ファムファタル

@yuki_nojo

(一)

 初めて綾子を打ったのは、家族の不幸で私が実家に帰省している間に共通の知人と関係を持ったことを告白された時だった。

「ごめんね、きいちゃん」

 震える声でそう言って目を伏せた綾子の線の細さはまるでこの世の女のか弱さをすべて凝縮したようで、私の目にはそんなか弱さというベールを纏って自分の卑怯さや醜さを隠そうとする綾子の生々しい内面がありありと映って見えたので、思わず、本当に思わず、私は右手を振り上げ何の躊躇いもなく綾子の頬を思い切り打った。

 綾子の浮気はこれが初めてではなかった。



 綾子とは寒い寒い冬の日にマッチングアプリを通じて知り合った。しばらくは友人として付き合っていたが、何度か会ううちにそれとなく互いに好意を持っていることに気がついた。

「きいちゃんは根っからのレズビアンなの?」

「うん、たぶん、そう。男の人より女の子に惹かれるし、触れたいって思う。綾子は?」

「私はね、バイセクシャル。どっちでも大丈夫なの」

 初めて私の家に遊びに来た日、隣り合って座って缶チューハイを飲みながらぽつぽつとそんな話をした。

「ふふ、きいちゃん、もしかして私のこと好き?」

 そう尋ねたときの綾子の声のなんとも言えない甘い響きを思い出しては、私は自分の心臓を抉り出し、直接掻きむしりたくなる。

「……うん。好き、かも」

 綾子の冷たい手がそっと私の手に重ねられる。

「女の子とエッチ、したことある?」

 恐る恐る首を横に振る。自分の性的思考と向き合うことに時間のかかった私は恋愛経験が乏しく、セックスはおろかキスすら数えるほどしか経験がなかったが、これから自分たちの間に起こるであろうことは容易に想像できた。

「触ってもいいよ」

 綾子の手に導かれた先は彼女の乳房だった。反射的に薄いピンクのブラウスの上から膨らみを柔らかく包んでしまう。彼女の唇から微かな吐息が漏れて、私は思わずごくりと喉を鳴らした。

 すぐに電気を消して私は綾子をベッドへ押し倒した。窓から青白い月明かりが差し込んでいて綾子の剥き出しの白い肌を幻想的に染め上げていた。

 私は、こんなにも美しく、儚い時間をこれ以外に知らない。つんと上を向いた綾子の小さな乳首の先まで輝いているように見えた。

「胸、舐めてもいい?」

 そう聞くと綾子は慈愛に満ちた顔で「うん」と頷いて、胸元に顔を埋めた私の頭を優しく撫でる。あまりにも幸福で、あまりにも哀しい記憶だ。熱くぬかるんだ彼女の内側の熱を指先に思い出す度に私は言い表しようのない感情の渦に飲み込まれてしまう。

 綾子に関する思い出は何もかも嵐のように激しい。



 最初に違和感を感じたきっかけはもう覚えていない。付き合って一ヶ月ほど経った頃のことだったように思う。

 その日は久しぶりに彼女の部屋に泊まりに行くことになり、仕事を終えた後、勇足で綾子のマンションまで向かった。

 扉を開けた彼女の顔が妙に強張っていたのかもしれないし、久しぶり、いらっしゃい、とかそんな言葉を紡いだ綾子の唇が震えていたのかもしれない。すぐに背を向けられたのかもしれないし、キスを躱されたのかもしれない。

 変だな、と思ったきっかけはもはや思い出せはしないけれど、その夜、綾子を抱いた後、彼女は突然しくしくと泣き始めた。ごめんなさい、と小さな声で繰り返す彼女に困惑し、何度も「どうしたの」と尋ねる。


 一時間ほどなだめすかした後、ようやく綾子は消え入りそうな声で

「きいちゃん以外の人とエッチしちゃった」

と言った。最後の言葉を聞き終える前にキーンと耳鳴りが始まり、目の前が赤黒くに染まった。真っ黒ではなく赤に染まったのだ。あ、血の色、とどこか遠くで思ったことを覚えている。

「全然好きな人じゃないんだけど、きいちゃん先週忙しかったでしょ? 私、さびしくなっちゃって、そしたら、バイト先にたまにやってくる男の人が遊びにおいでってお家に呼んでくれてね」

 私が放心状態でいることにも気がつかないような様子で綾子はまくし立てるように言葉を続ける。綾子が言葉を発する度に鋭利な刃物で切り付けられているように心臓が痛んだ。

「その人ね、私のこと好きだって言うの、すごく好きだって。でも、私恋人が居ますって言ったんだけどね、一晩だけ一緒に居てくれたら諦めるからって言うから、一緒に寝たらね、その人に身体を触られて、気持ちよくなっちゃってね」

 痛い痛い痛い。心臓から流れ出る血が熱くて痛い。痛すぎてどうにかなりそうだ。綾子は初めて私を誘った時のように、あの不思議に甘い声で「私のこと好き?」と尋ねたのだろうか。あの時のように冷たい指で男の手を握り、自分の乳房へ導いたのだろうか。

「それから、」

「綾子、黙って」

 そう言うと綾子はぴたりと動きを止めて口を閉ざした。耳の奥で潮騒のように血液がごうごうと流れる音がする。

「……泣かないで、きいちゃん、ごめんね」

 綾子にそう言われて初めて、私は自分が泣いていることに気がついた。

「……もう、しないで、浮気」

 なんとか声を絞り出してそう言うと綾子は「うん」と頷いて、初めてセックスをした、あの神聖な夜にしてくれたみたいに私の頭を胸元に抱き寄せた。強く耳を押し付けてみたけれど綾子の心臓の音は聞こえなかった。



