第五話 秘能特訓
空は相変わらず機嫌が悪く、六月も半ばを過ぎたのに少し肌寒い。先日の飲み会と称したドタバタ騒ぎを機に、良く使っている近所のコンビニ店員が仕事上がりの時や暇な時に遊びにきては勝手に冷蔵庫の中をさらって飲み食いするようになった以外、特に変わった事はなかった。
そんなある日の事。俺は涼香さんに改まって話があると告げられ、コーヒー片手に彼女の話を聞く事となった。ディアは涼香さんの膝の上で香箱を作って寛いでおり、茨木さんは人のベッドの上に寝転がって人の漫画を読み漁っている。
「黒埜さんは、私が伊吹山で護っていた【
「覚えているかいないかで言えば覚えていないんですけどね……ディアも涼香さんもそう仰っている以上、そうなんだと思います」
「そういやウチも不思議に思っとったんや。伊吹山の中に引きこもっとったお前が、何でこない狭苦しい所におんのかってな。自分、
茨木さんはいちいち余計な事を言う人だな。狭苦しい部屋で悪うございましたね。何で君も普通にここで寛いで人のものを勝手に飲み食いしているんでしょうか。
「今も言った通り、
「なるほど、つまりアレやな、今後伊吹が目論んどるのは、黒埜に
「けったいな事って失礼じゃないですかね? それに好きでこんな事になった訳じゃないんですけどね、本当に……」
「そのとおり、ケンにしつれい。ハルカ、ことばわるすぎる」
ディアの冷静なツッコミがありがたい。ちなみに茨木さんは春華と書いてハルカと読むらしい。というか、住民票とか色々どうしているんだろうか。異世界から来た、千年以上も生きている人外の存在はどうやって現代日本に溶け込んでいるのか……
それを考えると、そっちの方が俺なんかよりもよっぽどけったいな事じゃないか。自分の事を棚に上げて、本当に失敬な。
「ですが、茨木の言う通りでもあります。黒埜さんは
膝の上のディアを優しく撫でながら、涼香さんは一旦そこで言葉を切る。別に何か効果を狙った訳でもないと思うのだけど、俺は固唾を呑んで続きを待った。
「――黒埜さんにはこれから、
今俺は、世にも不思議な就活に取り組まされようとしている。しかも、これまでの常識では考えられないような職業、〝魔法使い〟へ。
そろそろ今後の事も考えないといけないなと思ってはいたのだが、どうやらそんな悩みは当分持たなくても良い……のかもしれない。
□■□■□■□■□■□■□■□■
涼香さんが早速部屋全体の結界を操作すると、場が〝裏返った〟感覚が体を包む。その瞬間全ての色相が反転し、赤かったものは青へ、緑だったものは紫に変わった。
「さて、それでは始めましょう」
「え、今からやるんです? 何かこう、心の準備と言うか……」
「そんなものはやっている内に身についてきます。先ずは体で覚えてください」
駄目だ、けんもほろろとはこの事だろう。取り付く島もないとも言う。
そりゃあ、今の俺は二十四時間だらけている元商社マンではありますけども……
「黒埜、精々頑張りや~。ウチらが向こうに戻れるかどうかはお前にかかっとるからウチも応援だけはしたるわ~」
漫画から目を離すでもなく手をヒラヒラと振って心にもない言葉で応援されても、ちっとも嬉しくない。もうこの人、さん付けで呼ばなくてもいい気がしてきた。
もっとも、俺はそんな彼女を気にかける余裕などすぐになくなってしまった。
「先ずは
そして俺は涼香さんから簡単なレクチャーを受ける。
先ずは自分の内に意識を集中させ、体の中を巡る光の粒を認識する所から始まる。その光の粒を知覚できたら、今度は腹部――つまり丹田にそれを集めるイメージで、光の玉を作ってゆくのが第一段階。
その話を聞いて、俺は大学時代に〝自分探し〟と称し、ある密教の総本山で宿坊に泊まった際に体験した瞑想の時、自分の中にふわふわと浮かぶ何かを感じていた事を思い出していた。線香一本分の時間をひたすら瞑想するその体験で、俺はその何かと意思の疎通を行い、何事かを話していたような記憶があるが、どんな話をしたのかはもう覚えていない。取り留めもない哲学的な話であったのは間違いないだろう。
「――はい、黒埜さん、お腹に力が入っていません」
「ちから、ぬいて。きらくに、ニャにもかんがえニャい。もっとらくに」
「力を入れるのか抜くのか、一体どっちなんです!?」
「はい、減点です」
その瞬間、何故か肩のあたりに衝撃が走る。座禅で警策を頂く感覚に似ているが、衝撃が段違いだというか手加減なしですかそうですか。私語は厳禁という事だろう。
理知的で澄んだ見た目に騙された――彼女は……
「引き続き集中して下さい、黒埜さん。余計な力を使わず、お腹に力を入れて」
「ぜんしん、らくにして、おニャかに、しゅうちゅうして」
話を聞けば聞くほど、やっぱり座禅か瞑想だな、これは……!
