第31話 大恩人、敵に回すと怖い人

 ここまで話すと、さすがに疲れてきた。

 西沢さんとおやっさん、それに滝沢さんも、昔から永野さんをご存知の方々は、何とも言えない表情で私の話を聞いてくださる。太郎さんとたまきさんはというと、特に永野さんから迷惑を被ったわけでもないから、淡々と、私の話をじっくり受入れて咀嚼するかのように、黙って聞いてくださっている。


「谷橋さんという方かな、その女性からしてみれば、確かに一時期は恩人と言ってもいいほどの人だった永野さんが、晩年になって、とんでもなく足を引っ張る老人に成り下がってしまったわけだね。今のところは米河君のお話だけだから、何とも言えないが、それにしても、その老人というのが私の知人というのも、辛いものがあるね。永野さんほどの人なら、まだ何か仕事をしようと思えばできただろうし、神戸の私のところにでも言ってきてくれたら、なにがしかの仕事してもらえたのにねぇ。もったいない気もするが、そんなにあちこちに迷惑をかけていたというのは、修身の子どもの頃を知っている私としては、確かに、辛いものがある。まあ、あの子のことだ。私に迷惑をかけたくないという思いが強かったのかもしれない。そう思いたい。哲郎は、どうだ?」


 わしのところには、晩年はたびたび来て、いくらか借りたり返したりもしていた。前々回の県知事選と県議補選のあった頃かな、米河君に出会って間もないころ、よつ葉園やユニオンズの話になって、わしが赴任していた函館を引払って岡山に戻ってきたことを知って、昔から知っている私のところに、突如電話をかけてきたわけだ。そのとき始めて、岡山市議の常木さんも紹介された。最初は、大学の先輩のところに来て頑張っているのかと思っていたが、そうとばかりも言えなかったようで、常木さんに多大なご迷惑をかけていたこと、金銭だけじゃないけど、本当に申し訳ないと思っている。

 確か一度、100万円ほど貸してくれというので貸してやったが、そのときは、それをせめて半分でも常木さんに返せと申し含めておいて、実際50万を常木さんに返していたようだが、その後さらに少しでも返せたのかは、わからない。常木さんは結果的に60万ほどの「焦げ付き」が発生した形になったそうだから、私が口添えして後は、恐らく殆ど返せていないかもしれん。それまであったとかいう、選挙がらみの仕事もなくなってきたようだしね。まとまった金が入る機会がなくなれば、それだけで返済どころじゃなくなるだろう。その後も私の方で、いくらかは貸してやって、その分、年金の入った日には2万円とか、3万円とか、もし厳しければただの1000円でもいいから返せと言っていたから、たびたび振込んでくれていたけれど、結果的には、何だかんだで、300万円ほど返してもらえないままになってしまった。まあでも、その金で、彼なりに生きることをサポートできていたとするなら、わしは、それでもいいと、思っている。

 ただ、常木さんとか、その関係者とか、そういった筋に迷惑はかけるなと再三言ってはいたが、結局、かなりの迷惑をかけたようだな。しまいには米河君にまで電話をかけて、いくばくかの金を借りては返すことを繰返していたようだな。

 それはともかくとして、何より、忘れもしないが、昭和52年、太郎が命に係わる重病にかかっていたとき、新薬を投入するうえでコネを使って助けてくれたという点では、命の恩人のような人物でもあるから、300万ぐらい、構わんのだけどな、正直。あの時彼はまだ、東京で週刊誌の記者をやっていたが、医療関係の記事を書いていた時期もあって、病院のコネや伝手もあったから、それを使って、わざわざ太郎のために動いてくれているからね。あの新薬で太郎が死んでしまっていたらまだしも、それで回復して、この年まで生かしてもらっているのは、確かに、永野修身君のおかげだ。まあ、あの頃からすでに、米河君が言うような、酒は飲む、煙草は吸う、加えて賭けマージャンはしまくる、といった、インテリヤクザの典型のような雰囲気だったし、若かったから、もっと飲んでいて、晩年とそれほど変わらない行動形態だったけれど、当時は彼も東京に住んでいて金もあったようだからねぇ・・・。随分、危ない橋も渡ったようだが。だけど、あの子がどんなにインテリヤクザよろしき格好をして、酒を飲んで煙草を吸っていても、わしの中では、県営球場で会った幼いころの面影が、消え失せることはなかったな・・・。


