綾
葛城2号
プロローグ
――高田綾(たかだ・あや)という名の、少女がいる。
彼女は、けして目立つ容姿をしてはいなかった。どちらかといえば内向的な性格である事とは別に、彼女は……不思議なぐらいに、他人の目を引き付ける要素に欠けていた。
はっきり言えば、特徴的な部分が見受けられない少女であった。しかしそれは、少女の容姿や性格が悪い……というわけではない。
大きくも小さくもない両目に、遠目によっては二重に見えなくもないまつ毛。団子鼻というには些か高く、笑うとえくぼが浮き出るが、普段は何処となく頬がこけてようにも見える。
肩口まで伸ばした髪はそれなりに手入れがされ、身だしなみも最低限整えられている。口を開けばしっかりと会話が出来て、学校の成績とて悪くはない。
身長は平均よりも少しばかり低く、スタイルも身長相応。痩せてもいなければ太っているわけでもないし、手足の長さだって平均的で、骨格の形も特別整っているわけでもない。
全体的な雰囲気は……これまた、どちらにも当てはまらない。
野暮ったいと言われれば半数ぐらいが首を傾げ、華やかと言われれば半数ぐらいが首を傾げる……何とも、判断に迷ってしまう雰囲気を放っている。
何がどう悪いわけではないが、何がどう良いわけでもない。
おそらく、生まれながらの性質というやつなのだろう。衣服のセンス一つとっても彼女に対する印象が半々に分かれるのだから、他の要素もまた……お察しなわけで。
けれども、強いて彼女の雰囲気を言い表す言葉を出すのであれば、だ。
地味……という言い方は、失礼に当たるだろう。けれども、100人の第三者の視点から見れば、おそらくは55人ぐらいがそう判断するであろう……そんな存在が、高田綾という名の少女であった。
そして……そんな少女には父親と母親がいて、姉が居る。
何もかもが異常なまでに平均的であり、良くもないが悪くもない彼女とは異なり……まるで、そんな彼女と対を成しているかのように、極端な性質を持った娘であった。
その片鱗の発現は、彼女がまだ幼稚園でひらがなを習っている所から。その頃にはもう、分かる人には分かるぐらいに彼女の優秀さが見え隠れしていた。
一言でいえば――高田綾の姉は、天才であった。それも、文武ともに。
同年代の誰よりも早く文字を覚え、同年代の誰よりも頭が良く、時には大人たちすらもハッとさせるような事を呟き、コンクールでの入賞などは日常茶飯事。
運動神経だって抜群で、苦手なスポーツは無い。駆けっこをすれば男子よりもよっぽど速く走れ、幼稚園の段階からスポーツ特待生として話が来る事もあった。
身体も丈夫で、体力も年齢不相応。風邪が流行った時期にも平気で外を走り回るだけでなく、医者からも生まれつき免疫が強く病気に成り難いと言われたぐらいであった。
加えて……姉は、容姿にも優れていた。スタイルの良さだけではなく、純粋に顔立ちも整っていたのだ。
好みに合わない人から見れば、けして美人とは判断しない。しかし、全体の9割が『そこらの娘では太刀打ちできない天性の美貌』と判断するぐらいに、姉は美人として名が通っていた。
おかげで、姉は非常に目立った。次の瞬間には雑踏に紛れてしまいそうになるぐらいに印象の残らない綾とは違い、彼女の姉は……小学校に入った頃からもう、目立ち始めていた。
それは……何時しか光と影のように、二人の立場を明暗に分けた。
出来の悪い子よりも、出来の良い子の方が可愛く思える。中には出来の悪いからこそ可愛く思える人もいるが、だいたいの者は出来の良い子の法を可愛がるようになる。
それは、彼女の……高田綾の両親とて、例外ではなかった。
これがまだ、逆であったならば話が違っていたのかもしれない。一人か二人子供が生まれた後の、末っ子がそうであったのならば、話は違っていただろう。
最後に生まれた子が優秀であるならば、まだ……他所の家庭や付き合いから、その子が特別なだけであると思う素地が出来ていたかもしれない。
しかし、現実はそうではなく、初めて出来た子供……つまり姉の方があまりにも良過ぎたせいで、それが普通なのだと思ってしまった事が、全ての悲劇の始まりであった。
――有り体にいえば、後々になって『天才』と称されるようになる姉が、全ての評価の基準となってしまったのだ。
言っておくが、妹である綾はけして出来の悪い娘ではない。
姉があまりに規格外過ぎるだけで、綾自身は平均より少しばかり上ぐらいの成績は出せていたし、素行だって悪くはない。目立たない娘ではあるが、落第者のレッテルを張られるような娘ではなかった。
しかし、両親にとって、そんな事は何の意味もなかった。
