第九十二話 抱擁
「海へ出ても……暇なのには変わりがないなあ」
大きく伸びをしながら、輝星が呟いた。彼の目線の先には、真っ青な大洋が広がっていた。隊列を組んで航行する大量の皇国艦の他には、周囲に島や人工物の陰はない。
「心配しなくても、あと一日もすれば作戦決行ですよ。しばらく暇なんて言えないような状況になるのでは?」
隣でシュレーアが苦笑した。そうはいっても、気が抜けているのは輝星だけではない。彼らが居る"レイディアント"の第一甲板では多くのクルーが働いているが、誰もかれもがだらけた雰囲気を出している。ここしばらくまともな戦闘がなかったせいで、すっかり皇国兵たちの気合は抜けていた。
「確かにね」
皇国艦隊は今、次の要塞攻略のために別の大陸へと向かっている。この作戦が成功すれば、惑星センステラ・プライムの攻略はかなり容易になるだろう。
「とはいえ、船旅ってのはやっぱりのんびりした気分になるなって方が難しいんだよね。空や宇宙ならビューンとあっという間なのにさ」
「敵のレーダーを避ける必要がありますから……海があるなら、浮いて進むのが一番手っ取り早いんですよ。地表スレスレを飛ぶのは速度が出ませんし、神経も使います」
現代の軍艦は反重力リフターと強力な推力で空を飛ぶことが出来る。しかし、やはり航空機として設計されているわけではないので飛行はあまり得意ではないのだ。そもそも、何万トンもある鉄の塊が空を飛ぶこと自体が無茶なのだから仕方がない。よって、軍艦は海のある惑星では普通の船と同じように海上を主な活動場所とすることが多かった。
「それはわかってるよ。ま、仕方ないよね。こればっかりはさ……」
肩をすくめて、輝星はちらりと横を見た。船の端っこで、釣り竿を握っているクルーが居る。
「……釣れるのかな、あれ」
「結構な速度が出てますから、網で捕まえるならともかく釣りはちょっと怪しそうですね……」
「だよねえ」
輝星はクスクスと笑った。シュレーアも釣られて笑うが、すぐに小さくため息を吐いた。兵士たちのここ最近のダレ具合は嘆かわしいものがある。こんな調子で大丈夫なのだろうか?
「あんまりいい傾向じゃないのは確かだよね」
彼女の表情から考えを察した輝星が、自分のだらけようを棚に上げつつ言った。もっとも、輝星は実戦慣れした傭兵でありオンとオフの切り替えは上手い。しかし多くの皇国兵は今回の戦争が初めての実戦であり、戦場に慣れているとは言い難いのだ。
「一人ひとり捕まえて、注意すべきでしょうか?」
「上の人間に言われてからって、すぐに態度を改める人ばかりじゃないからね」
「そうですね……」
サキを見ればわかるが、ヴルド人の兵士には跳ねっかえりが多い。口でどうこう言ったところで大半は無意味だろう。
「もしかしたら、これも向こうの狙いなのかも。油断を誘って、最高のタイミングで攻撃を仕掛けてくる。常套手段じゃない?」
「嫌なことを言いますね」
シュレーアは顔をしかめた。出港して既にかなりの時間が経過しているが、今のところ帝国による妨害はない。事前情報によれば、この星に駐留する帝国惑星軍には潜水艦が配備されているらしい。しかし、現在まで一度も潜水艦が出没したという報告はないのだ。不気味なことこの上ない。
「向こうの指揮官は、無能じゃないよ。ルボーアでの采配や退き口を見ればわかる。こっちが一番嫌がることをしてきそうだ」
「一応、水中・水上ともに最大限の警戒をするよう命令を出していますが……それだけで何とかなったら、こんなに押し込まれてませんね……私たち」
ただでさえ帝国軍は兵器の質が高く、数も多いのだ。おまけに指揮官も有能となれば、とても油断できる相手ではない。後手に回った時のことも考えて行動すべきだ。
「なんだか、不安になってきました」
「そうやって不安で相手を縛るのも、上手い指揮官のやり口だよ。疑心暗鬼になると、どうしても動きが鈍くなるからさ」
「やめてくださいよ」
追撃するような輝星の言葉に、シュレーアは口元を引きつらせた。
「ごめんごめん」
そんな彼女に、輝星が気楽に笑って返す。その余裕の態度に思わず羨ましさを覚えて、シュレーアは目をそらす。視線の先に広がる大海原は、どこまでも透き通った青色だった。
「……」
シュレーアは輝星に向き直り、無言で彼の手を掴んだ。そしてそのまま、輝星を近くの物陰へと押し込む。
「えっ、何……」
突然のことに混乱する輝星を、シュレーアはぐっと抱きすくめた。軍服越しのしなやかな肢体に包まれ、輝星が目を白黒させる。
「あなたの、焦った顔が見たくなりました」
十秒ほど抱き着いた後、シュレーアは輝星を解放した。余裕ぶった表情を装ってそんなことを言うが、彼女の顔は蒸気でも噴きそうなほど真っ赤だ。うるんだ瞳が、輝星の目を真っすぐ見ている。
「……確かに、びっくりした」
セクハラには慣れているが、シュレーアからされるとは思っていなかったのだ。彼女もどちらかと言えば変態の部類ではあるが、根がヘタレなのか直接手を出してくるようなことは今まであまりなかった。
「わたしも、結構焦ってるんですよ。戦いに負けるわけにはいきませんし、あなたを巡るライバルはたくさんいますし」
「殿下、それは……」
俺に言われても、と言いたげな表情で輝星は口をへの字にした。しかしシュレーアは彼の唇に指を当て、発言を遮る。
「殿下なんて他人行儀な呼ばれ方をずっとされるし」
「名前で呼んでほしいの?」
「もちろん」
「しょうがないなあ……」
輝星は軽く笑った。彼女が自分との距離を詰めたがっているのは理解している。実際のところ、シュレーアのことが嫌いなわけではない。何事にも必死な彼女の姿勢は好感が持てるし、なにより空回りが多くて見ていて楽しいのだ。しかし、輝星も腹上死は避けたいのでそう簡単に交際するわけにもいかない。
「シュレーアって呼べばいいの?」
「そうです。もう一度、わたしを呼んでください」
「シュレーア」
目の端に涙を浮かべて、シュレーアは何度も頷いた。名前を呼んだ程度でここまで喜ばれると、逆に輝星の方が恥ずかしくなってくる。
「今日のところはこのくらいで! そろそろ艦内に戻るよ! 奇襲にすぐ対応できるよう、コックピットで待機しておいた方がいいでしょ」
踵を返して速足で歩き始める輝星。その背中を、シュレーアは慌てて追いかけた。
「ま、待ってくださいよ!」
二人がそんな青春じみたやり取りをしているのと同じころ、皇国艦隊の後方には奇妙な物体が浮かんでいた。洋上迷彩が施されているため見えづらいが、プラスチック製の小型
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