綻ぶよりも前に
美しい鈍色の髪が風に靡く。見下ろすのは琥珀色の瞳だ。ポタリ、ポタリと落ちる赤い血液が地面に何かの絵を描いていた。いや、なんの絵かは知らないが。
影から伸びる漆黒の、光を通さない鎌が首をつり上げている。彼女の、琥珀の瞳が猫のように細くなった。
「『お前も敵か?』」
伸ばされた黒の鎌に、鶴野 松仙は苦笑いを浮かべた。
***
二〇二〇年。
世界は、ある日滅んだ。すぐにこの国では軍が政権を掌握し、つまりクーデターが起こり、鶴野 松仙は鶴野家の代表として無理矢理徴兵された。
ところで、松仙は賢い男だった。
彼は軍が腐ってることが分かっていた。だからこそ、(意気揚々と)暗殺を決行しようと決意した。
そう、決行、しようと決意したのだ。
拳銃片手に上官の部屋に潜り込んだ瞬間、目の前に広がったのは既に死に絶えた上官と、件の乙女だった。
「『おい、答えろ。テメエ、敵か? いや、こいつに似た服着てるけど……』」
「あ、あの、え、あーー『失礼しますです』!」
「…………あ?」
彼女が首をかしげる。
「『私、自分』あの、『日本語、話すことない、できないです』」
そうだ。彼女が話しているのは日本語だ。
今、この国では共通語の普及が推奨されている。一般での普及率は、松仙が大学に在学時でおおよそ八割だ。では、残り二割はどう言うことか。
一般での、という接頭語で分かるだろう。
突然の政権交代で起こった社会変化についていけなかった多くの人々が、下級層や廃棄区画、つまり貧民街へ身を落としたのだ。
そう言った一般でない人々や、辛うじて一般に残った人々にまで普及はしていないのだ。
つまり彼女は、その古着のような白いシャツからも分かるとおり、恐らくは貧民街の住人だろう。最も、貧民街の住人がそんなに流暢に日本語も話せるかはかなりなぞだが――。
「……あー、んで、お前、疑問、話せない?」
「!」
共通語だ。
松仙の日本語よりずっと流暢な共通語だ。貧民街落ちした一般人か、と当たりをつける。
「あ、えっとぅ……『学舎』……『苦手、言語学』……専攻、してたんだけど『上手くできなかったから』……『分かる』ことができる……『可能だと、考える、ます』けど『リスニング』問題はないから」
「『ああ、じゃあこのまま話していいか? とてもじゃねえがボンボンに聞かせられるほどの会話術は持ってねェ』」
「あ、ぅ、『大丈夫』ます」
「『こっちもリスニングに問題はねェよ。会話は覚束ないだけだ』……できれば、ゆっくり話してくれ」
覚束ないというが流暢で美しい発音だ。
「えっと、言語学を大学で専攻してたけど、成績がよくなくて」
「『それはさっき聞いて』……分かった」
言い直してくれる。暗殺者はトン、と軽やかに降り立った。生首にはどうやらもう関心はないらしい。
琥珀の瞳がじいっと自分を見る。
「んで、なにしに来たんだよ」
「……あの人が、あまりに横暴だから。例えどんな手を使っても降りてもらおうと思った」
「へ……『なかなか面白い野郎じゃねェか。芯があるやつは好きだ』」
誉められた。彼女は唇をめくるように持ち上げて笑った。夜の闇のなか、深く沈む水銀のような鈍色の髪がさらりさらりと揺れる。
「オレはこいつを殺した。テメエは、自分が殺されるとは思わねェのか?」
「…………それも、仕方ないと思う」
「はっ『坊っちゃんの癖に肝っ玉が座ってて結構なことだぜ。全く』……名前は?」
「鶴野、松仙だ。貴女は?」
「……………………名前は“無し”だ」
「……ナ、ナシ」
ナナシと名乗った彼女は悪辣に笑った。
暗殺の決行を決意したときが、遥か前のように感じる。彼女はただ、悪辣に偽善的に、言葉を紡ぐ。
「運のいいガキだな、ショーセン。オレはこの近くの廃棄区画の女神様だ。聞いたことはあるか?」
頷く。確かに聞いたことがある。
近くの廃棄区画で人生を癒す小さな女神がいると。それが、彼女だとは思わなかった。だってあまりにも悪辣な態度ばかりを取るから。
「オレは別に大きな女神になんざなるたくはねェ。オレは小さな女神のままでいい。『廃棄区画の人間は、ほんの少し心を癒してやれば誰だって救われる』……それができるなら、その程度の力は誰だって貸す、層だよな?」
歌うように語る声はこうこうと輝いているようだ。
「酒に溺れた親父には、酒より優しい夢を見せた。金に執着して家族を失った男には、僅かな達成感を思い出させた。色に狂った女には、もっと穏やかな愛の形を見せた。薬から離れられなくなった女には、薬の外にある幸福の形を思い出した。ほんの少しだ。ほんの少し、心の後押しをした。それだけで、救われたいと願う人間は誰だって救ってきた」
願わない人間のことは知ったことではない。
願い、望み、すがり、祈ったものだけが女神の加護を得られる。
それは優しさではない。その先にあるのは苦難と苦節の道だ。失ったものを取り戻すのは、言葉にするより難しい。
でも、それでも構わないと彼らは足掻く。
「なあ、松仙。テメエは何を願い、何を祈る? お前の目の前にいるのは女神だ。オレは小さな女神のままでいい。でも――テメエはオレにそれを望んじゃいねえだろ」
差し出されたのは小さな手だ。
望むものだけが変わる資格がある。
願うものだけが変える資格がある。
今目の前に出された手こそが、変革のチャンスだ。
「今日は気分がいい。だから、お前のその願いを、聞いてやるよ」
願い、呪い、祈り、憎み、望み、縋り。
渇望こそが、切望こそが、世界を変える。
だから望め。だから祈れ。
そう乱暴に突きつけられた真実からは目をそらせない。握った手はすがるにはあまりにも小さく、幼い。
「貴女の全てをください」
知恵も、力も、奇跡も。
「僕はこの国を良くしたい。その為ならどんな手だって使う。例え明日、仲間を手にかけることも厭わない。だけど、そのためには弾丸が……僕の、祈りの銀の弾丸が必要だ」
「なるほど。テメエにとってオレは銀の弾丸か」
「ああ。願い、祈り、望むのだから」
獄幻、という血濡れた姓を知るのはまた後だ。
ましてや名前がナナシでないと知るのもまた別の話だ。
「いいぜ。なら、オレは高潔なる銀の弾丸だ。テメエが誤った時は、必ずオレが正してやる。テメエが祈ったときにはオレが必ず撃ってやる。切り開いてやる」
今はただ、この地獄の中で手にいれた弾丸を愛そう。まだ絆が綻ぶよりも前。祈りを込めた弾丸は求めたどこかに向けて走り出す。
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