5-12
首を傾げてみせる“私”が腹立たしくて、私は睨むようにそいつを見据えた。
「通してくれる?」
その先には、レイがいるんだから。
“私”は全く表情を変えようとしなかった。
知ってるはずなのに。私の気持ちも、レイが今、どんな――
「通して」
動かなかった。感情がないのだろうか。
それなら、と私は“私”の横をすり抜け、
「どうして行くの?」
意識が、闇の中へ沈んでいった。
*
『まってよ、おいていかないで!』
背中はどんどん遠ざかって、私は足をもつれさせながら必死で追いかける。
『ひとりにしないでよ!!』
私が転んでも、どんなに泣いたって、立ち止まってはくれなかった。
ひとりになるのが怖かった。
やっと、一緒にいてくれる人が見つかったと思ったのに。
『まって!!』
やっと、追いついた。
上着の裾を掴むと、頑なに前を向いて振り向こうとしなかった背中がようやく振り向く。顔は見えない。
その背の高い人はゆっくりと振り返って、涙と泥に濡れた私の手を汚らしいものかのような目で見て払いのける。
何が起きたか分からなくて、突き飛ばされたことも分からなくて、私は必死に立ちあがって再び向けられたその背中に追い縋る。
『まって、まって、』
涙声にその背中は舌打ちをし、わざとらしい笑みを浮かべて、つくりものの猫撫で声で、
『お前なんか――』
「いらない」
聞こえた声は、誰のもの?
顔を上げると、そこはいつもの家の前の道路だった。
『こんにちは』
いつも挨拶をするおばさんがいた。こんにちは、と優しげな笑みを返した彼女はいつものように私に手を振って、ぱんぱんに膨らんだ買い物袋からこぼれ落ちた林檎をひとつ私の手にのせてくれた。
夜は怖い。ひとりが、怖い。
ふとおばさんの声が聞こえた。
私は顔を上げる。窓の外からだった。聞きなれた明るい声が夜の道にこそこそと響いていて、私はほっとして窓の外に向かって手を振ろうとして、カーテンを開けかけて、
『……母親が失踪したんでしょう? ほんと嫌だわ。子供だから何も知らないのかもしれないけど、どうせ男の所に行ったに決まってるわ。汚らわしい、同じ血を引いてるのがよくわかるわね。愛想だけはよくて、いつもいつも。ほんと、あんな子―――』
どきどきした。
そんなこと言われたこと、なかったから。
いっつも私は“要らない子”で、疎まれて生きてきたから。だから嬉しかった。なにも言えなかったけど、明日、明日にはきっと、
『だってさ、あいつ親いねーんだぜ?』
何の話だろう。
さっき聞いたばっかりの声が聞こえて、反射的に私は立ち止まった。教室からだった。
『都合いいじゃん? 家に帰りたくないときとかさー。ま、あいつ暗いし何考えてんのかしんないけど顔はそこそこじゃね? 未来のダイニフジン、みたいな』
哄笑が聞こえた。
お前ひっでー、とか、第二は上すぎじゃん、とか、
『当ったり前だろー。じゃなきゃ誰があんな女。あんなの、俺には―――』
「いらない」
また聞こえた。
気がつくとそこは暗い闇の中で、そこには誰もいなくて、私が、“私”がいるだけだった。
「いらないいらないいらない。何回言われてきたのかなあ」
無感動な目で見つめてくる“私”は、くすくす笑いながら私を見下ろした。
いつの間にか私は座り込んでいた。
「そうだよねえ。いらないよねえ。私は何もできないし、別に誰に必要とされてるわけじゃないし。邪魔だよねえ。ならいっそ、誰か私のことを憎んで憎んで、……そうしてくれたら楽だったのに」
ふふ、と声が聞こえる。
「騙されて、貶されて、疎まれて、傷つけられて蔑まれて陥れられて裏切られて嫌われて。もういいよ。私は一人がいいの。ひとりでいれば、誰に嫌われることもない」
それに。
「嫌われるよりだったら嫌う方が、蔑まれるよりは蔑む方が楽だし。ね? お前らみたいな馬鹿どもに付き合ってられないって、自分はお前らとは違うんだって、思ってた方がよっぽどいいし」
