4-03
昼間の商店街。
レイラは一人で買い出しに出かけていた。
昨夜の疲れは色濃く残っていたが、睡眠不足ではない。というのも、あの結界の中にいたおかげか、〝特訓〟が終わった後に時計を見てみるとレイラが記憶していた開始時刻から一時間も経っていなかったからだ。
そのためレイラはほぼいつも通りの睡眠をとることができ、太陽の下を悠々と歩くことが出来ているのであった。
とはいえ慣れない魔力の行使による疲労はいまだ抜け切れてないようで、いささかの倦怠感は残っており体が重いように感じる。まあこれは仕方がないことだと諦めている。
そういえば、以前雪に会った時にも似たようなことがあった。あの部屋にさほど長い時間いたつもりはないのに、部屋から出たあと、気がつけばもう放課後で日が暮れかけていた。
確かコウが言っていた。魔法に様々な種類があるように、結界にも複数の目的で使い分けることができると。言い換えれば、その目的によっては危険なものにもなりかねないと。それと、雪もといクインにも気をつけろと言われた。あの人の家系、とりわけその中でも彼は魔界でも有名な策士らしい。確かに裏はありそうな、というか確実にいるだろうとは思ったが、そこまで警戒が必要な人間には思えなかった。本当の策士ならば策士であるということを隠し、何食わぬ顔で策を弄するのではないかと思うからだ。
空は快晴。
ここまで快晴を続けてよくも飽きないものだな、とレイラは空を見上げた。
ひとつ深呼吸。
せっかくの土曜日、過酷な学校生活を戦い抜いて、生き抜いて手に入れたせっかくの休日だ。レイやコウも家にいてくれるように頼んだし、今日くらいはゆっくり過ごせるだろう、いや過ごしたい。
別にあの二人と過ごすのが特別嫌だというわけではなかった。だが衣替えも近くなり、買い出すものの中にはやはり見られては困るものもある。たとえ人間ではなかったとしてもあの二人が男だという事実は何ら変わらない。
考えるのはやめよう。
足取りも軽やかに、レイラが歩きだそうとした、そのとき。
「ああ、これはレイラさん。奇遇ですね。こんにちは」
背後から掛けられたその聞き覚えのある声に、まさかと思いつつゆっくり振り返る。
案の定、そこに立っていたのは。
「なんだかお久しぶりのような気がしますね」
晴れやかに笑う、水島涼、二人目の魔王だった。
*
昼下がりの商店街。
レイラの足取りは重い。
つい先刻までの朗らかな様子はもう微塵も見られないような表情で鬱々と歩く原因は、そもそもすべて隣を歩くこの男のせいだった。
『僕もご一緒してもよろしいですか?』
まさかの予感が的中し呆然とするレイラに涼はそう言った。
レイラは断固として拒否した。いや、正確にはするつもりだった。
しかし、
『先日の僕の使い魔の件についてお詫びをさせてください』
ああそういうこともあったっけなと遠い目をするレイラに、信じられないことにあの涼が本当に詫び始めたのだ。
『申し訳ありません、僕の使い魔が独断であのような行動を。あの者にはしばらくの謹慎を命じています』
本当に申し訳ありませんでした、と言いながら涼が目を伏せる。
レイラには目の前で繰り広げられている光景がこの世のものとは思えなかった。あの尊大で、とてつもないプライドを持つ魔王が他人、しかも自分に詫びを入れる日が来ようとは。
夢でも見ているのだろうか。
それが顔に出ていたのだろうか、というかそれをどんな風に解釈したのだろうか、涼が屈託なく笑った。
『ご安心ください、今日の僕は何もするつもりはありませんから』
今日の?
