八雲立つ

.....68.シュロウ喰む月

 籠もっている酒の匂いを抜くようにベランダの窓を開ける。床で死んだように眠る二人を横目にクロックスを履いて出れば、冴えた空気が体中を刺した。

 網戸だけを閉めてセブンスターの箱を開くとカシャリと銀紙の擦れる音が鳴る。

 未成年だった頃に憧れていた、タバコというものはそれほどいいものでもなく、内臓が蝕まれているようななんとも言えない感覚は、吸い始めて一年経った今もある。パッケージに書かれた注意書きを流し見て、ライターの火を移した。

 ぞわりと喉奥に手を伸ばす違和感、吐き戻すときの感覚、そんなものの全てにひとり悦のようなものを感じているのかもしれない。

 寿命が縮む、ガンになる。正直なところそんなものはもうどうでも良かった。就職活動のために染めた黒色の、切りそろえられた髪。

 卒業して、就職して、働いて、結婚して、そうやって生きていくのも、別に楽しくないわけでもないのだろう。でもきっと、本当に生きていきたいのはそんな日常や生活ではない。

 これから先の人生に興味なんてこれっぽっちしかなかった。見通せるわけでもない、平均寿命まで生きたいかと言われればそうでもない。だからもういいやと、諦めと嘲笑を煙に巻きつけて吐露している。

 網戸の開く音が後ろから聞こえた。振り向けばさっきまで寝ていた先輩がいた。

「俺も吸わせて」

 そう言ってアメスピを咥えた先輩は二、三回ライターのレバーを打って火をつけた。軽く吸って吐き出す。それから、ふらりと笑う。

「寒くて目、覚めた」

「網戸しか閉めてませんでしたしね」

 酒の匂いもまぁまぁ消えてたわ、ありがとう。そう言った先輩は煙をきれいに吐いた。煙の向こうに丸い月が見える。丸くぼやけて光る衛星が煙に惑わされる。

「先輩、月が綺麗ですよ」

「は、」

「あ、いや、夏目漱石ではないですから」

 驚いて咳き込む先輩に咄嗟にそう答えれば、先輩は気まずそうにタバコをまた咥えた。ほんの少しの沈黙のあと、ふたりしてたまらなくて笑ってしまう。なんなんだよと揺れる先輩のタバコの燃えカスがゆらゆらと風に流れていった。先が赤く灯っては消える。

「でも確かに綺麗だわ」


 月冴ゆ、という言葉をふと思い出した。

 ああそうだ、忘れていた、好きだったひとが言っていたんだ。


 まだタバコを吸う前の話。誰に対しても敬語で話す、本が好きなひと。ちょうど、一年前くらいの話。そのひとはタバコも吸わなかった。酒も飲まなかった。ただ、煙草の匂いが染み付いた古本が好きだった。

 ふとバイト帰りに鉢合わせて、同じ方面だからと一緒に帰っていた。「月冴ゆ、って知ってますか?あの月みたいなことを言うんです」突然立ち止まって指差された先、灯の消えていくマンションの奥にあった月を、目に入れた瞬間に全身が粟立ったのを覚えている。

 言葉の意味なんてどうでもよかった。教えてもらった言葉が間違っていてもいい。ただあの瞬間、あのひとと並んで月を見たのだと、これを忘れたくないと思った。それを今ようやく、思い出した。


「先輩、月冴ゆ、って知ってますか」

「いや、知らん」

 不思議そうに見てくる先輩に、なんでもないですよと笑ってみせれば、なんだよ、と訝しげな顔を浮かべて部屋へと戻っていった。いつもなら続いていけるのに、どうしてか足は動かなかった。二本目を口に咥える。

 あの月も、この月も、いつかこれからも、諦めと共に生き長らえてしまったそのとき、ふと鮮烈に思い出すのだろうか。あのひとを最後に抱きしめたときの白檀の香りや、アメスピと混じり合ったセッターのどこか酷く感じる人間臭ささえも一緒に。恋しくなるのだろうか。あのときのことを今思い出したように。

 ビール二缶を片手にまたやってきた先輩は一本をこちらに差し出してまたタバコを吸い出す。

 視界の端が少しずつ白く光っていくのがわかった。2本目のタバコ、酒臭い服と缶ビール。生きていくこの時間を、今の時間を否定したくなかった。

 漏れ出していく光を背に、ビールを胃に流し切って、室外機の上に置く。

「朝だな」

「早いですね」

 先輩も吸い終わったタバコを携帯灰皿に押し込んで、背伸びをする。はぁあと大きな息を吐いたあとに、頑張らないとな、と呟いた。

「俺ら、生きてんだな。」

 当たり前のことを今知ったかのように言った先輩を馬鹿にしようとは思わなかった。キラキラと光るマンションやアパートが、冴え渡る朝の世界が、滲むような陽の光が、呼吸をするたびに身体中を柔らかく侵食していく。

「今のうちにやりたいことは、ちゃんとやったほうがいい。中途半端は最後に自分を苦しめるからな」

 うわ、今のなんか寒いな。戻ろ戻ろ。

 そう言ってそそくさと部屋に帰っていく先輩の背中は、どこか寂しそうに見えた。

 一度、先輩のように背伸びをした。大きく息を吸い込む。ピリピリと身体が空気に刺激される。吐き出した息はほんの少し、白い。

 月は見えなくなっていた。室外機の上のビールとタバコの箱を持って窓を開ける。夢をもう一度だけ、追いかけてみようかな、なんてあのひとから譲ってもらった煙草の匂いのする本を本棚から抜き取った。

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