1-03


「失礼します」

 校舎一階の隅、日当りのいい保健室。結局レイラは千里の言いつけを素直に守り、保健室にやってきていた。

 というのも脚の傷の血が止まらず、痛みが激しくなってきたからであって、自分の意思であって、千里のことは関係ないとレイラは誰に言うでもなく言い訳しながら保健室の扉を叩いた。ちらりと傷を見るといまだ血がにじみ出ていた。あまりの痛々しさに見ていられなくなり、レイラは目をそらす。

 声を掛けると、奥の机でパソコンの画面とにらめっこしていた保健医がイスごと振り返ってこちらを見た。


「おう、どうした?」

 保健室に来ることなんていままでなかったレイラは、当然保健医とも初対面だったのだが、

 知らなかった。

 まさか男だったとは。


 レイラは思わず保健医をまじまじと観察してしまった。

 保健医は明るく染めた茶髪い長髪をゆるくひとつにくくって前に垂らしているかなりの美男子だった。着流すように羽織った白衣と着崩したシャツとゆるく結ばれたネクタイが保健室の雰囲気と相まって、なんともいえない色気を醸し出していた。千里とは質の違う美形だな、とレイラは思った。

 そう、千里は烏の羽のように艶やかな黒髪を肩につく程度に伸ばし、ブレザーをかっちと着込んでいた。肌は色白でも無駄なくついた筋肉がひ弱な印象を打ち消していて、切れ長の瞳と低めの艶めいた声がなんとも魅力的な―――


 って何考えてんの私は。


 今まで考えていたことを無理やり振り払ったレイラは軽く咳ばらいをすると、保健医に向き直った。

「脚の血が止まらないので、手当てしていただければと思って」

 保健医が返事の代わりに手まねきしたので、レイラは歩を進めた。正しくは進めようとした。

 脚に激痛が走りしゃがみこんだレイラを、保健医はあまり慌てた様子もなく覗き込んだ。

 保健医が目を見開いた。

「うっわ、お前これどうしたんだ? 怪我してから結構時間経ってるだろ? なんですぐ来なかったんだ?」

 見ると傷口は、血で入った砂ごと固まってしまった部分といまだ血がにじみ出ている部分とがあり、かなり痛そうだった、というか痛い。

 レイラは保健医から目をそらしつつ答えた。

「怪我してるの、気がつかなかったんです」完全に嘘というわけではない。それがなんとなく後ろめたくて、レイラは申し訳ない気持ちになった。「すみません、お手を煩わせてしまって」

 そんなレイラを保健医は笑い飛ばした。

「おい、それが俺の仕事なんだからよ」笑うとたれ目がちの瞳が細まり、人懐こく愛嬌のある表情になった。「とりあえず泥入っちまってるから、傷、洗おうな」

 優しくそう言って保健医がどこからか取り出したのは、お笑い番組で芸人の頭にでも降ってきそうな大きさの、でかいたらいだった。

 レイラは予想外の出来事に目を丸くした。

「え、普通蛇口とかで洗いませんか?」

 保健医はレイラには構わず、レイラを軽々と抱き上げ、「ちょ、」椅子に座らせた。

「歩けないくらい痛いんだろ? そんなの水道なんかで洗えるわけないだろ」


 レイラはたらいに水を張り始めた保健医を眺めた。傷をたらいで洗おうとするところを差し引いても、変な教師。あの千里といい勝負だ…ってあの男のことは考えるなってば、とレイラは慌てて首を振った。

 しばらくすると水を張り終えたらしい保健医が真顔で言い放った。

「さ、脱げ」

 レイラは自分の耳を疑った。

 思わず聞き返す。

「…は?」

「脱・げ」保健医は大真面目だ。「脱げないなら俺が―――」

「いえいいです自分で脱げます」

 靴下のことね、と自分を納得させながら、レイラは痛みをこらえて靴と靴下を脱いだ。

 紺色の靴下は血を吸ってぐっしょりと濡れていて重くなっている。傷口はおろしがねで擦ったような悲惨な状況になっていて、動かすたび痛みが走った。

「よし、洗うぞ」なにがよしなのだろう。

 レイラは面食らった。

「じ、自分でやりますっ」

 保健医は取り合わずに抵抗するレイラを押さえた。

「だーめだ。素人に任せられるかよ」

「……」素人?