『それに、こんな賑やかな場所は正直に言うと初めてで。……一人で出歩くのは、寂しいのです』
何を言われようが断ろうと決心していたその意思がここで揺らいだ。
本当に寂しそうな顔で、そんな弱みを見せられてしまったら。
もう放っておくことはできないと思わせられてしまっていた。
以前なら何を言われようと無視を決め込んでいたのに、とレイラは少し嘆息した。どうやら感化されてしまったらしい。恐らくお人好しなかなめあたりだろう、とレイラは微苦笑を口の端に浮かべた。
『……駄目ですか』
だめですという言葉は出てこなかった。
涼は託宣で選ばれた七臣家の血を引く(らしい)自分を狙っている七臣家のべリアスで、二人きりになれば危険だというのは百も承知だ。今まで生きてきた中での経験上、本人の言葉ほど当てにならないものはないのだ。人はその必要があるなら黒を白とでも平気で言ってのける。それがたとえ本心からの言葉であったとしても、それは“そのとき”限定の話だ。時間が経てば気が変わるということもあり得る。
だけど、とここで少し迷った。呼べばすぐにレイやコウが駆けつけてくれるという安心感も確かにあった。そのせいかもしれない。
涼を放ってはおけないと、少しくらい付き合ってもいいかもしれないと思ったのは。
たとえその寂しいと言ったその姿が演技であったとしても、自分に対する呆れがまたひとつ増えるだけだ。
今ここで断ったら、絶対に後悔する。
『いいよ』
気がつけば、そう口走っていた。
そして今。
後悔している。
思えば涼とまともな会話を交わしたことなどないのだ。いきなり二人になって何を話せばいいのかなど分からない。先ほどまでとはまた違った意味で冷たい汗が滲む。
沈黙が流れる。
必死に頭を回転させて話題をようやく見つけ出したレイラは小さく声を上げ、話を切り出した。
「そういえば、学校休んでたんだね」
涼は意外なものでも見るかのような目でレイラを見、数瞬の後、
「……ええ、少し実家に呼ばれていまして」微笑む。「心配していただけたなら、ありがとうございます」
いや別に心配してたわけじゃ、とレイラはもごもごと口を閉ざした。むしろ喜んでいたとは口が裂けてもいえなかった。もっともその辺の事情は涼も察していることだろうが。
再び沈黙。
今度は涼が話を切り出した。
「こちらへは何を?」
まさか話を振られるとは思ってもいなかったレイラは虚をつかれて一瞬口ごもるが、しばし間をおいてやがて答えた。
「買い物。食材とか、いろいろ」
そうですか、と言ったきり涼はまた沈黙を守る。
気まずい。気まずいよ。
重苦しい沈黙に耐えきれなくなったレイラがそっと息をつくと、しみじみと涼があたりを見回した。
「随分賑やかですね、ここは」
居心地の悪さを感じながら、レイラは涼の数歩後ろを歩く。
「うん。このあたりだと商店街なんてここしかないから。みんな大抵ここを使うの」
生返事をしながら物珍しそうにしている涼にふと疑問を抱いた。
「魔界にはこういうところはないの?」
「ありません」即答。「我が領地に限らず魔界には安定した場所など存在しませんし、魔力さえ十分に扱うことができればこのような場所必要ないのですよ。安定など、必要ありません」
どこか自分に言い聞かせるように呟く彼の横顔を見上げる。まっすぐに前を見据えるその中性的な美貌は張り詰めた痛々しさを滲ませていて、いつもより大人びて見えた。
視線に気付き、ついとその綺麗な顔をレイラに向けてきた。
「何か?」
その取ってつけたような微笑みに、レイラはただ「なんでもない」と慌てて首を振った。
涼は何か言いたげに小首を傾げたが、結局無言のまま視線を戻した。
少しの間通りを眺めていた涼が、いきなりレイラの手を取る。
「では、参りましょうか」
「え!?」いきなりの事態に軽い恐慌状態に陥る。「ど、どこに」
