翠の傘の君

ポピヨン村田

第1話

 私の故郷では、晴れよりも雨の日の方がずっと多い。


 だからこの国の人は、みんな雨の日の暇つぶしを見つけるのがとても上手。


 苔むした岩の匂いを嗅いでみたり、丸石が敷き詰められた街道が濡れて光るのを眺めてみたり、傘に落ちる雨粒の音に耳をすませてみたり。


 私はといえば、町のみんなのように表に出て雨の世界に興じてみるのは下手なので、もっぱら古アパートの四階にある自分の部屋から道行く人々を観察することにしている。


 こうしていれば私の世界は守られつつも、町のみんなと同じようにこの雨と友達でいられるのである。孤独を愛しながら孤独とうまく付き合い切れない私の、数少ない妙案である。


         ●


 さて、私は今日も今日とて窓枠に寄せた椅子に腰かけて町を見下ろしている。


 飽きることなくさぁさぁと降る雨は、今日も私のちいさな異世界を侵食している。


 田舎なので、人通りは少ない。


 一日中眺めていても、見知った町の人たちしかそこを歩かない。


 何故それがわかるのかといえば、私は本当に出不精なので、窓の外を見下ろすという趣味に没頭している間にすっかり町の人たちの傘を覚えてしまったからなのだった。


 暇人ここに極まれり……私はそう自身を呪いながらも、落ちていく雨粒を恨みがましく見送ることしかできない。


 今日という一日も、そうやって終わっていくのだろう。私は雨粒の軌跡を目で追い――そして、ふと、呼吸が浅くなったのを感じた。


 翠の傘だ。


 私は、端的に、そう思った。


 初めて見る傘だった。真新しい、きっとおろしたての傘だ。


 傘というものは、機能美を超えた美しさをはらんでいると私は常々感じている。


 この雨の町に生を受けるということは、傘という道具と親友のように相棒のように――そして恋人のように連れ添って生きるということだ。


 私が毎日見下ろす傘は、どれもよく使い込んでいて、よく手入れされている。それだけの価値のある一品を、誰しもが持っている。


 誰もが親だったり恩師だったり恋人だったりする関係の人から、人生に価値を添えるものとして贈られる。


 だから、その翠の傘の神秘的とも言える美しさが私に一瞬息をすることを忘れさせた。


 ああ、なんて洗練されていて、なんて鮮やかな傘なのだろう!


 持ち主が一歩歩けば傘の上に溜まる雨粒が震え、弾け、光の結晶となって辺りに散って儚く消えていく。


 こんな傘は――こんなにも素敵な傘は、私の人生で初めて出会う。


 私は濡れるのも構わず窓枠から身を乗り出し、半身をひねって翠の傘をぎりぎりまで見つめた。


 なんとも口惜しいことにその翠の傘の持ち主はとても歩くのが早く、幻想の中で花開かれたかのような奇跡の傘はあっという間に私のちいさな異世界から去っていってしまった。


 私は背もたれに全身を預け、ほぅっ、と肺に溜まった熱い空気を吐き出した。

 

 目を閉じて思い出を頭の中で何度も繰り返す。


 ……ああ、この雨も悪くないと、私はついそう思ってしまった。


 風が甲高い声を上げて朽ちかけた木の窓枠をガタガタ揺らす。


 私はそれに構わず、目の奥に焼き付けた翠の傘を想う。


 最近、少しばかり風が強い日が続いているようだ。


         ●



 この日もあいさつ代わりとばかりに雨が降っている。


 この町の人たちは雨の日の暇つぶしを見つけるのがとても上手だけど、だからと言って好きこのんで雨と戯れているわけではない。私だってそう。


 私は今日も気だるく背もたれに身体を預け、窓から道行く人々を見下ろす。


 分厚い雲を突き抜けて、ようやく降りてくる僅かな太陽の光が照らす町の様子は、なかなか見られたものだ。


 それでもやっぱり、雨はうんざり。青い空の下お日様を浴びて、思う存分あたたかな光に抱かれていたい。


 と、私は右手でぎゅっと窓枠を掴み、身を乗り出した。


 『翠の傘の君』だ!


