折り返し

文綴りのどぜう

折り返し

「じゃあ、お会計で」

彼女より先に店を出た遼。その別れの夜にしっとり降る雨は、せっかく綺麗にセットした髪も、華やぐはずの席も濁らせてしまった。尽きぬ話に花が咲くかと思っていたのに、結局予定の時間の半分も座ってはいなかった。彼女の慣れない口紅があれだけ恨めしく僕の目に写ったのも、きっと今日の雨のせいなんだ。足も重いし、もうつま先が湿ってきたように感じる。アルコールは脳を麻痺させる。もっと呑めば良かった。


「待って下さい…あ…た……!」




あれは確か、一昨年の新年会だったはず。はやし立てられながら壇上に上がって、少し俯きながら「I love you」を歌った彼女が、僕の視界の全てになった。当時本当に、あの「I love you」が僕に向けて歌われた、そうとしか思えなかった。だって、時々目が合っていたもの。

ほどなくして届いたメールに、遼はすぐに返信をした。軽やかに返信が行き来し、やがて赤い糸がゆるりと2人を結ぶまで、それほど時は経たなかった。残業終わり、少し疲れて互いに靠れ合う2人の後ろ、地上33階の夜景を透かす窓には雨粒が光っていた。


どうして?どうして君はこんなにあっさりと別れを切り出せるんだ。式場も予約しようって言ったじゃないか。僕の両親だって、君のことすごい気に入ってた。やっとお前も腰落ち着けられるなって、父さん喜んでたよ。なのにどうして。



あの人と出会ったのは、2年くらい前の会社の新年会でした。幼馴染の兄の仁さんが勤めていた会社に内定して、その日はみんな少し酔っていたんです。カラオケ大会しようって仁さんが提案して、あっという間に私の元にマイクが回ってきたんです。歌は好きでしたし、仁さんは私の歌が上手だといつも褒めてくれていたので、みんなに聴かせたかったんだと思います。少し恥ずかしかったのですが、一番思い入れのある「I love you」を入れました。歌っている間、熱心に私に向く視線が気になって、つい追いかけてしまったんです。とても誠実そうな、優しい顔の人でした。

え、お付き合いですか?えぇ、私からメールしたんです。一緒にご飯でも、なんて。これじゃなんだか軽い女みたいですよね。でも、ほんとにいいなって思ってたんです。…最初は。


100と70件を越す通知の雨が、彼女の携帯に襲いかかった。愛を交わしたはずの2人の間に暗雲が立ち込め、やがて荒れ狂う雷雨となって地を叩いた。顬に、頬に、喉に、胸に伝う執拗な雨に、彼女は耐えられなかったのである。一度、会う予定を拒み、部屋に居た事があった。目が覚めると、窓にべったりと、手形が数え切れないほど張り付いていた。それは一晩降り続く雨でも拭えず、心の監獄に囚われた彼女に伸びる看守の魔の手の様相であった。

彼女は、だから、怖かったのである。彼に会うのが。生きて帰れる保証がない。心の底からそう思えた。恐怖し、脚がテーブルの下で戦慄き、せっかくのコース料理がまるで無味であった。返す言葉にも魂がなく、ずっと遼の胸に輝く古い誓いのリングをぼんやりと眺めながら、口と手だけ、ゆるゆると動かしていた。あまり表情が引き攣って彼に怪訝な顔をされないように、いつもより厚く口紅を塗った。いつもより、少し紅の濃いものを。


少し、2人の間に沈黙が流れた。コンフィから香りが昇り、かちゃりとフォークが鳴った。

「雨、ちょっと強いね。」

「え、えぇ、そうね。」

「…ほんとにお別れなの?僕ら」

「その方がお互いいいわ。きっと」

「……」

「多分あなたも気づいてる。もう離れ離れの方がいいって。」

「……」

「…?どうしたの…?」

「…何がいけなかったんだろう。僕、いっつも君のこと考えてた。今何してるんだろう、どこにいるんだろう。ずっと考えてた。いっぱいメールしたし、疲れた君を気遣った。仕事だって手伝ったし、君を誘惑する邪魔なあいつにだって…」