 抵抗する気力を無くしたレイラを見た保健医はしてやったりという風に口元に笑みをのせた。

「よーし、じゃ少し痛いけど我慢しろよ」どうしてこの男が言うとこうも不健全に聞こえるのか。

 保健医はたらいをレイラの足元に置くと、丁寧な手つきで傷口を洗いはじめた。

「痛いか?」

 心配そうにレイラの様子を窺う保健医に、レイラは苦笑した。

「大丈夫です」

 そうか、よかったと頷きながら傷口を洗う保健医を見てレイラは思った。今日はおかしい。こんなに他人に関わるなんて。

 おかしい。こんなに素直に笑える私も。

 しばらくの沈黙のあと、優しい手つきで傷口を洗っていた保健医が口を開いた。

「傷痕、残らないといいな。こんなにきれいな脚なんだから、もったいない」

 既視感。

「先生、セクハラはやめてください」

「お? 悪い悪い。他意はないんだぞ?」

 保健医は屈託なく笑った。その笑顔にすっかり毒気を抜かれてしまったレイラは小さくため息をついた。

 傷の洗いあがりに納得がいったらしい保健医は棚から薬を取り出してくると丁寧に塗り、包帯を巻き始めた。

「次はなんの授業だ?」

「体育ですね」

 答えたレイラに、保健医は茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。

「そうか、じゃ保健室で休んでるって連絡しておいてやるよ」内緒な、と片目をつぶった。

 おそらくこの保健医は、いざこざがあってレイラが怪我をしたことも、レイラが教室に戻りたがっていないこともお見通しなのだろう。そう気付いたレイラは居心地が悪いようなくすぐったいような気分になった。はっきり言うのが恥ずかしくて、レイラはもごもごと礼を言った。保健医は特に気にする風もなく気安い感じで応えた。

「んじゃ、クラスと名前は?」

 包帯を巻き終えた保健医は机に向かい、名簿を出した。


「一年C組、月城レイラです」

 一年C組月城レイラね、と名簿のページを繰っていた保健医の手が、止まった。


「……月城、レイラ?」


 保健医は目を見開き、目もとを険しくし、そして何かに思い当たったかのように呆然とし、そして、



 笑った。



「そうか、ロゼリウス家の……。まさかうちの生徒だったとはな……」

「え?」保健医の呟きを聞き取ることのできなかったレイラは聞き返した。

 保健医はゆっくりと振り返り、いままでのものとは雰囲気のまるで違う微笑みをその整った顔に浮かべた。

「……いや、なんでもない」

 その変わりようにレイラは思わず身構え、傷の痛みも忘れて立ち上がる。

「……」

 立ち上がったレイラを見つめ、椅子から離れて来た保健医を警戒し、レイラは後ずさる。だがそんなレイラの手首をいともたやすく捕らえると、保健医はレイラの頬に指をのばした。

「……レイラ」

 レイラは尋常ではない様子の保健医から逃れようと試みて驚く。

 体が動かない。

 お互いの息がかかるほどに近づいた保健医の唇が割れ、レイラに囁くように言った。


「俺の嫁になれ」


「……!? えぇ!?」

 突拍子もない話にレイラは飛び上がらんばかりに驚いた。といっても、とびあがりたくてもできないのが現状ではあるのだが。

 あまりの話の飛びっぷりに愕然とするレイラに、保健医は力強く頷く。

「心配するな、絶対に後悔はさせない。どんな贅沢もわがままも許す、欲しいものは何でも手に入れてやる。不自由はさせない。だから、俺の嫁に…」

 近づいてくる保健医の唇から逃れようと身じろぎをしようとしたレイラだったが、指一本動かすことはできない。それならばと声を張り上げようとしても、どんなに声を出そうとしても、声が全く出ない。体がまるで自分のものではないようにびくともしない。

 唯一動かすことのできる視線で、レイラは保健医の顔を見ていることしかできない。

 もうだめかとレイラが目を閉じ、唇が触れようとした瞬間、


 凄まじい爆音とともに窓から蒼い閃光が迸り、窓ガラスが内側から弾け飛んだ。


「っ!!」

 ようやく体の自由を取り戻したレイラは思わず尻もちをついた。

 呆然とあたりを見回してみると、ガラスは本当に内側から弾け飛んだようで、その鋭利な欠片はひとつも室内には落ちていなかった。それにあれほどの爆音があったというのに、人が駆けつけてくる様子はない。窓の外のグラウンドでは胸のすくような音とともに白球が飛んで行ったようで、何事もなかったかのように体育の授業が続けられていた。

