小説家の彼と、私の生活

高村 芳

小説家の彼と、私の生活

 照明を落としたほの暗い部屋の中で、パタパタとパソコンのキーボードをたたく無機質な音がする。彼が仕事をしている音だ。私は寝起きのふわふわとした気持ちよさを感じながら、毛布から顔の半分を外に出す。ふわりと、微かにコナコーヒーの香りが漂ってくる。起きた私に彼は気づいた様子もなく、パソコンに向かって頭を掻いている。きっと眉間には皺が寄っているはずだ。

 仕事中の彼は、いつだってそうなのだから。



 彼の仕事が小説を書くことだと知ったのは、初めて出会ってからずいぶん経ったあとのことだった。大学二年になってからまもなくのこと、桜は散り、新緑が白い日光に照らされ若々しい香りに溢れた季節。お互いの友人同士が知り合いだという理由で、偶然一緒に遊ぶ機会に恵まれた。そのときは県内の遊園地に行ったのだが、正直私は遊園地のことがあまり好きでなくて、友人たちの輪の中に入りづらく居心地の悪さを感じていた。私が最も苦手とするジェットコースターに乗るという話になり、一人になるチャンスだと思い、ほっとしたものだ。友人たちを送り出し、しばらく時間を潰そうとしているとき、なぜか私と一緒に地上に残ったのが彼だった。


「ジェットコースター、乗らないんですか?」

「あいにく、わざわざスリルを楽しむような自虐趣味を持ち合わせていないので」 


 最初の会話がそれだった。「ヘンな人」。それが第一印象だったのは言うまでもない。

 ペンキが剥げた古びたベンチで、隣に座り氷たっぷりの安いオレンジジュースを飲んでいた。大学で何を勉強しているのかなど、当たり障りのない話していたと思う。私の問い一つひとつに、彼は言葉少なに、けれど誠実に答えてくれているのがわかった。偶然にも好きなアーティストが同じで、その話が弾んでいると、瞬く間に時間が過ぎたことを覚えている。


 それから友人として関係を築きながらも、社会人になってからは会うことも少なくなっていた。久しぶりに友人を交えて居酒屋で会ったとき、お互いの近況報告を行うと、彼は、頑なに自分の職業を隠していて、怪しいことこの上なかった。友人がしつこく尋ねると、ぽつりと「自営業」とだけ呟いて、あとはお酒を飲むことに集中してしまったのだ。今思えば、お酒が入って容赦がない友人たちにからかわれるのがよっぽど嫌だったのだろう。彼は酒が進みすぎて帰れなくなり、結局友人に肩をかつがれて友人の家に連れて行かれたと、後日知った。

 「ヘンな人」が、「ヘンでおもしろい人」になっていった。



 職業を打ち明けられた夜は、本当に笑ってしまった。交際してから初めて彼を部屋に呼んで、一緒に夕食を食べる日だった。私は彼の食事の好みをそれほど知らなかったから、和食にしようか洋食にしようかはたまた中華にしようか、そんなくだらないことで仕事が手につかないくらい悩んでいたことを覚えている。結局、慣れない和食を必死に作って、いざ食べようとしたそのときだった。


「あの、言ってなかったことが、ひとつあって。僕の仕事のことで……」


 当時の私は彼がいたずらに嘘をつく人間だとは思っていなかったので、思わず一度持ち上げた箸を置いて、真剣に彼の話を聞こうとした。彼が緊張しているのだろう、私の肌までピリつくようだった。


「自営業って言っていたんだけど、僕は、その……小説を書いていて……」


 彼は勢いがついて止まれなくなった雪崩のように、今までの嘘を白状し始めた。

 実は小説家なこと。茶化されるのが嫌で、恥ずかしくて言い出せなかったこと。出会った人には「自営業」と伝えてしまうこと。そして自分のペンネーム。最後に、彼はこう付け加えた。


「できれば、僕の小説は読まないでほしい。君が嫌いなわけじゃなくて……僕が嫌われるのが怖いだけなんだ」


 彼の、脆い関係性を壊さないように、壊さないようにと慎重に語るそぶりをよそに、そこで私は吹き出してしまった。次は彼が驚いた番だった。


「な、僕、何か変なこと言った?」


 と慌てふためいていた。私は笑いながら彼に尋ねた。


私に、どうやってあなたの小説を読めっていうの?」


 彼がぽかんとしているのがわかって、余計におかしくなってしまった。彼も「そっか、そっか」と安心した声色で笑った。

 一通り笑い終わって、「ありがとう」と伝えた。見えない彼との距離が、もう一歩近づいた気がした。そのときには、彼が笑ったときには柔らかな香りがすることを、私はすでに知っていた。置いていた箸を、もう一度手探りで手にとった。


「ほら、早く食べちゃお。おなか空いちゃった」


 ふたりで「いただきます」と声をそろえた後、じゃがいもとほうれん草のお味噌汁に口をつけた。前日に練習までしてつくった夕食は、とっくに冷めてしまっていた。



 「……ごめん。起こした?」


 見慣れたシルエットが瞼の裏に映る。彼の冷え切った手が、私の頭を撫でる。寒いなら我慢せずに暖房を点けるよう伝えると、彼は「わかった」、ともう一度私の前髪に触れた。私の喉が乾燥しないように暖房をつけない思いやりを、私は知っている。

 彼の「おやすみ」という声と、暖房機器がつけられた電子音を確認してから、私はふたたび太陽のような優しい香りに包まれて眠りについた。


 小説家の彼と私の生活は、まだ始まったばかりだ。



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小説家の彼と、私の生活 高村 芳 @yo4_taka6ra

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