 綾子はフリーのウェブデザイナーをしながら、時々、パン屋でバイトをしている。

 知り合って間もない頃、店まで綾子を迎えにいったことがあった。パン屋のファンシーなエプロンをつけた綾子は小さな子供のように見えて、なんだか放っておけない人だなと思った。

 綾子は決して美人と呼べる顔付きの人ではなかったけれど、どこか愛嬌のある頼りない感じを他人に与える人だった。守ってあげたくなるような人というのはこういう女の人のことを言うのだろう。


 おかしなことに、一度浮気をされた私は綾子を責めるどころか、しっかりしていなかった自分が悪いのだと考え始めていた。もっとしっかり綾子を見てあげないと。もっと綾子を満たしてあげないと。もっと、もっと、綾子のことを考えてあげないと。

 そう思えば思うほど綾子への執着は増し、送ったメッセージにすぐに返事が返ってこないと何かあったんじゃないかと不安になり、電話が留守番電話に繋がれば居ても立っても居られずに一分おきにコールを続けた。さらに言えば、また浮気をしているのではないかとその都度、嫌な疑惑に駆られて、醜く心臓を焦げつかせていた。


 だから、二度目の浮気はすぐに分かった。二泊三日の出張が決まったとき、私はすぐに綾子の浮気を懸念した。予期したと言っても過言ではない。きっと綾子は浮気をするだろう、そう確信を持って行きの新幹線に乗り込んだ。

 無事に仕事を終え、出張先から戻ってきた足で私は自宅ではなく、綾子のマンションに向かった。ドンドンと勢いよくドアをノックすると驚いた顔をした綾子が部屋から出てくる。

「きいちゃん、出張は?」

 そう聞く綾子を押し除けて家へ上がり込み、壁際に追い詰めて無言のまま目線を合わせる。綾子の目が泳いで私は直ぐにすべてを理解し、絶望した。

「ねえ、綾子、なんで? なんで私がいるのに浮気するの? 私のこと好きじゃないの?」

「好きだよ、きいちゃんだけが大好きだよ。……ごめんね、自分でもわからないの」

 心の中でどす黒い炎が燃え盛る。世にも醜い嫉妬の炎だ。

 スーツの上に羽織っていたコートを脱ぎ捨て綾子の身体を思い切りソファへ向けて突き飛ばす。スカートの中へ手を突っ込み、下着に指を掛けると綾子が小さな声で「いや……」と言った。

「拒否できる立場じゃないでしょ」

 下着を剥ぎ取り、両脚を大きく広げさせてその真ん中へ顔を埋める。伸ばした舌先で赤く熟れた割れ目をなぞると独特の味がした。

「あっ、……きいちゃん、……っ、そこ……」

 割れ目の上にある尖りをいじると綾子が小さく息を呑む。顔を上げて濡れた秘部に指を沿わせるように捻じ込むと、綾子の爪先が丸まった。

「綾子はここを慰めてくれるなら何でもいいの?」

「ち、ちがう……」

「違わないよね、どうしてそんなに淫乱なの?」

「ごめんなさ、……きいちゃん、ごめんなさい、許して……」

「いや、許さない」

 私が冷たい言葉で詰る度に膣がきゅうと締まる。

「……綾子、あんたって救いようがないんじゃない?」

 私がそう言うと同時に綾子は私の指で果てた。



 綾子は本当に救いようのない女だった。柔らかく、甘く、良い匂いで、ふわふわとしていて庇護欲を掻き立てる。綾子はある種の人間にとって理想のような女だった。

 そして、それは同時に私にとっては悪夢のような女だった。永遠に醒めない悪い夢。



 綾子を初めて平手で打った日は、葬式からの帰りで心身ともに疲れ果てていた。その日、私は窮屈な喪服に身を包み、念仏を聞きながら一日中綾子のことを考えていた。きっとまた綾子は浮気をしている。浮気をしていないと考える方がよっぽど不自然な行いのように思えた。

 そのぐらい、綾子の浮気は日常化していた。毎晩のように出歩いては男女問わず見境なく誘いに乗り、セックスをして帰ってくる。そして、馬鹿の一つ覚えのように私に浮気を告白し、謝罪し、許しを乞う。

 だから、葬式から帰ってきた夜、綾子の「ごめんなさい」を聞いたときに、やっぱりなと思ったし、なぜだか少しほっとした。無意識のうちに、今から自分が行うことの正しい理由を探していたのかもしれない。

 綾子の頬を打ったとき、私は自分の掌がじんじんと痛むのに驚いた。打った側もこんなに痛いのか、と驚いた。

 綾子にタオルで包んだ保冷剤を渡してから、私はキッチンでひとり泣いた。初めて浮気を告白された夜よりも空っぽで虚しかった。


 それでも、綾子と別れることは考えなかった。その頃には綾子が普通ではないことに気付いていたが、同時に私も少しずつおかしくなり始めていた。

 今思うと、恐らく綾子は何らかの病気だったのではないかと思う。それは医者にかかり、適切な治療を行なって初めてよくなる類いのものだ。

 しかし、綾子はきっと自分のことを病気だとは認めなかっただろう。何にせよ、今となってはもう意味のないことだ。



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