姉に出来る事が妹には出来ない。妹に出来る事が姉には出来て、妹に出来ない事が姉は出来た……そんな事が、あまりに多過ぎて、あまりに重なり過ぎたのが悪かった。
……キッカケが何だったのか、それは両親にも、妹の方である綾にも分からなかっただろう。
最初の頃は公平に見ようとしていた両親も、何時の頃からか……『どうして姉には出来て貴女は出来ないの?』と、小言を呟くようになってからは、早かった。
そう――、一度口にしてしまえば、後はもう坂を転がり落ちるのと同じであった。
何をするにも、何をさせるにも、両親は事あるごとに姉妹を比べた。客観的に見て、それはもはや虐待に等しいぐらいの差別であり、綾の努力を欠片も認めはしなかった。
何せ、姉は教科書に目を通しただけなのにテストで満点を取れるばかりか、高校入学直後の段階で、既に有名大学受験の為の勉強に取り掛かれるぐらいに頭が良い。
当人の努力だってあるだろうが、そんなの、常識的に考えれば『この子が特別なだけ』だと誰もが考えるところである。
だが、両親はそうならなかった。
初めての子である事に加え、周囲から事あるごとに『お姉さんは優秀ね』と褒め称えられ、嫉妬の眼差しを向けられ続けた事で……自分たちは特別なのだと思うようになってしまった。
――自分たちの子供だから、優秀なのだ……と。
故に、優秀ではない方の娘である綾への扱いが必然的に悪くなってゆくのも……両親たちにとって、当たり前の事でしかなかった。
故に、叱りつけた。何故なら、出来が悪いからだ。
嫌なら、姉とまではいかなくとも、自分たちが誇れるだけの娘になれ……そのような言葉を、時にはもっと酷い言葉を、綾に掛け続けた。
それは、綾が両親から、周囲から、周りから日常的に受け続けた……己の存在そのものを否定する、呪いの言葉であった。
そう、『呪い』である。
けして、激励などと呼べる代物ではないソレらは、呪いでしかなかった。呪いとしか呼べない、醜悪で寒々とした……邪悪なナニカで、昔の人はソレを『呪い』と呼んだ。
当然、そんな邪悪なナニカを……呪いという言葉では到底足りない、『躾』という名の借りた、底知れぬ悪意を受けて無事でいられる者など存在しない。
特に、まだ心が不安定な子供の内は。天秤のように心が善にも悪にも傾きやすい年頃の子が、四六時中に渡って延々と呪いをぶつけられれば……どうなるか。
答えは二つ。一つは、自らを否定して死を望むようになること。
だいたいの者が、コレを望むようになる。何に悲しんでいるのかすら分からなくなり、けれども悲しみは消えず、それを消したいがあまり死を願うようになる。
そして、二つ目は……呪いを受けて、全く別のナニカへと心が変質すること。
ある者は呪いの果てに狂人となって無差別殺人鬼となり、ある者は虫の命と人の命を同一して狂気に心を浸し、ある者は正常な人間を食らうことで自らを正常に戻そうとした。
だいたいにして、その者の心の形が元に戻ることはない。そして、当人も心の形が変わったことに気付かないまま……最後まで行く。
そんな呪いを、綾は小学生の……いや、もっと前から、綾は受け続けてきた。そして、その呪いは綾が月日を重ねるにつれ、どんどん酷く、露骨なものとなっていった。
綾が小学校に入学するときは、お下がりのランドセル。中学校に入学するときは、お下がりの鞄。服も全てお下がりで、決して綾に服が買い与えられることはなく、いつも洗濯のし過ぎでボロボロになった服を着ていた。
いつしか綾の誕生日は忘れ去られ、姉の誕生日が綾の誕生日になっていた。なぜならば、姉が飽きてしまって捨てられる物が、綾にとっては唯一の誕生日プレゼントであったから。
外に出かけるときも、必ず綾は1人で留守番。家族が楽しく絆を深めて楽しんでいる最中、綾だけは1人寂しくカップラーメンを啜ることが、当たり前になっていた。
……もしかしたら、綾が異常なまでに可もなく不可もなくの平均的な存在になったのは、コレが原因なのか……いや、おそらく、コレが原因だろう。
孤独を味わい続けた綾は、いつしか他人の前で本当の自分を見せることがなくなった……というよりも、彼女は自分が何なのか分からなかったのだろう。
何をしても、何を頼まれても、姉に比べられる日々。二言目には、『姉ならもっと上手くやれる』、だ。
それなら最初から姉に頼めと伝えれば、返される答えは何時も同じ。『妹なら、少しぐらい姉を見習って手伝うぐらいはしろ』、だ。
何時も、同じ。何をしても、何をやっても、『姉に頼みたいけど忙しいみたいだから、仕方なくお前に頼んであげている』……であった。
何時も、何時も、何時も、何時も、綾は姉の代わりであった。
それも、誰もが口を揃えて、『姉の代わりに頼んでやっている』と恩着せがましく、まるで拒否する方がワガママなのだと言わんばかりの言い草で。