「…?ちょっと待って。誰、その『あいつ』って。誘惑って何よ」

「気づいてなかったのかい?ほら、いつも君のことやらしい目で見てたじゃないか。えぇと、確か仁とか言ったかな、あのクソ上司」


瞬間、身体の芯から寒気と吐き気が上がってきた。思わず純白のクロスに、激しく嘔吐した。抑えた手の、指の間から、鶏肉がぼとりと零れて落ちた。


「…ど、どうじで……?あなだ……」

「わわ、大丈夫!?すみません、店員さん!何が拭くものを!」

繋がったピースが見た記憶のないはずの、しかし鮮明な映像となって脳に掴みかかってきた。耐えられず、床に崩れ落ちた。



ちょうど1ヶ月前から、支部長へと昇進した仁の行方がわからなくなっていた。社内では誰か恨みを持つ者の犯行だろうという噂が流れ、入社前から知り合いだった彼女も色々と質問を受けていた。彼女と円満だった遼にも当然同じように質問攻めが降ったが、彼は大して動揺もせず、自分の無実を淡々と述べていた。警察と共に質問に回った重役達は、その口ぶりがどうも怪しいと遼を睨み、警察達も身辺の調査を進めていたが、結局何の証拠も手がかりも社内から見つからず、警察は仁の家族や社外へと、調査の足を伸ばしていたのだった。



目を開けると、なんだか少し埃臭い部屋に横たわっていた。飛び起きてベッド脇を見ると、男が心配そうに見つめていた。

「大丈夫?急に倒れるから心配しーー」

「どういうことよ、さっきの話」

遼を遮る彼女の声は震えている。

「…言った通りさ。僕がやったんだよ。あいつはもう君を、いや僕達を邪魔したりしない。安心してよ」

「なんで…なんでよ……邪魔なんてしてないじゃない……」

「仕方なかったんだよ。…可笑しいよね、呼び出したらホイホイ来てくれてさ。絞めてから山に運んで埋めてやった。結構大きい声出すし、力も強いから大変だったよ」

「仁さんは何もしてない!何もしてないじゃない!」

「…お前も、そうなのか。」

「え?」

突然、遼は懐から、小さな刃物を取り出した。狼狽える彼女が声を上げる前に、その震える喉にさくりと刃が沈んだ。皮膚がぱくりと口を開け、果実にも似た喉笛が蕩けて落ちた。傷口に血が纒わり付くその様はいつもより紅い彼女の口元によく似ていた。

「…綺麗だ。」

ベッドに力無く倒れた彼女を、男は何度も踏みつけた。やがて臓が潰れ、男のつま先に血が滲んだ。

「君だけはわかってくれると思ったのに。でも、君の言う通りさ。気づいてたよ。僕を避けてること。全然、メール返してくれなかったもんね。送っても、送っても、送っても、送っても、送っても、送っても、送っても、送っても、送っても。どうして君はあいつを見てたんだ?好きだったんだろ?あいつが。知ってたよ。知ってたさ。だから殺した。せっかく俺の物になってくれそうだったのに、横取りは良くないよな。」

コン、コン。

「お客様?体の具合の方は大丈夫でございますか?」

扉越しに、大人しそうな声がした。

「えぇ、大丈夫です。まだ起き上がるのが辛そうなので、私が車を呼びます。」

「かしこまりました。お大事になさって下さい。」

ヒールの音が遠ざかっていった。

「…じゃあね。」

遼はコートを羽織った。胸に飛び散った血の飛沫は、何故かコートの内に、綺麗に隠れた。


「じゃあ、お会計で」

「あの、お連れ様は」

「あぁ、まだ奥で寝てます。先に会計済ませて、代行呼んでから行こうかなって。僕も呑みましたから。」

「かしこまりました。」


ガラス扉で隔てられた外は、強く雨が降っていた。冷たい外気に晒され、男の酔いは覚めた。

「…あぁ、もっと呑めば良かった。あのツラ思い出しちまった。似合わない口紅だったなぁ」

悲鳴が聞こえた気がしたが、男は歩みを止めなかった。靴の内側が、少しだけ湿っていた。

「待って下さい!あなたですか!?今奥の救護室に、お連れ様が!!」


…あぁ、もっと呑めば良かった。

雨は強く、強く降り頻り、叫び声は途切れ途切れになってはいたが、男の耳に届いていた。


狂いきれなかった殺人鬼は、しっとりと雨を羽織った。

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