第2話 天文部部長、雑賀宙

 雑賀はエリのお気に入りの先輩だ。


 入学したときから、授業に関することや学校生活の過ごし方など、知り合いのいなかったエリに雑賀はたくさんの事を教えてくれた。

 定期試験で出そうな問題やこの時期にやっておいたほうがいいこと。エリは雑賀のアドバイスに大いに助けられてきた。


 エリはもともと頭がいいほうではなく、この東光学院にもまぐれか学校側のミスかで入学できたような人間であるため、他の同級生と比べて、何かと勉学において劣るところがある。

 エリは人懐っこい性格で、誰にでも笑顔で接することを心がけているため、クラスメイトからの信頼も厚く、また、行事にも実行委員として精力的に活動しているため、他クラスからも一目おかれている。

 だが、勉強だけはなかなか結果がでない。


 そんなエリだから、定期試験の二週間前になると誰よりも早く留年の危機を感じて、雑賀のところへ駆け込むのだ。

 雑賀は二年生のなかでは上位の成績で、全国模試でも難関大学のA判定をいくつもとるほども秀才である。そして、エリが半なきで学校指定の問題集をもってくると、丁寧かつ分かりやすい解説で教えてくれる。


 また、学習面のみならず、学校生活においても、何か悩みがあればすぐ雑賀に相談するのだ。

 雑賀はその柔和な面立ちでエリの真剣な話もくだらない話も聞いてくれた。決して、饒舌ではないが、エリにかける言葉はどれも、心にすっとくるような温かいものだった。


 エリはそんな雑賀を一番に慕っていて、恋心も抱いていた。

 だが雑賀は肝心なところで少し鈍感であるため、エリの想いには気づいていないだろう。


 できればエリは、雑賀にこの気持ちを知られることのないまま、いつもどおりの微妙な、絶妙な関係を保ちたいと思っている。


「うん。今日は俺だけだよ。みんなは中間考査の補修があるらしい」

 ゆったりとした甘い声で雑賀は答えた。

 手に持っている小説にはブックカバーがかけられているが、中の文章が英語で書かれているので、洋書だろう。エリは洋書など読んだことがない。いや、読めないのだ。

「そうなんですか……じゃあ、センパイと私の二人っきりですね」

 二人というところを少し強調してエリは言ったが、雑賀は「そうだね」とだけ言った。


「エリちゃんは今回のテストはどうだった?」

 手に持っていた洋書を机に置いて、エリに微笑みかける。

 エリは自分の指定席に腰をかけながら、ため息交じりに言った。

「テストが配られたときはやれるって思ったんですけど、いざひっくりかえしてみたらいきなり分かんない問題が出てきて。センパイに教えてもらってところだけしか解けなかったです」

「でも、そこだけでも四十点は下回らないはずだから、赤点にはならないと思うよ。それに、やったところができるっていうのも、すごいよ。お疲れ様」

 

 色素の薄い瞳と髪は雑賀の雰囲気をどころかふんわりとしたものにしている。

 エリも髪は茶色いほうだが、雑賀はもっと薄い色で、毛先はほとんど透明になっている。話し方がおっとりとしていることも相まって、雑賀は暖かな陽のような人だ。


「センパイがそうやって甘やかすから~せっかくやってきた危機感もどっかに飛んで言っちゃいましたよ~」

 エリは机にうなだれた。

「じゃあ、もっと厳しくする?」

 雑賀は雑賀にできる精一杯の怖い顔をしたが、やはり雑賀なので、微塵も恐ろしさが伝わってこない。

 

 雑賀の渾身の怒り顔に笑いをこらえながらエリは上目遣いでせまった。

「センパイじゃ、全然怖くないです! それに、私のお勉強モードだって二週間しかもたないんです。なにかご褒美がないとやっていけないんですからね」

「ご褒美?」

 雑賀は表情をいつもの柔らかいものに戻した。

「そーです。こうやってテスト後に優しいセンパイに労ってもらうと苦労が報われたような気がするんですよ~」

「うーん。優しい先輩っていうのは、誤解じゃないかな? それに、俺は特に何もしてないよ」

「センパイの行為云々じゃなくて、もうセンパイの存在自体が癒し、オアシスなんですって」

 エリは大げさに両腕で天を仰いだ。


「それを言うのなら、俺だってエリちゃんに癒されているよ?」

 雑賀は少しはにかんだように笑った。

「それって、愛の告白ですか?」

 エリはにやにやして雑賀の顔を覗きこむ。

「もしそうなら、エリちゃんのほうが先に愛の告白をしたことになるよ」

「ううっ……そうですけどぉ」

 エリは自分で言ったことに少し恥ずかしくなった。そして、その恥ずかしさを雑賀への非難に転換することで解消しようとした。

「センパイ、こんなところで油売ってていいんですか?」

「儲かるなら、それでいいよ」

 雑賀はさらりと言った。

「そうじゃなくて。テスト後にクラスの人と……女の子とラーメンとか食べに行かなくていいんですか?」

「ラーメン? なんで?」

「いや、高校生ってテスト後にみんなでラーメン食べに行くものじゃないんですか?」

「そうなの? 初めて知ったよ」

「ラーメンはテストの醍醐味ですよー。よくテスト後にカップルでラーメンいってるじゃないですか。ほら、校門出て駅と逆の坂道を登ったとこのラーメン屋とか」

「なるほど。それでみんなテスト後はあっちの坂を登っていくのか。いつも不思議だったんだよね」

 雑賀は長い間の疑問が解けたようで、すっきりとした顔をしていた。

「センパイはそういうとこに一緒に行ってくれる女の子いないんですか?」

「いたら、ラーメンのこと知ってたよ、たぶん」目を細めて視線を下にそらした。

「――なんか私、寂しくなってきました……」

 

 下校する生徒の高揚した話し声が開けっ放しの窓の外から聞こえてくる。

 肌寒さを感じるまで、吹き込んでくる風に気がつかなかったのはおそらく、その風があまりにも小さなものだったからであろう。

「……そういうエリちゃんはどうなの?」

「ラーメンですか?」

「うん」

「前回のテスト後は行きましたよ」

「クラスのみんなと?」

「みんなって訳じゃないですけど、まあ、その、そんなところです」

 エリは少しぼかして答えようと思ったが、結局しどろもどろになってしまった。

「そうかー。とうとうエリちゃんにも彼氏ができたかー。お父さん、感動で涙でちゃうよ」

 わざとらしくそう言って、出てもいない涙をぬぐった。

「別にっ、彼氏とかそんなんじゃないですって! その、本当にただのクラスメイトですよっ。友達です、と・も・だ・ち」

「どうかなー。相手はどう思っているか分からないよ?」

「考えてもみてくださいよ。勉強はできないし、ルックスもそんなにぱっとしないし、運動ができるわけでもなし。おまけにおしゃべりだし」

「そして、でしゃばり?」

 雑賀は含み笑いをした。

 それを受けて、エリは椅子の背もたれに仰け反った。

「――そうですよぉ」

 

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