第16話「百合色の人生とは」

 朝は来た。

 飽きもせず毎朝、日は昇るのだ。

 そしてチユリは、珍しく自分から目が覚めた。

 外には小鳥がさえずり、木枯こがらしさえもどこか優しく吹き抜けてゆく。カーテンの隙間から差す朝日が、寝室をわずかに照らしていた。

 清々すがすがしい朝、だが以前とはシチュエーションがいささか異なる。


「これが……朝チュンってやつ、なのかなあ」


 チユリはひとりごちて、隣を見やる。

 そこには、安らかな寝息を立てるメリアが眠っていた。

 そう、またしても二人は同衾どうきんしてしまった。

 しかもそれは、

 そのことを振り返ると、身体が火照ほてる。まるで、昨夜の情熱が肌でくすぶっているかのようだ。その残滓ざんしいつくしむように、チユリは裸の自分の肩を抱く。

 そして、特別な夜をゆっくりと振り返るのだった。





 帰宅までの二人は、不思議な沈黙を共有し合った。

 いつもメリアに助けられてばかりのチユリだが、まさか命を救われるとは思わなかった。大げさなことだが、知らぬ間に自分は、誰かに尾行されていたのだ。

 そして、メリアは全力でチユリを守ってくれた。

 人の追いつけぬ星空の中まで、自分を抱えて走ってくれたのだ。


『えっと、その……メリア?』

『は、はいっ』

『……そろそろ、降ろしてほしいなあ、なんて』

『あっ! ご、ごめんなさい!』


 玄関で降ろしてもらって、靴を脱いで上がる。

 なにを言うでもなく、なにも語らず、会話は特になかった。

 必要なかったとも言える。

 チユリが化粧けしょうを落としてさっぱりした時分には、メリアもキッチンから戻ってきた。二人は何故なぜか、示し合わせたように寝室に集まっていた。

 並んでベッドに座れば、自然と肩と肩が触れ合う。

 そしてもう、言葉は一足先に今日の仕事を終えていた。

 口に出したい全てが今、重ねた手と手を通じて伝わるような気がしたから。


『あ、あのさ……メリア。さっきは、ありがと。重かったでしょ?』

『いいえっ、そんなことは! 極めて標準的な……ま、まあ、やや運動不足を感じますが、そんなこといいんですっ』

『にゃはは、どうしてもデスクワークはそうなるんだよねえ』

『でも……チユリが無事でよかったです』


 メリアは男の二人組だと察知していた。

 だが、そんなことはもうどうでもいい。ひょっとしたら心身の安全に関わることかもしれなかったが、チユリにはアウト・オブ・眼中だった。

 生まれて初めての、特別な感情。

 もどかしいほどに今、チユリの胸に広がりあっしてくる熱があった。

 日々の暮らしで膨らむメリアの存在感が、突然変質したのだ。

 あるいは、以前から徐々に変化していたのかもしれない。

 そのことに気付かされた、そう言ってもよかった。


『んと、ね? あの、メリアさあ……一応、ちゃんと言っとくけど』

『は、はい』

『あたし、メリアのこと……好きだよ? その、どういう好きかがまだ、よくわからなくて。なにしろこぉ、なにもかもが初めてで』

『……嬉しいです、チユリ』

『これから来る彼氏君に、悪いかなあ? こういうのって』


 ふと、今朝の出来事を思い出す。

 まるで漫画やテレビドラマの世界だった。

 今朝、会社の最寄り駅でアクシデントが発生した。パンを咥えて全力疾走のチユリは、他の利用客と接触して転んだのだ。

 正確には、転びそうになった。

 そんな彼女を優しく抱き止め、頬張っていたサンドイッチをも救ってくれた……それは、一人の美形アンドロイドだった。イケメンだったのである。きっと、もし本来のオーダー通りに恋人が届いてたら、あんな感じだったのでは? そう振り返るだけの余裕も今はない。