「……やめてよ」
「だから、寄ってくる奴らみんな邪魔。私はひとりがいい、邪魔しないで。私のこと知ってるような顔しないでくれる? あんたらみたいなのがいるから私は」
遮った。
「違う!!」
「否定するの?」
闇が歪む。
「こーんなに嫌な思いしてさ、まだ希望なんて持っちゃってるわけ? あはは、おめでたいねー。ほんとは知ってるでしょ? そんなの無駄だし、ありえない。私なんかが誰かに必要とされたりとか、しない」
ぐじゃ、と音を立てて粘性のある暗闇が潰れる。歪んだ隙間から、暗闇から、溢れ出てくる記憶。
私の記憶。
「分かるでしょ、ほら」
「やめてよ」
哄笑、嘲笑、嗤笑、
耳を塞いだ。
「――やめて!!」
ぴたり、と音が止む。耳鳴りがする。
「いかなきゃ、いけないの」
立ち上がった。
「私は行かなきゃいけないの。だから、通して」
“私”の顔から笑みが消える。無表情な顔で、彼女は私に問いかける。
「どうして行くの? 何をしに行くの?」
「……助けたいから」
「助ける?」
“私”は飴色の髪を揺らして背後の闇を振り返った。
「どうして?」
私は肩にかかる赤銅色の髪を払いのけた。
「私なら、……わかるでしょ?」
「分かるよ。私だもん。本当は助けたいなんて思ってない。そのまま消えてなくなっちゃえばって思ってることくらい」
私は“私”を否定する。
「違う!! 私は――」
「違わない」
“私”は私を否定した。
「分かってるくせに。ひとりでいたい、普通でいたい。それが自分のためだってこと。人のこと考えられるくらい私は賢くないしそんな余裕もない」
「違う!!」
今度こそ“私”は黙り込む。
“私”の瞳はどこまでも冷たかった。誰も受け入れない、寂しさを強がりで隠そうとする目。自分は普通でひとりだと言い張る私。
そうか。
「――違わない、かもしれない。確かに私には余裕なんてないし、賢くもない。必要ともされてないかもしれない。でも、千里くんはいつも助けてくれたじゃない」
「さっきの聞いてなかったの? 命令だったって」
「先生はいつも私に教えてくれたじゃない。それに、必要だって言ってくれた」
「私が必要なんじゃない。七臣家の私が欲しかっただけでしょ」
「水島くんがいたから気付けたことだってある」
「こんな目に遭わされてよくそんなことが言えるよね」
呆れたように溜息をつく“私”は口元を歪める。
「いい加減思い出そうよ。騙されて、裏切られて、それが私なんだからさ。ひとりでいいじゃない、もう。他人を信じちゃいけないってこと。分かるよね? 信じたからこうなったの」
「違う」
なおも言い募ろうとするのを遮る。
「コウはいつも私のこと見守ってくれてたし、」笑う。「おいしいご飯だってつくってくれて、おかえりって言ってくれた」
眉間に皺が寄る。
「……だから何? 役目だからでしょ」
「そうかもね」頷く。「でもそれだけで十分だったはずだよ。“私”には」
“私”は、――彼らと出会う前の私は、沈黙する。
私は微笑んだ。
「違うよ」
視線を落とした“私”は、辛そうに顔をくしゃくしゃにして唇を噛む。
「誰かといると辛いだけだよ。離れていってしまう。私のことなんて、いつかきっといらなくなる。分かってるのに」
「そうかもしれないね。でも、それでも……、離れていってしまうって分かってても、そばにいたいって思う人がいるから」
いつしか“私”は私じゃなくなっていて、私は“私”で、“私”は私だった。
「さっき言ってたね。他人と関わらないこと、ひとりでいること、思い出せって。否定できない。認めるよ。そう思ってた。ううん、今もそう思ってるかも知れない。でもそれは違う」
「……?」
“私”は何を言っているのか分からない、というふうに首を振った。
