4-04
「次はどうします?」
涼しい顔で問う涼に、
「ちょ、ちょっと待って」
レイラは息も絶え絶えに答えた。
買い物を始めてから既に一時間強は経っている。ずっと休みなしでしかもかなりの重量のある荷物を抱えて歩いているのにも関わらず、涼は汗ひとつかかずに優雅に佇んでいる。
自分のこの汗まみれ埃まみれとは対照的に。
涼は少し不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「どうも何も、」深呼吸して息を整える。「疲れた……」
「そうですか?」
どうやら本気で不思議に思っているらしい涼にレイラは力なく笑う。
高貴な身分の人間は身体能力さえ凡人とはかけ離れていると思いながら、レイラは自分の疲労の原因に深く関わるこの一時間を改めて反芻した。
考慮するべきは涼の容姿だったのかもしれない。
最近周りに美形が増え過ぎているレイラはある意味不感症なのだろうか何も感じなくなっていて忘れがちなのだが、涼はかなり、というか物凄い美形なのだ。それこそ画面の向こう側にもそうそう見ることなどできないような並外れて整った中性的な美貌。幼さを残した顔立ちすらその綺麗さを際立たせる道具にしかなっていない。
そしてその類稀なる美貌の持ち主が真昼の一番人が多い時間帯に、商店街を歩いたらどうなるか。
そんな美形を独り占めするかのごとく隣に立ち、笑顔を向けられる女はどうなるか。
想像に難くないだろう。
という事実をすっかり失念していたレイラは、正直何があったかは朧にしか記憶していない。
そういえば以前何かの本で読んだことがあった。確か興味本位で借りた心理学の本だったような気がするが、人は忘れる生き物であるという。人間の脳は自分を最大限に活かし、生かすために防衛の機能を数多く持っている。空腹しかり、痛みしかり。それらは不快感を与えるが、それにより人間は守られる。
ならば生きるために障害となるような記憶を見つけたらどうするか。
簡単な話だ。消してしまえばいい。
それが自衛のために一番だと判断したなら、脳はためらうことなくそれをする。そうすることで自分が守られるなら。
そういう意味ではレイラは自分の脳に深く感謝するべきだろう。
それほどまでに、今までの一時間は凄まじかった。
知らず眉間に深い皺を刻むレイラに、涼は華やかな微笑みを向けた。
「少し休みましょうか」
「……」
頷きかけてレイラは固まった。
自分たちの後ろにぴったり二メートルの距離を保ってついてくる取り巻きたちの、激しい嫉妬、羨望、そして明らかな殺意。
血の気が音を立てて引いていくのが自分でもよく分かる。背中に流れる汗がどうしようもなく冷たい。
レイラは反射的に両の手をぶんぶんと振った。
ぎこちなく笑みを浮かべながら、
「いいいい、いいよ、ここまでで本当に! ありがとう本当にありがとう、本当に!」
必死な様子のレイラにさしもの涼も少しばかり怯んだようだったが、すぐに余裕を取り戻し、にっこりと笑みを深くする。
悲鳴のような喚声が上がる。
「いえ、そういう訳にはいきません。どうかお詫びを」
レイラはこれ以上ないくらいに首を振る。それはもうちぎれんばかりに。
「ううん、十分だよほんとに!」
今度は力強く頷いて見せるが涼は余裕の表情を崩さない。
十分というか何というか、もう本当に疲れた。もう帰りたい。それに、これ以上涼と二人で歩くのはちょっとという思いもある。
それに。思い浮かぶのは家で待っている二人の顔。
思っていたよりも遅くなってしまった。きっと心配しているだろう。
そう思うと、急に家が恋しくなる。早く帰りたかった。
「誰のことを考えているのですか?」
「え?」
レイラは顔を上げる。
涼は微笑んでいる。
だがその瞳は何の感情も映し出そうとはしていない。
「僕と過ごしているときくらいは、……せめて僕のことを考えていてください」
反論の余地すら与えずに涼はレイラの手を引いて歩き出した。
無言で歩く背中に、レイラはかけるべき言葉が見つからない。
謝ってもそれは本心からの言葉には決してならない。なりようがない。弁解をする理由もない。なのに。
「……」
重く空を侵食する雲を、黄昏が紅く染め上げていく。
*
やがて涼が立ち止まったのは商店街の外れにある、五階建ての小規模な廃ビルの前だった。
以前は何かの事務所であったらしい。最早文字すら色褪せて判別できなくなってしまった看板が華やかで鮮やかだった頃の面影を連想させて、何とも不気味だった。
だが今はただの廃れた古いビルに過ぎない。
「なに? ここ」
眉を寄せ、怪訝な思いで涼の背中を見つめる。
レイラに向き直り、
「見せたいものがあるのですよ」
レイラはますます怪訝に思う。
こんな場所に一体何があるというのだろう?