レイラの剣幕に涼は目を剥いて立ち止まったが、やがてやれやれとでも言いたげに肩をすくめる。
「そんなに警戒なさらないでください。何もしませんと僕は言いました。約束は守りますよ、必ず」
不信感も露にしているレイラに涼は困ったような微笑みを浮かべ、ため息をついてみせた。
「やれやれ」態度に出すだけでは足りないとでも思ったのか、涼はそう口に出した。「何というのでしたか…ああ、自業自得、というやつですね」
心配しなくても、と涼は歩き出し、レイラを肩越しに振り返った。
「買い物にお付き合いします。荷物持ちくらいしますよ」
レイラはぽかんと口を開けて涼を凝視した。
「何か不都合でも?」
困惑する涼に、レイラは間抜けに口を開いたまま途切れ途切れに答えた。
「荷物持ちって……」信じられない。いっそそんなことするわけないでしょうと言われてしまったほうが気が楽になるような気がする。「あなたが?」
念を押した。
絶対に今のは聞き間違いだと自分に言い聞かせながら、レイラは涼の答えを待った。
そして、
「ええ、当然です」
鷹揚な仕草で肯定され、レイラは何か途轍もない衝撃を受けた。
あの三王家の魔王であるということに凄まじいプライドを持ちどんな手段を用いようと大魔王の座を手に入れようと画策しているあのべリアスが、べリアスともあろう者が、こんな本当に七臣家の娘かも分からないような自分のために、荷物持ちを申し出ている?
やっぱり、夢でも見ているのだろうか。
「夢などではありませんよ」まるで心の中を読み取ったかのように涼は言う。「三王家であるという点にプライドを持つのは当然でしょう? 執着はしていないつもりですが……、その三王家のプライドにかけても、償いを申し出ないというのは最上級の恥に等しい」
私は考えていることがそんなに顔に出るのだろうか。
「それがたとえ愚かな手下のせいだとしても。それが魔王としての誇りであり、三王家としてのプライドですから」
ぷい、と前を向いた。
前を行く涼の揺れる黒髪を眺めながらレイラは頬を掻いた。
三王家の、魔王の誇りを語る彼に見え隠れする寂しさのようなもの。
「分かった。じゃあ、お願いしてもいい?」
おずおずと声を掛けると、涼はそろそろと振り向いた。
「ええ、もちろん」
そこまで言われては仕方がありませんねという呟きも聞こえてきた気がしたが、それはまあそういうことにしておいてあげようか。
ふ、と笑うレイラに涼は心外そうに表情を曇らせる。
「何か?」
不機嫌そうな声にレイラはさらに笑う。
「ううん、別に。ほら、行こう? 結構買うものたくさんあるし、日が暮れちゃうよ?」
先に立って歩き出す。
涼はしばらく口を噤んだまま立ち尽くしていたが、
「…はい」
と華やかな微笑みを浮かべて、レイラを追って歩き出した。
*
「……はぁ」
重く深い絶望の込められたため息が、無人の廊下に溶けて消える。
もう俺なんか消えてしまえばいいのに、なんて顔で壁に背を預け心持ち猫背気味に立っているのは、鋼色の銀髪を持つ世にも麗しい美青年だった。
再びため息。
眉間に深く刻み込まれた皺さえも彼の麗しさを損なってはいない。が、そこにはレイラといるときに見せる穏やかな微笑みは見る影もなく、まるでこの世の絶望をすべてその身に背負ったような深い翳りをそのかんばせに覗かせるばかりだ。
「……はあぁぁ」
魂が抜けてしまうのではないかと疑ってしまうくらい長く息を吐き、何かもういっそ誰かこんな自分を消してくれとでも言いたげに彼はさらに影を背負う。
とそこへ、
「何をしている」
「……お前こそ」
どこから引っ張り出してきたのだろうか、三角巾にエプロン、マスクに両手には汚れをたっぷり吸いこんだ水と雑巾の入ったバケツ、それに箒をぶら下げてやってくるのは玲瓏とした端整な顔立ちの黒髪の美青年、コウだった。
