コミックス1巻記念SS バートル家のバレンタイン
(ブライト視点)
「アリーシャと喧嘩しました……」
ジルベルトの口から発せられた言葉に、僕は思わず耳を疑った。
律儀なジルベルトには珍しく、先ぶれもなくいきなりやってくるからおかしいとは思っていたけど、まさかアリーシャ嬢と喧嘩したとは……。
こないだ結婚したばかりで仲良くやっているのかと思ってたのに一体何があったんだ。
「はぁ!? 嘘でしょ、君たちが喧嘩って何があったのさ!?」
僕の部屋に通して訳を聞いてみれば、ジルベルトは事の発端について話しだした。
「バレンタインでどちらがチョコレートを作るかで揉めまして……」
「は??」
言っていることの意味がわからない。
まず最初にバレンタインって何?
話はそこからだと、話しの根幹になっているであろうバレンタインについて聞いてみることにする。
「ちょっと待った! まずさ、バレンタインって何なの?」
「ああ、そうでしたね。バレンタインというのは、アリーシャが読んでいた恋愛小説に出てくる好きな人にチョコレートを贈る日のことで」
それを聞いた瞬間、「あ、これ大したことないやつだ」と思った。
ジルベルトとアリーシャ嬢は体を共有していた時に、恋愛小説を読んで感想を言い合うということをしていたらしい。
その習慣は今も続いているようで、今回の喧嘩のきっかけもその本の感想について話していた時のことだという。
喧嘩と聞いてびっくりしたけど、たぶんこれ痴話喧嘩ってやつだ。
とりあえず続きを聞いてみようとジルベルトの話を促してみる。
経緯はこうだ。
本の中でバレンタインデーという日にヒロインがヒーローに手作りのチョコレートを渡すという描写があって、それにいたく共感したアリーシャが自分もジルベルトにチョコレートを作りたいと言い出したそうだ。
で、ジルベルトは包丁もろくに扱ったことのないアリーシャを心配して、そんな危ないことをさせるくらいなら自分が作ると言い出し……どちらが作るかで言い合いに発展したと。
なるほど、なんとなくアリーシャ嬢が怒った理由がわかってきた。これに関してはジルベルトに非があるように思えた。
「せっかくアリーシャ嬢が作ってくれるって言ったんだろ? 素直にもらっておけばよくない? 前に刺繍のハンカチもらった時はめちゃくちゃ喜んでたじゃないか」
「それはそうなのですが……実は以前にも料理を作ってくれようとしたことがあって、包丁で指を切るどころか切り落としそうになっていたんですよ!?」
ジルベルトがその時のことを思い出して顔を青ざめさせた。
そういえば、アリーシャ嬢はなかなかの不器用さんだと聞いたことがあったような気がする。
ジルベルトの心配もわからなくはないけど、ちょっと過保護なんじゃないかなとも思う。それにこう言ってはなんだけど、ジルベルトだって料理なんてしたことないだろうから五十歩百歩だと思うんだよね…………まぁ、ジルベルトのことだから何でもそつなくこなしそうだけど。
たぶん放っておいても勝手に仲直りできそうだけど、どうしたもんかな。
そんなことを思っていると、僕たちのテーブルに向かってふわふわと本が飛んできた。
『お菓子の基本』と書かれたタイトルの本は、僕たちのテーブルに舞い降りると風もないのにパラパラとページが捲られた。
どうやら僕たちの話を聞いて、屋敷の中を徘徊しているご先祖様が参考になりそうな本を持ってきてくれたらしい。
そうして開かれたのは『チョコレートの作り方』が記されたページだった。
どれどれと中を読んでみると、なんとチョコレートづくりに包丁は不要だということがわかった。ついでに作る過程を見るに、つぶしてかき混ぜるとか結構重労働そうなことがうかがえる。
それでピンときた。
「そんなにお互いチョコレートを作りたいならさ、二人で作っちゃったら?」
そう提案してみたら、ジルベルトは青い目を大きく見開いた。
「二人で、ですか?」
「そそ。見たところ包丁を使うような過程もないけど、つぶして混ぜるとことかはアリーシャ嬢だけじゃ大変だと思うんだよね」
「た、たしかに……」