口には出さないまでも顔には出てしまっていたらしく、涼は苦笑しながらレイラの手を放した。
「別に何もしませんよ。約束、したでしょう?」
そう言うとさっさとビルの中に消えてしまう。
レイラは言い知れぬ不吉な予感と一抹の不安を覚えながらも、結局涼の後に従った。
階段を上りながら随所に見られるオフィスには見向きもせずに涼はただひたすらに上を目指す。
鍵も掛けられずに無防備に晒された部屋に無造作に椅子や机が打ち棄てられていて、レイラは少し背中に寒いものを覚える。
窓はほとんどなかった。数少ない窓さえ周囲を囲んでいる雑多な建物のせいで光は全くと言っていいほどない。
初夏だというのに肌寒い。
やがて涼の背中が立ち止まる。
階段はもう終わりらしい。レイラは目の前にそびえる鉄製の扉と涼の背中を見つめた。
扉には鍵がかかっているらしい。
「そこ、鍵が」
レイラが言うよりも早く涼はドアノブを力いっぱい回した。
「……」
もともと古くなっていたらしい、ドアノブはあっけなく外れてしまった。
立ち尽くしていた涼はひとつため息をつくと、右手をドアにかざす。
今のレイラには理解できた。涼がその凄まじい強さの魔力をかざした右手に集中させているのを。
「え、待っ……!」
何をしようとしているのか悟ったレイラが止める間もなく、ドアは派手な音を立てて吹っ飛んだ。
呆然とするレイラを涼は何事もなかったかのように促す。
「さあ、どうぞ」
抗い難い何かを感じ取り、促されるままにドアの向こうへと足を踏み入れる。
「……わあ」
思わずため息が漏れた。
そこは屋上だった。紅の空にたちこめる雲を染め上げ、街に深い影を落としてなお黄昏はそこに圧倒的な存在を示していた。フェンス越しの街はまるで影絵のように揺らめいている。
涼を振り返った。
「見せたいものって、これ?」
「ええ。この間偶然見つけまして。いい眺めでしょう? ここはこの時間帯が一番美しいですから」
レイラは視線を前に戻した。
今涼を正面から見つめることはできそうになかった。
正視できないながらも沈黙には居心地の悪さを感じ、レイラは口を開く。
「えと、今日はありがとう。本当に」
気にしないでください、と涼は首を振った。
「ただ僕がお詫びをしたかっただけですから」
うん、と頷き、レイラは涼の様子を窺う。
涼は無表情だった。
唐突に涼が口を開いた。
「あなたの使い魔、……狼の方は、お元気ですか」
口調は丁寧ながらも隠しきれない侮蔑が滲んでいる。
戸惑いながらも頷くと、涼はそうですか、とだけ呟き、少しの間のあと無表情に語り出した。
「償いというのは自分勝手なことです」
レイラは振り返った。
「それはいうなれば自分を満足させる手段にしか過ぎない。詫びを入れ、相手の損失を補った気になることで自分を納得させて罪の意識から逃れようとする、実に身勝手な行為です」
何を言っているのかよく分からなかった。
「あの銀色の獣、あれにはあなたに明かしていない何かがあるのではないですか?」
レイラは身を震わせ、目を剥いた。
「どうやら当たりのようですね」
当たりだった。
イリアという名前、昨晩に垣間見えたもの。
薄々感付いてはいた。もしかすると涼は、自分の中に存在していて考えないようにしていた何かを裏付けているのかもしれなかった。
突然の突風にレイラは現実に引き戻される。
紅い空。
「何が、言いたいの」
ようやくそれだけ言えた。
「あのような罪に塗れた獣を傍に置くあなたの神経が知れない」
「罪?」
緩やかに微風が吹き抜ける。
前髪に表情を覆い隠しながら、涼は淡々と語った。
「あの獣は魔界において犯さざるべきと定められた大罪を犯した」口許が微かに笑みの形に吊り上がる。「決して赦されることのない罪を」
頭に血が上る。
遠回しな涼の発言にレイラは苛立ちを覚える。
だから何だというのだろう。彼が罪を犯したことが何だというのだろう。そんなことは自分には全く関係なくて、
私にとって一番大切なのは、
「彼があなたに仕えているのは、彼が犯した罪に対する罪滅ぼしなのですよ」
切られた、気がした。
自分を繋ぎとめていた何かを、音を立てて。
「そう、自分勝手な、身勝手な償い。彼があなたの傍にいるのは自分を満足させるためだけです。決してあなたを守るためではない」
唇を噛む。
そんなことは分かっている。自分を守ると言ってくれたのは、全て使い魔という義務から生まれたものだということは。
分かっている。
そうでなければ、誰も自分のために、自分を守ると言ってくれるはずがない。
「犯した罪の大きさ故に、あまりにも大きな咎を負った獣」風が涼の髪を舞い上げた。その綺麗な顔に、露になる新緑の色をした双眸。「それは未来永劫消えはしない」
罰なのですから。
呟きとともに、涼は嗤った。
ですが、と涼は芝居がかった動作で天を仰ぎ、ゆっくりと両手を広げた。
「僕ならば、彼のその咎を消して差し上げられます」
蒼髪となった髪を風に揺らす。
「あなたは彼に犯した罪を思い起こさせる」片手を胸に当てる。「あなたがそばにいることで、あなたは彼を苦しめている」
べリアスを淡い緑色の燐光が包み込み、ふわりと舞い上がる。
「あなたが僕のものになると言うのなら、僕はあの獣の罪を消しましょう。……彼の幸せを願うならば、僕の許へくることです」
フェンスの上に降り立った。
見上げるレイラに優雅に一礼する。
「待っていますよ、我が花嫁」
風景に溶け込むようにし、べリアスはその存在をこの世界から消し去った。
いつの間にか太陽は沈んでいる。
紫紺の空にたゆたう燐光の残滓が揺れ、静かに舞い上がり、夜空に消えゆく。
レイラはひとり、虚空を見つめ、
滲む世界に、ただひたすらに空を映していた。
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