第百九十四話 帰艦
結局あの後、ヴァレンティナと再び顔を合わせることなく輝星らは巡洋戦艦"レイディアント"へと帰還した。白色灯に照らされた廊下を、輝星とディアローズが歩いている。
「鞭で随分ひどく叩いちゃったけど、大丈夫?」
心配そうな表情で、輝星は後ろを歩くディアローズに向かって言う。生まれて初めて鞭で人を殴ったのだ。もちろん加減はしたが、結局彼女の白い肢体にいくつもの痕を残してしまう羽目になった。
輝星も輝星でディアローズに鞭で打たれた経験はあるのだが、あの時はまったく痕も残らなかったのだ。そのことを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになってくるのである。
「何を言う、あれくらいがちょうどいいのだ。いやむしろ、物足りなさすら感じたぞ」
「ええ……」
ツヤツヤした良い顔でそう答えられてしまえば、輝星としては困惑するしかない。被虐趣味というのは、彼にとってはなかなか理解しがたい部分があった。
「次の機会にも、遠慮なく叩いてもらっていいぞ? ん?」
ちらりと輝星の手元を見つつ、ディアローズは艶やかな笑みを浮かべた。彼の手の中には、ディアローズ愛用の電磁鞭があった。彼女がどうか貰ってくれと、押し付けたのである。
「せっかく綺麗な身体してるんだから、あんまり痕とかつけたくないんだけど……」
「……」
不意打ち気味にそんなことを言われ、ディアローズは絶句しながら顔を逸らした。なんとか取り繕っているが、明らかに口元が緩んでいる。
「で、では仕方ないな。痕が残らない鞭を用意しよう」
「結局鞭打ちはやるのね……」
ため息を吐きつつ、輝星は周囲をうかがった。ずいぶんと恥ずかしい話をしている。まさか、ほかの者に聞かれるわけにはいかなかった。幸い、話の聞こえそうな範囲に人はいない。
「それから、アレだ。さっきは未遂で終わったが、次こそ足を舐めさせてくれぬか?」
「バッチイからやめなさいよ、そういうのは。お腹壊したらどうするの」
「しかしな、ハッキリ言って
ニヤニヤと笑いながらそんなことを言うディアローズだが、遠くに人影を発見して即座に口をつぐんだ。
「あれは、テルシスか?」
皇国艦の内部ではひどく目立つ帝国軍服を纏った背の高いその女は、たしかにテルシスのようだった。向こうもこちらに気づいたらしく、輝星を目にしたとたん顔を真っ赤にした。そして反射的に自分の唇を指で押さえると、そのまま踵を返して一目散に逃げ去ってしまった。ドタバタという優雅からは程遠い足音が、どんどんと離れていく。
「なんだあれは」
ただ事ではないその態度にディアローズは目を細め、立ち止まって輝星の方を一瞥する。
「もしかして、奴とキスでもしたのか? 唇と唇とで」
「う、うん、まあ……」
ほかの女とキスしたことを気取られるのは、なかなかに居心地の悪いものだ。冷や汗を垂らしながら肯定する輝星だったが、ディアローズは怒りもせずに愉快そうに笑った。
「あの唐変木があのような顔をするとはな。くふ、面白いものを見たな」
そう言って、バツの悪そうな表情の輝星の頭をぽんぽんと叩いた。優しい手つきだ。
「暇になったら、調教でもしてみるがいい。きっと面白いことになるぞ」
「ちょ、調教……」
「その時は
嫉妬のひとつも見せいないその態度に、何とも言い難い感情を抱く輝星だったが、その時通路の曲がり角からぬっと人影が現れた。テルシスではない。もっと背が低かった。
「……ああ、お戻りでしたか」
それは、幽霊のような顔色をしたシュレーアだった。激務続きがずいぶんと答えているのか、ずいぶんと疲れの滲んだ声音だった。
「う、うん、まあ。……大丈夫?」
「大丈夫です、今日一日は休みを貰えたので……」
ふらふらとしつつ、力ない笑みを浮かべるシュレーア。
「もう夕方だよ……」
「……ま、まあ休めないよりはマシですよ。とりあえず、夕食まで仮眠しようかと」
「ほう」
小さく頷いて、ディアローズは輝星とシュレーアの双方の顔を交互に見た。そして輝星に、小さく耳打ちする。
「ご主人様、抱き枕にでもなってやったらどうだ? 妻の疲れを癒すのも、夫の仕事のうちだぞ」
「え? ううん……」
そんなことで、疲れはとれるのだろうか? だが、シュレーアの顔色は尋常ではない。たしかにストレスの解消は必要そうだ。ダメもとで、聞いてみることにする。
「よ、良かったら……一緒に寝る?」
「え、いいんですか!?」
輝星の予想に反して、その言葉の効果はてきめんだった。シュレーアは表情をぱっと明るくし、彼に詰め寄る。
「う、うん」
「ありがとうございます……! この頃、もう本当にキツくて……仕事は多いし、輝星とはあんまり会えないし……」
慰安旅行から帰ってきて以降、シュレーアは執務室と化した艦隊司令室からほとんど動けない日々を送っていた。フラストレーションの溜まりようも尋常ではない。
「では、邪魔にならぬよう
その様子を見て少し笑ったディアローズは、手をひらひらと振りながら歩いて行ってしまうのだった。
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