「だったら、二人で作って交換し合ったらいいんじゃない?」
思いつきで言ってみたけど、我ながら名案じゃないかと思う。
その証拠にジルベルトもその気になってくれたようで、食い入るように本を読みこんでいる。
「ブライト、この本借りていってもいいですか?」
「うん、大丈夫だよ。アリーシャ嬢と仲直りできるといいね」
ジルベルトも打開策を得て気持ちが落ち着いたようで、話もそこそこに材料を買って帰ると言って帰っていった。
今までほとんど喧嘩らしい喧嘩もしてこなかった二人だ。きっとこれから先も喧嘩して仲直りして、また仲を深めていくのだろう。
苦難を乗り越えて結ばれた二人のことだから大丈夫だとは思うけど、僕は二人が仲直りできますようにと空に願った。
***
(アリーシャ視点)
バレンタインにどちらがチョコレートを作るかで揉めた翌日。
私はムカムカした気持ちのまま件の恋愛小説を読み返していた。
すれ違うヒーローとヒロインのやりとりにハラハラしながらも笑いあり涙ありのハッピーエンドは、もう一度読んでもやはり面白かった。
特にバレンタインデーという日に手作りのチョコレートを好きな人に渡すという設定が斬新でよかった。
ちょうど三日後が小説の中でバレンタインデーに設定されていた日で、それに気づいてしまった私は自分もジル様にチョコレートを作って渡したい衝動に駆られた。
まさか反対されるなんて思いもしなかったわけですが。
前にお料理した時に指をたくさん切ってしまったので心配してのことだとはわかっていたのだけれど、「好きな人が手作りチョコレートをあげる日なら、僕が作って貴女に渡してもいいでしょう?」と言われてカチンときてしまったのだ。
よくない。私はチョコレートを作ってジル様に差し上げたいのであって、逆は想定していなかった。
結局最後はどちらがより相手のことを好きなのか言い合いになって、チョコレートを作る権利を争っていた気がする。
時間が経って落ち着いてきたからか、今更ながら不毛なやりとりをしてしまったと反省する。
はぁ、と今日何度目かわからないため息をついた時だった。
どこかに出かけていたジル様が本をかかえて帰ってきた。
そして迷いなく私のところまでやってきた彼はこう言ったのだ。
「昨日はすみませんでした――アリーシャ、一緒にチョコレートを作りませんか?」と。
昨日の今日でどうしたのかと戸惑いながら尋ねると、ジル様はまず私の気持ちをないがしろにしてしまったことを謝ってくれて、怪我をしてほしくないことや自分も私にチョコレートを作って渡したいのだということを話してくれた。
一緒に作ることは想定していなかったけれど、想像したらそれはそれで楽しそうで、私はジル様の提案を受け入れることにしたのだった。
バレンタイン当日。
ジル様と私はバートル家の料理人たちに遠巻きに見守られながら、厨房でチョコレートづくりを開始した。
作り方の本を読みこんだジル様が主導で、チョコレートの原料であるカカオ豆を焦げ茶色になるまで焙煎して、二人で種皮を取り除いていく。
このちまちました作業がなんと午前中だけで終わらなかったのは予想外だった。
けれど、私もジル様もこれがまさか苦行への入り口だとは知る由もなかった。
一人だったらくじけていたかもしれない皮むきを終えると、ジル様に先の丸まった木の棒を渡された。
木の棒……?
ええと、これで叩けばいいんだったかしら?
溝のついたボウルに入れられた豆に視線を落とし、うろ覚えのまま木の棒を振り上げたところでジル様から制止の声がかかった。
「ストップ! アリーシャ、叩くのではなく、すりつぶすのですよ」
「すりつぶす……?」
きょとんとして聞き返すと、ジル様は木の棒を持ったまま振り上げた手に自分の手を添えてボウルの中に導いてくれた。木の棒をボウルの側面にある溝に押し当てるようにして動かすと、焙煎した豆が乾いた音を立てて小さく砕けた。
「これを繰り返して粉にするそうですよ」
「そう、粉に……粉!?」
粉とは程遠い形状に戸惑いを覚える。
これ、本当に粉になんてなるの……?
