの音と、一曲ごとに使われる音数がひとつずつ増えていき、十一曲目で十二個の音が登場するという、ユニークな曲集なんだそうだ。

「あの曲は第三曲目ってことは……え、あのかっこいい曲、たった四つの音しか使ってないの?!」

「そう、四つの音で四回目の就職を祝ったって感じかな」

 そして彼はニヤリと笑ってこう付け加えた。

「“時は流れない。それは積み重なる。”だろ?」


 これは、かつてウイスキーのCMで使われていたというキャッチコピーだ。

 僕はこの言葉が大好きで、高校生の頃の一時期、口癖のようにこのフレーズを連発していた。

 今、あらためてこの言葉を口にしてみて、ああなるほどと思った。

 二つの音より三つの音、三つの音より四つの音。

 使える音が積み重なることで、世界は確実に広がっていく。

 僕は脈絡なく転職をくり返す自分がいやだったけど、それでも僕の人生には確実に何かが積み重なっているってことか。

 一番好きな言葉だと言っておきながら、その言葉を本当に理解していたのはあいつの方だったのかもしれない。


「この曲の意味、わかったよ。お前ってすごいね。本当にありがとう。でもさ、この曲集って……」

「おっとストップ。考えそうなことはわかってるぞ。リゲティを弾くのはこれが最後。十一回転職しようなんて考えるなよ」

 あっさりと見抜かれてしまった。

 ひとりで使うには広すぎる楽屋に、ふたりの笑い声が響いた。

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