 床にへたりこんだまま窓ガラスを見ていたレイラは、ふと保健医に目を遣った。

 保健医はもうすでに立ち上がり、窓の外を鋭く見遣っていた。

 窓の外の空は、相変わらず初夏の青空が広がるばかりだ。

 保健医は舌打ちした。

「もう来やがったか」

 憎々しげなその呟きとともに5時間目終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 溜息とともに、

「まあいい、今日はもう帰れ。連絡はしておくから。な」

 レイラはそろりと立ち上がり、なるべく保健医と距離を取った。

 そんな警戒心むき出しのレイラを見、保健医はさもおかしそうに声をあげて笑った。

「んな警戒しなくても、今日はもう何もしねえよ。心配すんな。

 して欲しいなら別、だけどな」

 そこで踵を返そうとしたレイラを呼び止め、保健医は真剣な眼差しでレイラを見つめる。

「さっきのは冗談でも酔狂でもねえからな」


 すると勢いよく引き戸が開く音がし、

「さっきのって、何のことです?」

 聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはなぜか鞄を二つ抱えた千里が何が嬉しいのか微笑みながら立っていた。

 保健室を見回し、レイラと目が合った千里は顔をぱっと輝かせ、駆け寄ってきた。

「レイラちゃん大丈夫だった?」

 レイラはしどろもどろに答える。

「あ、うん。平気」

 そこにちょっと待て、と保健医が口を挟む。

「その怪我、お前のせいなのか?」

 剣呑な口調で詰問してくる保健医に、千里は底冷えのする冷たい笑顔で保健医を見据えた。なぜだろう、一瞬この場の気温が少し下がったような気がした。

「確かに僕がもっと早くなんとかしていればこんな傷はつかなくて済んだかもしれませんね」しばし考える素振りを見せ、やがて、


「わかった、責任を取るよ」レイラの手を取り、「僕と結婚しよう?」

「何ぃっ!?」「えぇ!?」レイラと保健医の声が唱和した。

 千里は真意のつかめない微笑みを浮かべ、改めて保健室を見回した。

「それにしても小鳥遊たかなし先生、いつのまに保健室をこんなに斬新かつ大胆にリフォームなさったんです?」

「何のことだ?」

 千里は呆れたように唇を斜めにため息をついた。

「窓ガラスですよ。窓、すっかすかじゃないですか」

 保健医――どうやら小鳥遊というらしい――はばつが悪そうに眉を寄せた。

「俺がやったんじゃ、ねえよ」

 千里は窓ガラスのなくなった窓を眺めながら、意味深に目を細めた。

「へぇ」


 いまだに唖然としているレイラを振り向き、千里が、

「さ、帰ろうか」

「え、ちょ、ちょっと、」

 レイラの手をはっしとつかんで歩きだそうとした千里を見咎め、小鳥遊はびしっと千里を指差し険のある眼差しで睨む。

 千里はまたも呆れた顔で小鳥遊の視線を受け止め、

「もう担任に許可とってあります。用事があるので早退します」話は終わりとばかりに千里は歩き出す。レイラの手を引いて。

「待て!!」千里の前に立ちはだかり、「担任が許そうともこの俺が許さん!! 」

 千里は見る者を凍りつかせる冷たい氷のような視線で小鳥遊を射抜いた。

「先生の許可なんて要りませんよ」

 小鳥遊も負けじと千里を睨む。

「教師命令だ」

 千里は冷たい眼差しのままこれみよがしにため息をつき、かろうじて聞こえる程度の大きさの声でぼそっと呟いた。

「やだなぁ、職権濫用」

「何ぃ?」

 一触即発の空気の中熱く火花を散らしあう二人に馬鹿馬鹿しさを感じつつあったレイラがこいつらほっといて帰ろうと決めたとき、

「しょうがないな」と千里は軽く眼を閉じ、「じゃあ残念だけど、先に帰ってもらえるかな」

 本当に残念そうに肩を落とした。

 千里はレイラに、あらかじめ用意しておいてくれたらしいレイラの鞄を手渡した。

「あ、えと、ありがとう」

 素直に受け取ったレイラに、千里は満足そうに目を細めた。

「うん、また明日ね」

「俺の嫁に気安く話しかけるなっ!!」

 鬼のような形相で飛びかかってきた小鳥遊をひょいとかわしながら、千里は手を振った。


 レイラは力なく手を振り返すと、背中で保健室のドアを閉めた。

 溜息をつきながらレイラは思う。

 自分の長年のスタンスをこうも容易く破壊してしまう強者が一日に、しかも二人も現れるとは。

 世間は広い。

 しみじみと廊下を昇降口に向かって歩き出したレイラだったが、まだ一日は終わっていない。

 数時間後、レイラは改めて世界の広さを痛感することになる。


 窓の外には、大きな黒い鳥が一羽と、銀色の狗が一匹。

 レイラは不思議な気持ちでそれを眺める。


 ふたつの獣は、


 レイラをじっと、見つめていた。



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