相も変わらない無表情のまま、コウは無言で両手を指し示した。
「見て分からないか」
レイは心底脱力した。
「掃除しているように見えるな」
口元を斜めに気だるげに髪をかき上げるレイを、コウは怪訝そうに見つめた。
「どうかしたのか」
「別に」
コウはしばし首を捻り、やがて一つの事実に思い当たってひとり納得したように頷いた。
「今朝のことか」
レイの肩が震えた。
今朝、買い物に出るレイラに、レイは自分も行くと申し出たのだった。
だが、
『ううん、今日は一人で行きたいの。待っててくれると嬉しい』
と口調は柔らかであったものの、拒絶されてしまったのだった。
妙に有無を言わせないような口調だったのはレイの被害妄想ではないだろう。
コウの渡したやたら長い買い物メモを手に出かけたレイラを見送ったレイは、衝撃にどんよりと落ち込んだ。
どうやらそれは今も継続しているらしい。
あまりの沈みように少し憐憫の情を抱いたコウは、いつもより幾分か明るい口調でレイを励まそうと試みる。
「あまり気にするな。主もたまには一人で考えたいこともあるだろうし、羽を伸ばしたいと思うだろう」
レイは仄暗い目でコウを一瞥すると、つんとそっぽを向く。
「一人になる時間は、家でもあるように思う」拗ねたように呟いた。
俺はそうは思わない、家にいる時は大抵お前が傍にいるぞとは賢明なコウは言わないでおいた。
よいしょとバケツを床に下ろす。埃をたっぷり吸いこんだ灰色の水が表面を波立たせ、飛沫が床に飛び散る。
マスクを取ってポケットにつっこみつつ、コウは息を吸い、吐いた。
まったくどいつもこいつも手がかかる。
「離れていても主の居場所は俺たちには分かる。何かあったら駆けつければいい」
言い聞かせているような口調にレイは何も返さなかったが、それは肯定しているのだとコウは知っている。
その時本能とも言うべき部分に微かな異常を知らせる感覚が届いた。
異常に気付いたコウが鋭く視線を撥ね上げると、レイも警戒心を露に瞳を紅く煌めかせていた。
「これは」
「ああ」レイも頷く。「イルザードの気配だ」
これが意味する状況はただ一つ。
べリアスがレイラに近づいている。
だが、と二人は顔を見合わせた。
べリアスほどの力の持ち主ならば気配を消すことなど造作もないはず。
なのに何故堂々とレイラに接触する必要があるのだろう?
納得のいかない事態に逡巡しつつも迷っている暇はないと判断し、レイラのもとへ馳せ参じようと頷きあい、身構えたその時。
「邪魔はさせねぇぞ」
一陣の風と共に腑抜けた声で現れたのは、いつかの黒猫。
べリアスの使い魔だった。
小さな肢体が床に降り立つのを見、レイは見る間に剣呑な表情になる。
黒猫を睨みつける。
「何の用だ。誰の許しを得てここにいる」
コウの厳しい誰何に黒猫はただ飄々と笑うばかりだ。コウに視線を移し一瞬止まり、がすぐに我に返ると不遜に嘲笑った。
「面白い格好してるじゃねえか。趣味か?」
コウはどうでもよさそうに鼻を鳴らす。
血色の瞳を爛々と凶暴に輝かせたレイが怒気を込めて黒猫に低く吐き捨てた。
「答えろ」
黒猫は器用に左前脚を挙げて見せた。人間でいうと肩をすくめたくらいの動作だろうか。
「そう邪険にしなさんな。今日の俺はただの使い。争う気はねえよ」
レイは口の端を吊り上げる。
「そちらにはなくてもこちらにはある」
「やめておけ」
コウの制止に黒猫はうんうんと頷いた。
「そうしてくれ。俺の用件はお前らに伝達すること、あとは足止めだ」
レイが目を見開いた。
黒猫は勝ち誇ったように尻尾を振った。
「べリアス様とお前らの主、二人のデートを邪魔させねぇためになぁ」
「「デート!?」」
昼間の閑静な住宅街に、絶叫が轟いた。
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