Phantom Pain; Avatāra :Demon's...

 マスターの地図に従って歩いていくと、やがてネオンの呪言もけばけばしいビルに辿り着いた。既に老朽化著しいビルは一部が爆裂現象で錆びた鉄骨を剥き出しにしており、塗装も一部剥がれている。白華現象で白い雫が固まり、それが極寒地獄の氷柱を連想させた。


 だが、その外見の見窄らしさが実際とは異なることを、男の眼は既に見抜いていた。呪術結界と光学迷彩の合わせ技――。


 光学迷彩技術は先の第三次世界大戦時、歩兵の常識を一新させた。しかし、不自然さはどうしても隠しきれなかった。大戦時は不完全だった、人の眼をハックする技術は、戦後にもたらされた魔導技術によって新たな領域ステージへと辿り着いた。即ち、生じる違和感の元を呪術で補完するという発想だ。違和感とは人の眼と脳という器官が、通常あるべきとされる映像の齟齬を認識することで発生する。ならば、そもそもの認識をズラしてやればいい。


 そう、認識を避けさせる。つまるところ、人は路傍の石に注意を払わない。取るに足らないという咒いを撃ち込んでやれば、そうと知らぬ者には真実は見えぬ。


 非科学的魔導観測物、地球外高次元似像体――いや、むしろ俗称の方が馴染み深いだろう。


 ――〝悪魔〟――


 そう、〝悪魔〟と呼ばれるモノがもたらした、魔法・魔術・呪術といった類の技術体系。それらは、人類が培ってきた科学技術と融合し、人外の科学と化した。このビルもその技術の産物の一つだ。


 中には、文字通り悪魔に身を捧げた――ある意味では悪魔以上の没義道どもがひしめき合っている。隻腕の男の眼にはその様子ありありと見て取れた。


 だが、それがどうしたというのだ。仮に、ここが人とは言えぬ悪魔の巣だったとしても、男が足を止める理由にはならぬ。むしろ、なお歩みを止めぬ理由となる。


 真正面。小細工など弄している暇はない。そもそも必要がない。堂々と切り込み、えぐり、引き裂き、潰し、喰い、散らかすだけ。凶暴な感情に囚われると、なくしたはずの右腕が疼く痛みを訴えかけてくる。


〝今夜は何を供する?〟


 空虚な風の音に、幻肢痛と共にそう囁かれた気がした。


 雨上がり。吹く風は冷たく、男のコートを翻す。


 * * *


 呪術的魔術的に強化された建物を棲家としている、人の形をした魑魅魍魎はその鋭敏な嗅覚で招かれざる客の到来を知った。


 枯れた印象のある男は、裾のほつれた黒いコートを着ているが、これが尋常な代物でないことはネオンで刻んだ呪文が明らかにしている。上級の魔導具――。おそらくだが、防弾防刃に加え防咒加工が施された逸品だ。そんな代物を所持し、更にここまで酷使せざるを得なかった男の経歴かこはさぞかし壮絶に違いない。


 だが、このビルを巣としている百鬼もまた、尋常とは遠い存在である。ヒトにしてヒトを捨て、ヒトを脱した存在。


 魔導ドラッグを白京バイジンの闇に流し、魔都と呼ばれるまでに猖獗を極めた一翼を担っているのは、紛れもなく彼らだ。


 アヴァターラ。今や、裏の世界では名も知れた央華マフィアであり、白京バイジンでの取引のほとんどに関わっていると言われている。


 薬物的或いは電子的なドラッグと異なり、魔導ドラッグは領域から悦楽を引き出す。制御の効かぬ、そもそも正体も判然としない代物である。故に、世界中で禁じられており、所持だけで極刑をも辞さない国も存在しているほどだ。特に、大戦後の混沌期に魔導兵器による内戦を経験した国に顕著だ。だが、世界の兆候にも構わず、内戦を経験しなかった央華民国では規制が遅れた。結果、効果的な対策を講じる前に黒社会の跳梁を許す結果となり、白京バイジンは世界有数の魔呪麻薬のマーケットとなった。


「所詮は下っ端だがな」


 男は嘲りの笑みを浮かべる。


 携帯電話を取り出す。骨董品から複製されたものだが、今の時代においてはかえって信頼性が高い。今や、機械部品にも魔的ないかがわしい臭いがしないものは貴重だ。


 登録していた電話番号を呼び出す。今でもつながればいいが。


『――誰だ?』


 押し殺した低い声は快活さなど微塵も感じさせない。裏稼業に携わる者特有の、不信に彩られた声音。これに懐かしささえ抱くのは、男が以前よりも枯れてしまったが故か。


「俺のことは忘れたか? もう番号を消去していたみたいだな」

『……あ?』

「なあ、ロウ?」

『ッ――お前、誰だ?』

「誰だと思う?」


 ビルを注視していると――見えた。窓の向こう、かすかにブラインドが揺れて、忘れぬ顔が。


「そこか。まかり通らせてもらう。待っていろ」


 それだけ告げると、煙草に火を点ける。緑色の炎がチリチリと乾燥した草を燃やす。紫煙が肺を満たし、血液を通じて全身に毒を巡らせていく。脳を腐らせる煙に身を委ね――一本吸い終わる。


「では、推して参る」

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