 本屋の店主夫人が差す群青に花びら模様が散った傘、ホテルのオーナーが差す年期が入っていながらよく手入れされた傘が近くを歩いていて、それらも間違いなく素敵だけど、あの翠の傘は他の傘の魅力の何歩先をも行っていた。


 私はカーテンに顔をうずめ、自分の吐息の熱さを感じた。


 ――ああ、やっぱり、とても綺麗。


 私は初めてその翠の傘を目の当たりにした日から、すっかり心奪われていた。


 歩き方でわかる。あの傘の持ち主は殿方だ。傘の位置が高いので、体躯も立派なのだろう。ぴんとまっすぐ差した傘は颯爽とした歩みの中でほぼぶれることなく、一本の直線が目に見えそうなほどだった。


 私が翠の傘の君と呼ぶようになったそのお方は、たったの数歩ですら完璧だった。


 私のちいさな異世界に翠の傘の君が現れるようになってから、灰色の雨の世界がほんのりと彩りを帯びた。


 あのお方は一体何者なのかしら。


 あのお方のお姿を、一目でいいから見てみたい。


 ああ、でも、見るのはこわい……。私のちいさな異世界が壊れてしまう。


 翠の傘の君が窓の下を通ると、私はいつも悶々と思考を繰り返してしまう。形になっていない感情が頭を駆け巡り、胸を激しく打つ。


 私に唯一わかることは――


 私が、あの翠の傘の君を――。


 そのときカーテンが激しくめくれかえり、私の身体を揺らした。


 最近、風がますます強い。不規則に飛び交う雨風がしたたかに私の顔を打ち、思わず目をつむってしまった間に、翠の傘の君は姿を消していた。


 私はがっかりして窓を閉じる。


 輝かしかった私のちいさな異世界は、本日は幕を下ろした。


 常であれば、カーテンを引くとともに、私はかびくさい部屋の中で欝々と過ごすという日々に帰っていくのだ。


 けれど今は違う。


 明日、いつもの時間に椅子を窓に寄せて、重たいカーテンと窓を開け放てば、胸の内にきらびやかな希望が宿る。


 私は椅子を部屋の中央のテーブルに返すときの、がたんごとんという鈍い音にすら頬がゆるんでしまった。


         ●



 私のちいさな異世界からは、ずいぶんと人が減った。


 しばらく前からこの町に嵐が近づいているのだと、私はつい先日知った。


 はたと気付けば雨風は本当に厳しくなっていて、今日などは獣のような声を上げている――自分のぼんやりに、私はとても恥ずかしくなった。


 全く気付いていなかったわけではない。私は、あまりにも、翠の傘の君しか見ていなかった。


 それで十二分に心が満たされていたので、今思えば『ちょっとした』異常事態などそよ風程度にしかとらえていなかったのである。


 けれども、いつものように翠の傘の君の姿を見つめる私は、過去の自分を恨むことなどしない。


 嵐が訪れようとなんだろうと、翠の傘の君は同じ時間に私のちいさな異世界に現れる。


 私は、カーテンや髪や服が風でどれだけ暴れようが、部屋の中に水がどれだけ入り込もうが気に留めず、鮮やかな翠の傘を記憶の宝物庫に収めては全身で喜びを感じる。


 こんな身に余る幸福を感じていながらその他の事柄にとらわれるなんて、過去の自分にできただろうか?


 今日の翠の傘は、少しばかり上下左右に揺れている。


 さすがに優れた体幹に恵まれた翠の傘の君も、目前まで迫った嵐に耐えかねているようだ。


 大木のように動じない翠の傘の君も素敵だが、大いなる自然の一部たる顔をのぞかせる翠の傘の君も、人間らしさが見えて愛らしく思う。


 ――しかし、と、私は袖で濡れた額をぬぐう。


 ここまでくると、さすがに心配である。


 今からでもアパートの階段を駆け下りて、あのお方に声をかけようか。


『もし、そこのお方』


『どうか私の家で休みませんか。その素敵な傘も綺麗にお拭きしますよ』


 そうやって顔もわからぬ翠の傘の君に話しかける自分を想像して、私は頬が熱くなるのを感じた。


 無理、絶対に無理! アパートの上から眺めるだけでも心臓が張り裂けてしまいそうなほど胸が高鳴るのに、直接交流を持つなどとてもとても考えられない!