「傷つくくらいなら誰もいらない。離れてしまうなら手に入れない。いらないって言われるくらいなら自分から言えばいい。そんなの、逃げてるだけだから。
傷つくのが怖いから。
傷つくのが嫌だから。
自分のことだけ考えて、逃げ回ってただけ。私は、臆病で卑怯だった」
そんなんじゃだめだよね、と私は小さな私の手を握った。
目の前にうずくまる、小さく震えながら泣きじゃくる少女。
ああ、そうだった。
この子に背を向けて、手を払い続けて、いらないって言い続けてきたのは私。
私だったんだ。
「痛みを知ってて、でもそれを隠そうとしてて、隠し切れてなくて。強いくせに弱くて脆くて強気なくせに変なところで臆病で、だから」
私は自然と笑顔になった。
びく、と体を震わせて少女は顔を上げた。
真っ赤に泣きはらした目で、不思議そうに私を見つめる。
「そんなにそのひとのこと、たいせつなの……」
「うん。そうだね、何よりも、誰よりも、もしかしなくたって自分よりも。いつもそばにいてくれて、守ってくれてて……、違うな、こんなのは後付けの理屈だね。何を考えているのか分からない、いつも笑ってるのに誰よりも苦しんでた、彼が、レイが、私は好きだから」
笑った。声が抑えきれなくて、暗闇が少し揺れた。
「ばかみたい。レイは私といるの辛くて、苦しくて、なのに私は知らなくて。守られるだけで、与えられるだけで。私は自分勝手で。
……何もしてあげられなかった」
悔しくて、悲しくて、涙があふれてくる。
少女はじっと私を見つめる。
「私がしようとしていることはまた彼を傷つけるだけかもしれない。また苦しめるだけなのかも。私がそばにいてあげる、なんて。ばかみたい。私には、何も……」
「……違うよ」
やんわりとした否定に、私は言葉を止めた。
いままでずっと泣いていた少女は無表情だった。
「良かった。見つけたんだね」
ぎこちなく、少女は、
私は、笑った。
「うん、見つけた。だから、決めた」
「「もう逃げない。私は私を信じる。私はどんな道でも、自分で信じた道を歩いていく。私は、」」
その先の言葉も重なって、私は驚く。
どうして分かるの?
少女はぎこちなさの抜けた、あどけなさの抜けた顔で笑って、
――分かるよ。だって、私は――
闇が消える。
じわり、じわりと光が広がって、朝日みたいな明るさが眩しくて私は目を閉じて、
そこは、レイの傍らだった。
刃を突き立てられたまま、眠るように瞳を閉じて、動かない。
そっと手を伸ばして剣の柄を握り、引き抜く。
レイの頭を膝に乗せた。
なんて冷たいのか。体温はもうほとんどない。私が触れている部分からどんどんと熱が奪われていく。
陶器のように白い顔。
頬にかかった鋼色の銀髪をそっと払って、私は唇を噛む。
私の、大切な人。
ごめんなさい。私が、私のせいで、こんなことになってしまった。私が臆病だったせいで、あなたが。
これから私がすることは、あなたをまた傷つけるだけなのかもしれない。あなたはまた一人で歩いていこうとするのかもしれない。
でも。
ねえ、知ってる?
道は交わることはないって、前に言ってたよね。それは当たり前だと思う。どんなに距離が近い気がしたって結局みんなひとりだから。本当の意味で分かりあえることなんてないんだと思う。
でも、でもね。
こんな小さな背中に背負えるものは大きくないんだ。
だからなのかな、ひとりで歩いていても、大切な誰かに支えてもらって、助け起こしてもらって、手をつないで歩いて行くことはできる。
それはひとりであることを宿命づけられた私たちへの最高の贅沢で、わがままだから。
あなたはひとりじゃない。
だって私がいるから。
だから一緒に、この先の道を歩いていこう?
どんなことがあったって大丈夫、だって、私には、あなたが―――
私はレイの頬を撫で。
唇を、重ねた。
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