第8話 失望、譲れぬもの

 僕、える、そして百瀬百合花の三人は同じテーブルを囲んでいた。その上には豪勢なお茶請けらしきお菓子の数々。銘柄すら解らないけれど、紛うことなき高級感のある紅茶。


 僕の正面にはどこか楽しげな表情でこちらを見つめている一人の少女。

 先程までは下半身パンツ一枚のとんでもない格好であったが、えるの抗議が効いたのか、今はなんとかまともな格好に着替えてくれていた。


「お嬢様のジャージ姿がまともかどうかはわからんけどね……」


「なにか言いまして?」


 思わず溢れた独り言に反応されてしまい、僕はハッとした。


「あ、いや、なんでもないです、はい」


「もしかしてまだ緊張されてるのかしら。ねえ、絵瑠はどう思う?」


「えっと、その……ノーコメントで……」


 なんともまあ、ぎこちない空気である。

 しかし、こんな展開になるなんて誰が予想できただろうか。


 えるの様子を見に来ただけなのに、気が付けば部屋に招待されるばかりか、僕の描いていた生徒会長像を完膚無きまでに破壊され、今はこうしてお茶を飲んでいる。

 それらは紛れもない上流階級の接待なのだろう。高級な菓子や紅茶、まるで異国の空気すら感じられる内装の部屋、目の前にはジャージを着て雰囲気ブチ壊しの御令嬢、極めつけには本物のメイドによる給仕ときた。


「それで、そろそろ本題とやらを聞かせて貰いましょうか?」


 沈黙を破ったのは百瀬百合花。

 その申し出は願ったり叶ったりではあったが、正直、何から聞けばいいかすぐには思い付けない。


「聞きたいことは沢山あるよ。昨日の事件のこと、蜜峰さんのこと、あなたのこと、それに、えるのことも」


 僕が名前を出すと、えるは目を丸くしてこちらに視線をよこした。


「なるほど。まあ、お話をする分には問題ありませんが……そうですわね。わたくしもただ教えるだけでは興ざめというもの。物事には対価というものが存在します。無償の厚意ほど信用ならないものはありませんし、紅条さんだって、わたくしから情報をすんなりと引き出せる……だなんて無粋な考え方はしていないんでしょう? だからこそ迷っている。どの情報こそが自分に一番必要であるのか、それを選定している、といったところでしょうか」


「まいったね、お手上げだ」


「この程度は造作もないことですわよ。それで、情報……情報ねえ。まず先に問いますが、貴女がそれを手にしてどうするのかしら。無関係ではないのは確かだけれど、別に知る必要のある事柄なんてほとんど無いと言ってしまっても過言ではないと思いますけれど?」


「それは違う。知らなければならない、とかそんな使命感で動いてるんじゃないよ。ただ僕自身が気持ち悪いから、知らなきゃ気がすまないからそうするんだ」


「それが自分勝手であると、わかっていてもかしら?」


 自分勝手。そうなのかもしれない。

 結局、これは僕が納得できないだけなんだ。置いていかれるのが嫌で、これからまたそうなってしまうかもしれないのが耐えられなくて。

 大層な決意を抱えているように見せかけて、本質はただのワガママに過ぎない。それに香菜を利用して巻き込んで、利益だけの話でいうなら僕が一方的に得をするだけ。


 百瀬百合花の言い分はつまり、彼女に対するメリットがない、ということなのだろう。


「生憎と、僕が提供できるものなんてほとんどない。特にあなたのような人には―――」


「気に入らないわね」


 ぴしゃり、と。

 僕の言葉を断ち切るように、百瀬百合花の言葉が鋭い刃の如く放たれる。


「ようやくお話ができるかと思えば。正直に言って不快でしかありません。紅条さん……いえ、穂邑さん。


「それ、は―――」


 記憶喪失である故の、欠落。

 彼女は―――百瀬百合花は、僕のことをどこまで知っている?


「焦りも不安もただのマイナス要因でしかない。今の貴女はそんなくだらない感情に左右されて迷っていながらも、自分は決して迷っているわけではないと吠える駄犬。それでいて餌を与えられることをただ待ち望み、己の向かうべき出口さえ見失い無意味に走り回っている。これを滑稽と言わずして、なに?」


「ゆ、百合花さん……言い過ぎじゃ……?」


 蚊帳の外であるはずのえるが口を挟む。

 その気持ちは嬉しいが、僕にとっては百瀬百合花の言葉こそが正論に思えてならない。


は『罪を認めないから』とか言っていたけれど、これはもっと絶望的な問題だったようね。たった一年間ではまともな思考能力すら得られなかったのかしら。いいえ、そうではない。きっと貴女は。そのツケがこの始末では、彼女が―――いいえ、穂邑さんが可哀想だわ」