 ここで太郎さんが、一言。

「永野修身さんが私の命の恩人であるということは、父から何度か聞かされていましたが、本当にそのことを聞いたのは、つい数年前ですね。マニア氏こと、この米河君が、選挙で永野さんという人に会ったと、ある時うちに遊びに来ていて、そのとき、父がそのことを聞いて、それで初めて知ったぐらいです。ぼくは、永野さんという方とはそれほどお会いしたことはありません。晩年出入していた北林さんという方の件で何度か電話で話したのと、あとは米河君と何かの件で一緒にお会いしたことがあるぐらいです。そうそう、選挙がらみの番組でどなたかの陣営を取材したとき、お会いしたことがあったと思いますけど、特にインタビューをしたこともないです。まあ、選挙参謀というお仕事ですから、裏方というか、黒子のような仕事だからということもありますからね・・・。ぼくにとっての命の恩人というのは、父の幼馴染だったということも含めて、最近になってようやく知ったほどですけれど、あの方と何度かお会いしたりお話ししたり、あるいは米河君から改めてこういうお話をお聞きしたり、その中で、ぼくなりに、思うところは多々ありますが、まとまりがないので、今は、これ以上のことは言えません」

「永野さんがいなかったら、私は、太郎君と今も一緒にいることはできなかったわけですよね・・・。そう思うと、私にとっても、永野修身さんという人は、命というか、人生の恩人です。永野さんの存在をはっきりと知ったのは、太郎君を通して義父から聞いたのですけど、つい数年前でした。もっと早く知り合っていれば、例えば、せいちゃんと瀬野君の論争の時なんか、いいアドバイスをいただけていたのにと思うと、残念です」


 たまきさんの言うとおりになっていたら、あの対談、良くも悪くも変わっただろう。あの人のことだから、私や瀬野氏に肩入れなどするまい。間違いなく、夫である太郎さんを通して、太郎さんだけでなく、たまきさんにも肩入れをしてきた筈だ。もしあの人が「敵側」についていたらと思うと、私としては、いささか、ゾッとする。永野さんは謀略的な手法が得意だとおっしゃっていたが、そこまで至らないところであっても、敵に回れば鋭い切り口で迫ってくるところがあることは、十分予測できたからね。

 最晩年、正確には2015年の一斉地方選挙の頃以降の酒浸り状況でならいざ知らず、知り合った頃や、ましてそれより10年以上前だったらと思うと・・・。


 ここで大宮の親父さんが、ひとつ、提案された。

「今日この後、飲みに行って、その話の続きをしたいのだが、どうかな?」

「そうですね。それなら、私も同席させてくださいよ。金は、出します」

と、マスターの滝沢さん。

「哲郎のおごりなら、行ってもええで。新幹線代、モト、とらせてくれよ」

と、西沢さん。

 大宮のおやっさん、もちろんそのつもりだし、何ならうちに泊まって帰ってくれてもいいから、ぜひ来てくれ、とのこと。太郎さんとたまきさん、それに私も、別に異論はない。そういうことで、早速、時間と場所を決めて、街中の居酒屋で飲むことになった。日曜日なので「くしやわ」は空いていないが、結局、街中のとある寿司屋に行くことになった。ちょうど雨も降っていないし、歩いても知れている距離にあるからというので、揃って徒歩移動することと相成った。

 携帯電話の時計を見ると、17時過ぎ。まだ外は明るい。

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