「りょ、涼香さん、せめて足を崩させて――」
「駄目です。そして、減点です」
冷静で冷酷な彼女の一言の後に、再び肩に強い衝撃が与えられ。火花が飛び出る。こんなのを何度も喰らったら肩が潰れてしまう――もう、言うことを聞くしか……!
俺は必死に教えられた通り、自分の体の中に意識を向け、体内を駆け巡る光の粒を認識する事に集中した――これ自体は比較的簡単だった。
問題は、これを少しずつ大きく育てて――あれ、育っている?
下腹部で組んだ手を器にするようにして、光の玉が大きさと輝きを増してゆくのが俺にも分かる。
「――黒埜さん、筋がいいなんて生易しい話ではございませんわね」
「…………」
うっすらと額に汗がにじむ。足の感覚はもうあまりない。
そんな事を考えている間にも俺の手の中にある〝光の玉〟はさらに大きさと輝きを増し、今はバレーボール程度まで育った。明るさは四〇ワット電球ぐらいだろうか。
「――はい、それではその光の玉を持ち上げて頭上に掲げるイメージで、上にあげてみましょう。ただし、実際にはその姿勢から動かないで下さい。あくまで持ち上げるイメージだけです」
「ケン。ゆっくり、ゆっくり。あわてると、はじける。きをつけて」
――彼女達のアドバイスを得て、俺はどうにか第一段階をクリアする事ができた。
「黒埜さん、本当に筋がいいです。私も鍛え甲斐があるというものです」
ふくらはぎを擦る俺の横で、手を腰にあてた涼香さんがニッコリと微笑む。だが、その鍛え甲斐という物言いが本当に不穏なんですがそれは。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
次の日の事。
俺は涼香さんの結界の効果によって『異様に広くなった自分の部屋』の中を黙々と走らされていた。いつぞやの飲み会で空間と次元を切り離した結界を展開した様子を見たけど、まさか広くなった部屋の中をランニングさせられる事になろうとは。
分かりやすいというか、単純というか。つまり俺にも理解できるように考えれば、
まあ、つまり――
「はい、黒埜さん。後二十周! 走る速度はそのままを維持するように!」
――いつの時代も、特訓にはスポ根的な
頭を空っぽにして広々とした部屋の中を走りながら、俺は一体何をさせられているのかと、自問する暇すら与えられていない。
――しかし、それもきっと、彼女達の狙いなのかもしれない。
こうして体をいじめ抜いている間、俺は余計な事を考えずに済んでいるのだから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
また日が変わり、今日は
基本的な概念を知っておかなければ、使いこなすのはおろか習得も難しいだろうと涼香さんとディアが教鞭を振るってくれる事になった。
……茨木? 仕事で忙しいんじゃないですかね、きっと。
簡単に言えば、
生物の体内に存在する
現在まで伝わる
「――一番簡単なものは【一人術】で、これは
効果や触媒、術式の際の手順が危険であるとして封印指定されている【大禁術】、詠唱術式が失伝したか、習得者が存在しない【大忘術】、特定の種族にしか使えない【無二術】など、特殊なカテゴリーに分類されるものも存在する、という事だ。
「さて、これを踏まえて、今日は黒埜さんに一つ、術式を覚えて頂きます。今話した一人術をお教え致しますので、私が教える通りに詠唱してみてくださいな」
これから教わるのは【
効果はあらゆる言語を使用者の母語に脳内変換する、簡単に言えば翻訳機。
そしてこの
「ケン・エーム・ラーエー・ウオイ・ニャック?」
これがディアや涼香さんの世界の言葉、という訳だ。聞けばこれは世界共通語で、【
「――では、始めます。
