怨8 シオリ 北海道小樽市

遠藤國保は日々の些細な出来事を日記にしたためて、それを読み返す事もないままに25年の歳月を過ごしていた。

警察官の職を辞して、今では北海道の小樽で自給自足の生活を営んでいる。特に不便は感じない。

北海道での質素な暮らしを決断させたのは妻の瑞穂で、初めの頃は2人だけで慎ましく暮らしてはいたものの、瑞穂は5年前の春に死んだ。

肺炎だった。


「都心はゴリゴリ。出世とか世間体とかどうでも良いじゃない」


瑞穂の口癖だったその言葉を、近頃思い返しては、向こう岸で語る土産話に想いをはせる。

死というものを身近に感じる年齢になった証拠だ。

ところが遠藤は、遥か昔に捨て去った記憶の蘇りに悩まされてもいた。

悪夢ではなく、あの頃の光景が走馬灯の様に頭を駆け巡るのだ。

紛れもない事実の映像は、遠藤を不眠症にさせた。

昭和35年。

多摩川警察署の刑事時代、遠藤は児玉詩織の取り調べを担当した。


「根本地区誘拐殺人事件及び、アベック殺害・死体損壊放火事件」


この事件の容疑者として浮上したのが詩織だった。

当時のマスコミ報道の加熱ぶりは異常で、亭主と誘拐を企て実行、3人の小学生を殺害後に身代金を要求するが未遂に終わる。

動揺した詩織は、亭主と愛人を殺害。

自らも入水自殺を試みるが失敗に終わる。

戦後の悪魔。

美しき悪魔という見出しが、新聞や雑誌を賑わせた。

遠藤は、その時の取り調べの光景を夢に見るようになっていた。

手ぬるい真似はしなかった。

詩織に怒号を浴びせ、髪を掴んで取調室を引きずり回した事もあった。

殺人鬼が許せなかった、それだけだ。

詩織は泣いていたが、涙には騙されまいと必死だった。

美しき悪魔は自分の目の前にいる。

3人の幼き命を簡単に奪い、亭主と愛人に灯油を浴びせ生きたまま焼き殺す残忍な犯行。

それをこの女はやってのけた。

同情の余地はない。

そして、ついに詩織は自白した。

遠藤は今年で88歳を迎える。

残り僅かな人生に、再び児玉詩織の記憶が蘇るなど想像していなかった。

毎日毎日同じ光景が夢に出る。

遠藤は、煙草に火を付けて真新しい日誌を開いた。

このところ、些細な出来事よりも夢の話ばかりを書いている。

遠藤はふっと笑った。


「馬鹿馬鹿しい」


思わず出た言葉だ。

遠藤は煙草を消すと、長年愛用しているオイルライターに油を注した。

退職の際、部下や同僚から貰った品だ。

今でもこうして使えている。

自分の棺には、このライターも添えて貰えたらと思う。

柱時計が鳴った。

ふと見ると時計の針は10時を指している。


「もうこんな時間か。そろそろ畑へ出向かなくては」


そう思った瞬間、違和感を覚えた。

何故、音が鳴るのだろう?

12時を起点に3時間起きに鳴る筈の柱時計。

遠藤は立ち上がり近付いた。

その時、オイルが膝に零れたが気にならなかった。

柱時計はカチカチと時を刻んでいる。

かなりの年代物だから、少々ガタが来てもおかしくはない。

修理屋を近いうちに手配しなくては。

遠藤はそう決めて、再び煙草に火を点けた。

煙がゆらゆらと昇っていく。

また柱時計が鳴った。

驚いて顔をあげる。

目の前に女が座っていた。

ジィーっとこちらを見ている。

遠藤は我が目を疑った。


児玉詩織。


その姿を捉えた瞬間、火の点いた煙草の先端が膝に落ちた。

炎はあっと言う間に遠藤を丸呑みにして、その身体を炭化させた。


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