書籍化記念SS 結婚して初めて迎えた夜の話

 ジル様と結婚式して初めて迎える夜――所謂、初夜だ。

 わたくしは寝室のベッドに浅く腰掛けて、ジル様の訪れを待っていた。

 どうしよう、緊張してきましたわ。

 閨での教育も受けたし、恋愛小説だって何冊も読んだ。結婚した夫婦が最初の夜にどんなことをするかはちゃんとわかっている。

 けれど、わかっているから緊張しないかと言ったら別の話だ。

 これからジル様とするのですよね……ちゃんとできるかしら……。

 一人で待っていると余計なことを考えてしまっていけない。

 落ち着いて、落ち着くのよ、私。

 ほら。考えてみれば、ジル様と一緒に寝るのはこれが初めてではないでしょう?

 高鳴る鼓動を鎮めようと深呼吸して、自分に言い聞かせる。


「………………」


 ジル様の体の中にいた時のことを思い出して口元に手を当てる。

 そういえば、今まで何度もジル様と床を共にしていましたわね……。

 そう思ったら、さっきまでの緊張が一気に治まった。

 冷静に思い返してみれば、ジル様とはお風呂もおトイレもお着替えもご一緒していましたわね。

 ジル様が目に触れないようにと気を遣ってくださっていたおかげで、ほとんど見る機会はなかったものの、完全にシャットアウトすることはできず、何度かは目にしてしまったことがある。

 そう、ジル様の裸を見るのはこれが初めてではないのだということに気づいてしまった。

 今さら恥ずかしがっても、という気分になってくる。俗にいうスンッという状態だ。

 腹が据わったところでノック音が響いた。「はい」と返事をすると、ジル様が部屋に入ってきた。


「アリーシャ、入りますよ」


 ジル様はいつものかっちりとした服とは違い、ラフなナイトウェアを着ていた。

 お風呂上りのせいか、頬はほんのり上気し、髪は湿り気をおびていた。そんな姿でさえかっこいいと再認識させられる。

 いつもとは違うジル様の姿にぽーっと見惚れていると、彼はこちらを見て身動きを止めた。

 お互い何も言えずに見つめ合うこと数十秒。

 ぎこちなく動き出したジル様が私の隣に腰を下ろした。

 横並びに座ったものの、ジル様はこちらを見つめたままでまだ何の反応もない。

 もしかして、私なにかおかしな格好をしているのかしら?

 用意されていたものを着ただけとはいえ、こうもじっと見られては落ち着かない。

 視線と沈黙に耐えきれなくなって、ベッドから立ち上がる。


「せ、せっかくですから、何かお飲みになりますか?」


 飲み物が用意されている円テーブルを目指して一歩踏み出した瞬間、ジル様に「待って」と手を引かれた。

 そのままバランスを崩して、ジル様の膝の上に尻もちをついてしまう。


「す、すみませんっ!!」


 開口一番に謝罪して、わたわたと立ち上がろうとすると、背後から伸びてきたジル様の腕にすっぽりと抱きすくめられた。

 驚いてジル様の顔を見ると、彼は私の肩に顔を埋めたまま「このままで」と言った。

 不意のできごとに、さっきまであんなに落ち着き払っていたはずの気持ちがさざ波立つ。

 普段着ているものよりも布地が薄いせいか、いつもより早い鼓動の音が伝わってしまうのではないかとそわそわしてしまう。


「緊張してます?」


 聞かれて正直に小さく頷き返すと、ジル様から「僕もです」と返された。


「ジル様も?」

「ええ、緊張してますよ」

「でも、その、私たち……一緒に寝るの、初めて……ではありませんわよね?」


 それでも緊張するものなのですかと言外に問いかけると、ジル様はくすりと笑った。


「じゃあ、どうして今貴女は緊張しているんですか?」


 どうしてかと聞かれれば。


「だって、以前と違って目の前にジル様がいらっしゃるんですもの……」


 前は一つの体を共有していたわけだから、距離的には今よりもっと近かった。

 でも、視界にジル様の姿があるのとないのでは全然違う。

 温かな手に触れるたびに、澄んだ青い瞳に見つめられるたびに、優しく響く声で名前を呼ばれるたびに、愛おしさがこみ上げて心臓が高鳴るのだ。

 元の体に戻って距離は離れたのに、前よりずっと近くにジル様を感じるようになっていた。

 ジル様が私の髪を梳いて、優しく微笑みかけてくる。


「僕も同じですよ。ずっとずっと好きだった貴女にやっと触れられるんです。夢にまで見たこの時に緊張しないわけがないでしょう?」


 そうしてジル様は私の左手をすくい上げて手の甲にそっと口づけると、「アリーシャ」と名前を呼んだ。


「愛しています。今夜、貴女のすべてを僕にください」


 どんなに恥ずかしい言葉でも、ジル様が言うと様になってしまう。

 たくさん恋愛小説を読んでこの手のセリフには耐性があると思っていたのに、いざ自分が言われてみると耐性なんて何の役にも立たなかった。

 胸がいっぱいで言葉が詰まる。

 一呼吸おいてから、まっすぐにこちらを見つめてくるジル様の目を見つめ返して、私はいつか彼に贈ったハンカチに刺繍したナズナの花言葉と同じ言葉を返した。


「はい。あなたに、私のすべてを捧げますわ」

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