……子供である綾に、拒否する事が出来なかった。知識も、なかった。
抵抗するだけの気力はもう、彼女に残されてはいなかったのだ。だからなのか、彼女は小学生の半ば頃から、涙をほとんど流す事がなくなっていた。
当時の綾は、耐えるしかなかった。いや、耐えるのは、今も変わらない。周囲から注がれる『呪い』を、只々呑み込むことしか出来なかった。
それ以外の方法をするという考えが、もう綾の中には残っていなかったから。心が凍り付いてしまったのか、何時もモノクロの中を歩いている気分で過ごすようになっていた。
けれども、綾は……頑張った……それでもなお、一度として綾が褒められることはなかった。
それは正しく、真綿で身体中を覆われているかのような、息苦しさだけが積み重なる日々であった。
だからこそ綾は……いや、綾だけではない。誰も彼もが、その異変に……始まろうとする気付けなかった。
呪いは……心を変質させる。だが、その呪いが、心だけしか変質させないと、いったい誰が定めたのだろうか。
――どこまで行っても平凡の域を越えない高田綾の姉は、『天才』であった。
天は二物を与えずとは言うが、この姉に対しては例外……二物どころか、五つ六つと与えられた。見方を変えれば、神に愛された子供であったのかもしれない。
――対して、高田綾には何も無かった。
唯一有るのは、年に1回ぐらい風邪を引く程度には健康な身体だけ。けれどもそれすら、姉に比べたら虚弱でしかなくて。まるで、愛される姉の分だけ神から見放されたかのような子供であった。
……だからこそ、なのかもしれない。
彼女には……高田綾には、本人すら気付いていない才能が有った。それは、彼女の姉ですら持ち得ていない才能……というよりもはや、体質と呼んだ方が正しかったのかもしれない。
その体質とは、『器』である。
常人であれば心を壊すか身体に不調を覚えるほどの呪いを、およそ99%近く影響を受けないまま膨大に溜める事が出来る、特殊な体質であった。
もちろん、それがどうしたと言われれば、それまでなのだが……問題なのは、高田綾という名の少女は、その溜め込んだ呪いに対する強固な耐性をも有していた。
つまり、彼女は数千万……いや、数億に1人居るか居ないかの、呪い限定の先天的な無痛症でもあったのだ。
それ故に、彼女もまた気付けなかった。常人であればとっくの昔に心を壊し、あるいは身体が悲鳴を上げるほどの呪いをその身に受けてもなお、彼女は何一つそれを感じられなかった。
……『呪い』は、病とは少し違う。
無意識の内にであっても、心の何処かで、あるいは生物が持つ潜在的な第六感が認識しない限り、『呪い』が毒へと転じる事はない。
言い換えれば、『呪い』は、相手が生物である以上は絶対に毒へと転じる。自覚出来ていなくとも、そのように人間の身体は出来ているのだ。
それ故に、変化はずっと以前より起こっていた。でも、気付けなかった。
次から次へと降り積もる『呪い』は彼女の心と身体を変質させ、異質な存在へと作り変えようとしていたのに……彼女は、気付けなかった。
いや、気付く事など、その時の彼女には不可能であった。
誰か、一人。
誰か一人でも、彼女を見てくれる者が居たならば。
天才の姉の、妹ではなくて。姉の代わりではない、ただ一人の少女として見てくれる者が居たならば。
おそらく、結末は変わっていただろう。
それがグッドエンディングなのか、あるいはバッドエンディングなのかはさておき……現実は何時も、トゥルーエンドにしか向かわないし、向かえない。
故に、彼女の結末は変わらない。無限ではなく、有限でしかないのだから。
当人が望もうが望まなかろうが、『呪い』は彼女の中に溜め込まれる。そして、運命の日……他人よりも膨大な『器』を持つ、稀有な体質の少女の『器』に亀裂が入った、その瞬間。
溜め込まれた膨大な『呪い』が、少女の……高田綾を、瞬く間に作り変えた。人間ではない、全く別のナニカへと作り替えた。
草木も眠る丑三つ時。誰にも知られる事無く、静まり返った住宅街の一角にある、ありふれた一軒家の、二階奥にある物置と兼用されている、その小さな部屋で。
『……イヒッ』
一人の少女が……いや、少女であった存在が、人ではないナニカへと変わった。ひっそりと、息を潜めるように、夜の静けさに身を隠しながら。
科学では説明がつけられない奇跡が、この夜、確かに起こっていた。
けれども、その事に……今はまだ、少女以外は誰も気付いてはいなかった。少なくとも、最初の犠牲者が出る、その時までは。
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