 私が下唇を噛みしめている間にも、翠の傘の君は辛そうに身体をゆがめて前進していた。


 少しだけ、少しだけ、それまで傘に隠れていた身体がのぞく。


 黒いコートを着ていた。


 私の視線は、思わず濡れ羽色のコートに惹きつけられていた。


 乱暴な風は緑の傘の君の進行方向に吹き付け、持ち主は徐々に徐々に傘を前に傾けた。


 次第に露わになっていく、その全容。


 私はだめだった。逆らえなかった。


 眼下で、私の世界のすべてに匹敵する殿方が困り果てているというのに、それ以上に閉ざされた御簾の奥を覗きたい欲求に勝てなかった。


 私はごくりと喉を鳴らす。


 クロヒョウのように美しく、ぴたりと体躯に沿う衣服に身を包んだ姿がゆっくりと私のちいさな異世界に現れる。


 私の瞳はその光景のすべてを焼き付けようとして――。


 そしてその罰が当たった。


 突如として局所的な風が地面から舞い上がり、翠の傘の君の下から現れ出でた。


 エメラルドを張り付けたかのような傘はふわりと浮き上がり、私の視線の高さまで昇ってくる。


 そして意思を持ったかのように、私の部屋めがけて突っ込んできた。


 私は思わずのけぞり、床にしりもちをつく。背後で轟音が響いた。


 振り向けば、完璧なフォルムを誇っていた翠の傘の骨が痛々しく折れ、私は小さく悲鳴をあげた。


 これならば避けずに私の身体で受け止めていればよかったと悔やむくらいに、あまりに残酷な光景だった。


 しかし、もっと大事なものがある。私は弾かれたように窓枠にしがみつき――。


 そして、窓の下で茫然と自分を見上げる殿方と目が合った時、ほとんど反射で行っていた自分の行動をようやく振り返ったのだった。


 私は、あ、と声を漏らしていた。


 その声は、その殿方に聞こえてしまっただろうか。


 思えば翠の傘の君の容姿を、私は一度も想像したことがなかった。


 全身を雨で濡らしたその青年は、しっとりとした前髪を右手で掻きあげ、じっと私のことを見つめていた。


 きっと、とても長い時間、私たちは互いのみを見ていた。


 雨が段々と弱くなり、雲の間の切れ目から光が差す。


 それまでの嵐が嘘のように、空にはあたたかい太陽が顔をのぞかせていた。


 辺りは静寂に包まれた。


 すると青年は我に返り、顔を真っ赤にして脱兎のごとくその場から逃げ出した。


 私は今度こそ、彼に聞こえるに違ない声で。あ! と叫んだ。


 言いたいことがたくさんあった。でも、言わねばいけないことを絞らなければいけなかった。


 僅かな逡巡の間に、彼の姿は私のちいさな異世界からいなくなってしまった。


 足元から震えが昇る。


 震えはやがて全身に行き渡り、私は耐えられずにその場に膝をついた。


 本当に久しぶりの晴天に、小鳥たちが嬉しそうに歌っているのが聴こえた。


 私は震える身体を抱きながらその歌を聴く。


 私のちいさな異世界が、カーテンを閉じずに終幕した。


 残されたのは、折れた一本の傘だけだった。


         ●



 私の頬を、よく乾いた爽やかな風が撫でる。


 優しい太陽の光が降りそそぐ道を、傘を差さない人々が笑顔で闊歩する。


 私は窓枠に頬杖をついて、過ぎ去っていく人の頭を見送っては小さくため息をつく。


 私のちいさな異世界は、町をもてあそんだ嵐に連れ去られてしまった。


 あれから長い年月が経ち、この町の人々は雨の日の楽しみをすっかり忘れてしまったようだった。


 もう誰も傘を差さないし、愛おしまない。今この町で傘の手入れをする『変わり者』は私くらいのものだ。


 私は、翠の傘の君が残していった『相棒』の柄を人差し指でなぞった。


 それでも、だ。


 それでも、この美しい翠の傘の存在が、あの心踊らされた日々が夢ではないことを教えてくれる――。


 私は再びため息をついた。そして重たい腰を上げる。