ちょっと弱気になりかけたけれど、作りたいと言い出したのは私ですもの、頑張らなければと自分を奮い立たせて気合を入れた。
そうしてジル様と交代しながらカカオ豆をゴリゴリとすりつぶすこと数時間。
簡単だと思っていたチョコレートづくりは気力と体力の戦いになっていた。
小説には砕いて溶かして固めるだけとあったからそう難しいことはないように思えたけど、まさかあの三行の中にこんなに大変な作業が潜んでいたとは。
…………私、チョコレートという食べ物を甘く見ておりましたわ。
今まで知らずにパクパク食べていたけれど、次からはもっと味わって食べようと心に誓う。
それにしてもあの小説のヒロイン、これを一人でやりきったとは恐れ入りますわ。
こんなに大変なら文章に一言添えておいてほしかった。
ようやく粉状になってきた頃には、付き合わせてしまったジル様に申し訳ないという気持ちになっていた。
途中、夕ご飯を挟んでから粉状につぶし終えた豆を今度は湯銭にかける。
粉っぽかったものが少しずつドロドロしてきて、そこにお砂糖とミルクを加えてさらに混ぜ合わせた。
「ようやくチョコレートっぽくなってきましたわね」
「ええ。あとはこれを型に流して固めるだけですね」
厨房にあった型を用意してもらって、そこに溶けたチョコレートを流し込んでいく。
ジル様も私も一番最初に流し込んだのはハート形だった。
そんな些細なことがなんだか嬉しい。
そうして型に流し終える頃には、夜もすっかり遅い時間になっていた。
「これでは今日中に渡せませんね」
時計を見たジル様が言うのを隣で聞いていた私は、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。
バレンタインに間に合わなかったことよりも、自分のわがままにジル様を付き合わせてしまったことが申し訳なくて、俯いてまだ固まっていないチョコレートに視線を落とした。
「あの、ジル様……今日はすみませんでした」
ぽつりと呟いた言葉に、ジル様が「え?」と反応する。
「だってチョコレートを作るのがこんなに大変だなんて思わなかったんですもの。おまけにジル様まで付き合わせてしまって……」
「僕は付き合わされたとは思ってませんよ――アリーシャ、顔をあげて」
促されておずおずと顔をあげると、穏やかに微笑んだジル様と目が合った。
「アリーシャは楽しくなかったですか?」
そう聞かれて、ゆるりと首を横に振る。
すごく大変だったけど、ジル様とお話ししながらチョコレートを作るのは楽しかった。
「楽しかったですわ」
「僕も、楽しかったですよ」
そう言って、ジル様は近くに置いてあったデザート用のスプーンを手に取ると、溶けたままのチョコレートをすくい上げた。
「あーん」
言われるがままに口を小さく開けると、ジル様が食べさせてくれた。
チョコレートの甘味が口いっぱいに広がる。
にこりと笑いかけてくれたジル様につられて私も笑顔になる。
ジル様にはかないませんわね。
私も同じようにスプーンを手に取って、お返しにとチョコレートをジル様の口に運ぶ。
ええと、あの小説のヒロインはチョコレートをあげる時に何と言っていたかしら。
そうだ、たしか――……。
「ジル様、ハッピーバレンタイン」
「ん……美味しいです」
チョコレートを食べたジル様が心底嬉しそうに目を細めた。それだけで私まで幸せな気持ちになる。
そのまま流れるような動作で抱き寄せられて口づけが落とされた。甘い甘いチョコレート味のキス。
「ありがとう、アリーシャ」
チョコレートよりも甘くとろけたジル様の微笑みに、疲れが一気に吹き飛んだ。
なんだかこそばゆくてふわふわして嬉しいって気持ちが溢れ出しそうで。
「バレンタインって素敵な日ですわね」
「でしたら、毎年やります?」
こんなに幸せな気持ちになれる日が来年も再来年もそのまた先もずっと続く……そう考えたら、それはとても素敵なことのように思えた。
作るのが大変なのもきっといい思い出になるだろう。
私は小さく頷いてジル様を見上げた。
「いいですわね。来年も一緒に作っていただけますか?」
「ええ、もちろん」
ふふっと二人で笑い合って約束を交わす。
こうして私の初めてのバレンタインデーは幸せな気持ちのまま幕を下ろした。
***
翌年、この一連の流れを見守っていた料理長や料理人たちによってバレンタインデーが広められ、バートル家ではバレンタインには好きな人と一緒にチョコレートを作って贈り合うという風習が生まれたのだった。
【書籍化】逆行先を間違えた令嬢は婚約者の中に甦る(Web版) 風凪 @kazanagi
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