その瞬間、涼香さんの足元に小さい、鮮やかな青色の魔法陣が浮かび上がる。
「
最後の言葉を唱えると、足元に展開されていた魔法陣が涼香さんの体を下から上へスキャンするように通り抜け、彼女の頭まで浮かび上がってそのまま縮むようにして彼女の体内へと消えていった。
「……これが一連の流れになります。おさらいを致しますと、
一つ、体内を巡る
二つ、
三つ、集めた
四つ、所定の術式詠唱を行い、
五つ、最後の
後、いわゆる『初回詠唱』時には、以下の反応が発生するそうだ。
詠唱者の魂に当該の
「……ですから、術式を〝知っている〟事と〝使える事〟は別問題なのです」
「あと、今回はまだそこまでお教えしませんけれど、
涼香さんの説明を要約すると、術式構文を省略して最後の名称のみ解放するだけで
「その辺りは黒埜さんがもう少し
「――なるほど。一連の流れは分かりました。やはり詠唱は必要だという事ですね。それで、これから俺はどうすれば?」
「先ずは自分の体内に小さい光の玉を作って下さい。先日の練習のように。それから詠唱を行います。言葉をお教えしますからその通りに言ってみましょう」
涼香さんの指示を受けて、自分の体内に光の玉を作るイメージで意識を集中する。十数秒で両手に光の玉を集める所までは進められるようになった。
「――オクーロィ・オレーロィ・ヴォーチョイ・コレクタス……」
「はい、黒埜さん。間違っています。コ
「ケン・プゥ・ティ・ピーク」
相変わらず内容はさっぱりだが、雰囲気的に励ましてくれている感じがする。
「――オクーロィ……」
「黒埜さん、そのままでは駄目です。光の玉を練る所からやり直して下さいな」
「えぇ……結構しんどいんですね……!」
「これも練習です。光の玉を素早く作れるようになって下さい」
な、なるほど。そっちの練習も込みですか。こりゃマジでしんどい。
そして再び光の玉を作る所からやり直した俺は、数回のやり直しを経た所で術式を完成させる事に成功した。
「――
その瞬間、俺の足元に展開されていた白い魔法陣が、俺の体をスキャンするように上へ動き出し、丁度こめかみの辺りで停止したかと思うと、縮むようにしてすぅっと頭の中に入ってゆく。すると、自分の脳内で〝カチカチカチ〟と、音がした。
「黒埜さん、どうですか? 頭の中で何か音がしませんでしたか?」
「何かがハマるというか〝カチカチカチッ〟という音がしたのは感じました」
「――カチカチカチ……? まあ、はい。お疲れ様でした。これで黒埜さんの魂にも
「ケン、ぼくのことば、わかる?」
「ああ、今はもう大丈夫だ――なるほど、これが
……もしかして今俺は、地球上のありとあらゆる言語が日本語に聞こえる超絶究極完璧超人通訳者になった……?
――あれ、これだけで俺、翻訳家や通訳として食っていけるのでは!?
だが俺の思惑はともかく、ディアや涼香さん、そして茨木が俺に期待している最終目的はここではない。
ちなみに、習得難度は五十万人術。つまり五十万人に一人が使えるかどうか。
……ちょっと無謀過ぎやしませんか。まるで運転免許を取りたての人間がいきなりレース用のマシンに無理やり乗せられた挙げ句テクニカルコースを走ってこいとでも言われるような感覚だ。本当に出来るのか、この俺に?
だがしかし、絶世の美貌を誇る鬼教官はきっと俺が怖気づくのを許してくれない。長年の悲願である『元の世界への帰還』が果たせる可能性が彼女達の前にある以上、手を尽くさずして諦めるなどという事はきっとしない筈だから。
――俺が彼女達の立場でも、きっとそうだろう。何事も、諦めたらそこで終わり。できる事は全てやらないと、後悔というものは自分の全てを押し潰すのだ。
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