 のろのろと部屋の出入口に向かうと、中身をぱんぱんにした旅行鞄を持ち上げた。


 私は今日この町を去る。


 あの日から、この町には雨が降らなくなった。


         ●



 まっすぐに差し込む光が、長くじめじめとした場所で生き続けてきた私の身体を容赦なく貫き、私はうっ、とくぐもった声を上げる。


 まぶしさに心身をやられながら、なんとか私は傘を開いた。


 殿方が使う大きな傘が、カンカン照りの下で開かれたので、私を見た人々は目を丸くしていた。


 おまけにその傘は、元はこの世のすべての傘を並べても一等に輝いたに違いなかったはずのその傘は、素人の修理の跡が残りみすぼらしく、失笑すら聞こえた。


 それでも、私はこの町の出口をめがけて、精いっぱい背筋をしゃんと伸ばして翠の傘を差して歩いた。


 これが、最後だから。


 私がこの傘をたたんだ時が、本当の意味で、ちいさな異世界を閉じるときだ。


 生まれ育った町が、晴れの日の下にあるとまるで全く異なる場所のように見えた。だから、かつてあんなにうんざりとしていた雨の日々ほどに懐かしさを感じることができない。


 町の出口はあっけなく目前に現れ、私は胸に溜まった寂しさを息とともに吐きだす。


 ここまで僅かな相棒であった傘を下ろす。


 私は、長い柄に向かって手を伸ばした。


 そのとき、少し水気を含んだ風が吹き――。


 風とともに、いずこからか人の気配が背後に現れた。


「お待ちください、そこの――」


 私の耳に、初めて揶揄でも皮肉でもない、真っ直ぐな声が届いた。


「ええと……『翠の傘の君』!」


 雨が湖面に落ちて跳ね返る音のように、静かで、透き通った声だった。


 私はぴたりと動きを止め、全身全霊でその声に耳を澄ませる。


「その傘――大事に持っていてくれたのですね」


 振り向くことができなかった。久しく感じることのなかった熱が、胸の奥からこみあげてきた。


 何もかも諦めて乾ききっていた身体を駆け巡る熱が、呼吸を荒くさせた。


「僕の楽しみは、お気に入りの傘をさして、お気に入りの道を歩くことでした」


 太陽が隠れて、辺りに暗い影が落ちた。


 ひどく懐かしい、湿気った香りが地面から漂ってくる。


 急激に冷たくなっていく風が、火照った肌に心地よかった。


「その道には、僕のことを熱心に見つめてくれた女の子がいたから」


 どきりと心臓が跳ね、思わずすがるようにして傘の柄に抱き付いてしまった。


「勇気を出せないうちに、この町が雨を忘れてしまって――。僕は、本当はずっとその女の子に言いたかったことがあったのです」


 頬に水滴があたる。


 間もなく、この町に数年ぶりの雨が降った。


「『翠の傘の君』」


 その青年が、私を呼んだ。


 私は、よく馴染んだ雨粒を全身で受け止めて、ようやく呼びかけに対して振り返れた。


 あの日と同じ、濡れ羽色の青年が、じっと私を見つめている。


「あなたの雨の日の楽しみを教えてくださいますか?」



         ●


 私の故郷では、晴れよりも雨の日の方がずっと多い。


 私が毎日見下ろす傘は、どれもよく使い込んでいて、よく手入れされている。それだけの価値のある一品を、誰しもが持っている。


 誰もが親だったり恩師だったり恋人だったりする関係の人から、人生に価値を添えるものとして贈られる。


         ●


 私は傘を閉じるのをやめた。


 ぐっと背伸びしてその青年の頭上に翠の傘を差す。


 私は、翠の傘を、ようやく返すことができた。

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翠の傘の君 ポピヨン村田 @popiyon_murata

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