「それは……どういう……?」


 彼女とは、いったい誰のことを指しているのか。


「……はあ。まあ、それでも果たすべきケジメはあります。貴女は覚えていないでしょうけれど、わたくしは穂邑さんに借りがありますので。それを貴女に返すのは癪でしかありませんが、今となっては貴女が紅条穂邑なのですし、仕方ないと諦めましょう」


「やっぱり、僕の事情を知って……?」


「当たり前でしょう。わたくしを誰だと思っているの? 百瀬百合花ですわよ」


 なんとも乱暴な理論ではあったが、その言葉はどこまでも説得力の塊だった。


「ひとつだけ。貴女の知りたい情報、それを今ここで教えます。ただし、三分以内にそれを思い付けないようなら、このお話はこれで終わり。わたくし最大の譲歩もここまでとします」


 三分以内に、何でもひとつだけ聞き出せる。

 それは情けか―――違う。僕、いや、私に貸しがあると彼女は言った。これはケジメであると。過去の自分に頼るのは嫌ではあったが、彼女から情報を引き出す最後のチャンスかもしれない。


「え、と……それなら―――」


 ―――何を聞くべきか。


 蜜峰事件についてはある程度の全貌は見えた。どちらかというと気になるのは蜜峰漓江本人についてだ。しかしながら、それを知ったところで彼女がこの学院からいなくなればそれまでだし、僕の利益になるとは言い難い。


 それならばやはり三日月絵瑠―――いや、ミカエルについてだろうか。百瀬百合花は何かしらの理由で彼女を保護した。何も知らず、打算もなく、身も知らぬ少女を助けて傍付きとまでするなんて有り得ない。なにか知っていると思うのが妥当だ。


 けれど、それは―――やっぱり、彼女の言う通りで。


「あと一分ですけれど?」


「―――それじゃあ、聞くよ。私が、貴女に何を貸したのか……教えて欲しい」


 僕は、僕であることを貫きたい。そうでなければ、きっと自分自身すら見失ってしまうから。


「……なるほど。少し、失言だったようですね。今の貴女に、過去の借りなど持ち出すべきではありませんでしたか」


 百瀬百合花は厳格に、けれども少しだけ口調を和らげて、


「残念ですけれど、それは教えてあげません。こればっかりは、貴女がちゃんと思い出してくれなきゃ嫌なので」


「そっか。それなら、仕方ないや」


 それもその通りだ。自分がわからないから教えてくれだなんて、それこそ虫がいいにも程がある。


「時間です。残念ですが、わたくしが教えられることはなくなったようですわね」


「やられたな。三分なんて一瞬だった」


「すぐに直感で浮かび上がった疑問になら答える価値があるかと思ったのだけれど。まあ、このままだと詐欺になってしまうからひとつだけ。この後、蜜峰漓江の尋問を行うのだけれど、紅条さんも同行していだたいても構いませんが、どうします?」


「え……いいの?」


「実際、これはこちらにもメリットのあるお話です。彼女が貴女に固執したのなら、貴女が立ち会うことで何かが浮き彫りになるかもしれませんしね」


 なるほど。それは一理ある。

 僕も彼女とはもう一度話したいと思っていたところだし、ここで間接的に情報を得るよりも確実に有益であるのは明らかだ。


「それじゃあ、お言葉に甘えて。……そういえば、蜜峰さんはどこに?」


「彼女なら自室で謹慎させています。廊下には監視カメラもありますし、寮監にも警戒を厳にして欲しいと要請していますから、問題は―――」


 と、そこまで言った時、どこからともなくスマホの着信音が響き渡った。聞き慣れない音色。それは百瀬百合花のものだったが―――


「失礼。……もしもし? ええ、今は自室に……。―――なんですって?」


 瞬間。彼女の顔から余裕が消える。


「……。わかりました。そちらは警戒を最大にして監視を強化。現場にはこちらの人員を派遣します。ええ、ええ。……その線が濃厚、でしょうね。けれども見落としの無きよう、宜しくお願いしますわ」

 

 百瀬百合花はスマホをしまうと、まっすくにこちらへ視線を向けてくる。


「噂をすれば影、とはよく言ったもの。……紅条さん。気を強く持って、深呼吸をしてから聞いて下さい。決して、取り乱したりしないように」


「すー、はー。うん、大丈夫。それで?」


 僕はわざとらしく大きく呼吸してから問いかける。


「茨薔薇の園、一階のレベル2フロアで―――」


 百瀬百合花の顔が引き締まり、そして、告げる。


「―――蜜峰漓江の死体が、発見されました」

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