 夢みたいな一時だったが、それも急激に色あせてゆく。

 今はすぐ隣に、現実を共有するメリアがいてくれるのだ。


『チユリ、わたしも好きです……出会った頃から、ずっと』

『でもほら、お互い……ね? 本来は、こう、違う訳じゃない。相手がさ』

『そう、ですね。でもっ!』

『うん、だからこぉ……色々とゴメンナサイなんだけど、今は……今だけは、お願い』


 人肌恋しい季節も、背を押したかもしれない。

 吊り橋効果みたいなものだって、影響したと思う。

 でも、チユリは今になってはっきりと自覚していた。

 押されるだけのものが、影響を受けるなにかが自分にはある。それは今、痛いほどに胸の奥で燃え盛っていた。心の中に今、温かな炎が確かにともっていたのだ。


『メリアには迷惑かなあ、って……でも、なんかこぉ、ッ、ン!?』


 そっとメリアが、チユリのくちびるに指で封をした。

 そのまま人差し指を立てたまま、静かにうなずく。

 そして、チユリを優しく黙らせたまま……彼女の眼鏡を外してくれたのだ。それを枕元へ畳んで置くと、再度メリアが見上げてくる。

 そのつやめく唇が、薄紅色うすべにいろに潤んでいた。

 どちらからともなく、まぶたを閉じる。

 互いの呼気が肌をくすぐる中で、チユリはファーストキスを体験した。大事に取っておいたつもりじゃないし、機会がないので未開封だっただけである。

 だが、あらゆる娯楽創作で語られた通り、薔薇色ばらいろの世界が広がる。

 唇の粘膜同士が触れ合うだけでもう、永遠が一瞬の刹那に凝縮されていった。

 メリアはチユリの三編みを解きつつ、静かに離れる。


『……ちょ、ちょっと待ってね、メリア。照明、オフ! あーでも、いい感じにムーディーに!』


 音声入力で寝室の明かりを調節する。いつもはフルオートなので、ベッドに入ると自然と消灯されるのだが……今日は、なんだかクリアな視界が少し恥ずかしい。

 しかし、空気を読まぬ部屋の制御AIが、ドぎついピンクの光をグルグル回し始めた。

 慌てて再度、事細かにチユリは雰囲気を言葉にして伝える。

 メリアはクスクスと笑いながら、チユリの長い黒髪を手に遊ばせていた。


『あーびっくりした……この部屋、ああいう照明設定あったんだ』

『いい感じ、の定義は人それぞれですからね。この部屋も今は、一生懸命に空気を呼んだんだと想いますよ?』

『そういうもんかなあ。……ん? メリア、どしたの』

『チユリの髪……綺麗です。まるでお姫様みたいですねっ』


 いつも三編みにしているから、チユリの髪はまるでウェーブがかかったように光沢のゆらぎを織りなしていた。それが今、落ち着いた間接照明の光で静かに輝いている。

 メリアの優しい指が、まるでさざなみのようにチユリの髪を泳いでゆく。


『お姫様ってがらじゃないよ、もう……まんま、オタサーの姫概念じゃん』

『そんなことないです。ふふ、やっぱりチユリってかわいいですよねっ』

『そういう年じゃないってば』

『……わたしも今、チユリを欲してます。求められたいと望んでいるんです。いい、でしょうか?』


 少し恥ずかしげにうつむいてから、メリアが上目遣いに見詰めてくる。

 否定する理由がないし、実際そうできなかった。

 二人でベッドに上がって、相手の服を脱がせ始める。普段からもの凄いスピードでキーボードを叩くチユリの指は、まるで麻痺したようにもどかしかった。

 逆に、メリアが妙に手際がいいのが対照的だ。


『因みにですね、メリアさん』

『はい。……メリア、さん?』

『ええ、メリアさん……その、ワタクシ、初めて、でして……処女、でして』

『ん、なるほど。でも、大丈夫ですよ? ノーカンでもいいですし』

『ノーカンではないっ! こう、なんか、気持ち悪いかなって……いい年して』

『わたしも初めてですし、処女も童貞も賞味期限のあるものではありません』


 ド正論だが、あまりなぐさめになってないのが少し悲しい。

 それに、純真無垢のかたまりみたいなメリアからそんな言葉が出てくると、少しドキリとする。

 そんなことを思っていると、あっという間にチユリは生まれたままの姿に脱がされてしまった。寒くはない、むしろ肌が熱を持ったように泡立つ感覚が止まらない。


『チユリ、今夜は……教えてあげますね? チユリはとっても魅力的な人……きっと、本当の恋人も好きになってくれますから。だから、楽にしてください』

『はっ、はいぃ。で、でもね、でもっ……今、好きなのは……メリアに、なっちゃった』

『嬉しいです。あ、でも、ちゃんとした初体験がお望みでしたら……わたし、理解ある方だから遠慮しないでください。オプションパーツで身体を外部拡張すれば、そういったニーズにも――』

『ひええっ! そ、それ駄目! それは解釈違いのメリアだから! ……今のままのメリアでいい、それがいい、から』





 という訳で、とうとう二人は一線を超えてしまった。

 この短い期間で、予定外のハプニングは同居人になり、家族のぬくもりを教えてくれた。さして必要としなかった他者との関係性、その構築の目的と過程がひっくり返っていた。

 そして気付けば、それを教えてくれたメリアが愛おしくなっていたのである。

 だから、思わずチユリはにやけた笑みを浮かべてしまうのだった。


『おーおー、かわいい寝顔……むふふ。どうしよっかー、ナギ様? わたし、結構かなり惹かれてる……きっとメリアに、恋してる』


 未来の恋人にちょっと後ろめたくて、思わずつぶやく。

 そして当然のように、先日駅で出会ったイケメンの笑顔が脳裏を過ぎった。

 理想の彼氏はいつか来て、恋人になってくれる。今の時代じゃ、アンドロイドとの結婚だって珍しくはない。

 でも、そんな日々のかたわらにメリアがいてほしい。

 それが彼女に迷惑で、彼女の本来のオーナーも困らせると知っている。

 けど……だけど、それでもチユリはメリアへの気持ちが抑えきれなくなっているのだった。

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