第8話 欲望の果て

 意識が次第にはっきりと鮮明になっていく。

 身体を駆け巡る媚薬の効力で僕の身体は依然として火照ってしまっているけれど、それでもなんとか無理やり動かすことはできていた。


「蜜峰さん、どうして君が……!」


 僕と摩咲は二人で挟むように彼女を取り囲む。

 逃げ場はない。

 摩咲の言う事が正しいのなら、彼女を絶対に逃がすわけにはいかない。


「どうして、ですか? そんなの簡単なことですよ」


 しかし、そんな状況であっても彼女の笑みは消えることはなかった。


、紅条さん。そう、それは貴女だって同じです。むしろ、そうなりたいと願っているのは貴女なのではありませんか?」


 蜜峰漓江はそれが当たり前だと言うように、決して自らの過ちを理解してはいなかった。


 けれど同時に僕自身にも疑問が浮かぶ。

 果たして僕は本当に媚薬のせいだけでここまで堕ちてしまったのか、と。


「ふふ。紅条さん、無理をされなくても良いのに。どれだけ強がっていても、恥ずかしがっていても、貴女の顔は未だに欲しがっているようですよ?」


 彼女の言葉が、その声が。

 僕の、知りたくもない、気付きたくもないところに突き刺さる。


 普通の女の子ならまだしも、こんな僕だからこそ最大限に効力を発揮しているのかもしれない。

 こうして少しは平静を取り戻した今でも、また彼女に触れられればどうなってしまうか解らない。正直に言って抵抗できる自信はまったくない。


「なんの話をしてんのかは知らねぇが、もう終わりだぜ蜜峰。オマエみたいな細腕がオレ達から逃げられるなんて思ってねぇよな?」


 摩咲は勝ちを確信するように部屋の入口を塞いで立っていた。


 だが、なにか違和感がある。

 ここまで追いつめられておきながら、どうして蜜峰さんは未だに余裕の態度を見せていられるのか―――


「駄目だ、今すぐこの部屋から出ろ摩咲!!」


「はあ? オマエなに言って―――」


 僕が気付いた時には、すでに。

 は彼女の手に握られていた。


「はしたない人、これがなにかわかりますか?」


 そうだ、ここは彼女のテリトリー。

 部屋中に置いてあるのは彼女の研究成果たち。

 つまり、ここは


「あまりに刺激が強すぎるので使う機会がなかなかありませんでしたが、こうなれば仕方がありませんわよね?」


 その手にはスプレー缶のようなものが握られていて、


「なんだそれ、そんなもんでオレが―――」


 彼女はそれを、あろうことか摩咲の顔面に直接吹きかけたのである。


「ぐ、がぁっ!?」


 スプレーの直撃を受け、摩咲は目を抑え込んでその場に蹲ってしまった。


「摩咲っ!!」


 僕がその場を動こうとすると、蜜峰さんはさらに近くの棚から瓶を手に取った。そこには薄紫色の液体が入っている。


「紅条さん、こちらはなんだと思います?」


「それは―――」


 もっと早くに気が付くべきだったのだ。

 僕達はこの部屋に入り込んだ瞬間から彼女の手のひらの上で踊り狂う玩具に成り下がっていたのだ、と。


「当然これも媚薬です。その原液、と言えば理解が及びますか? 先程のお注射の中身はこれを


 彼女はそんな危険なものをもがき苦しんでいる摩咲の頭上にちらつかせて、


「これだけ濃度の高い特製の媚薬を直接浴びせられたら、この方はいったいどんな反応を見せてくださるのでしょうね……?」


 悪気なく純粋に、ただそれが楽しみで仕方がないと言うように。

 そんな彼女の顔を見て僕はようやく確信する。

 蜜峰漓江は完全に狂っている、と。


「クソが、調子に乗ってんじゃねぇぞ……!」


 摩咲が苦しみながらも声を絞り出しながら近くにいる蜜峰さんの脚を掴んだ。

 しかし彼女はまったく動じることもなく、ただ汚らわしいものを見るように摩咲を見下ろしながら、


「どうやらこのお方は、これを味わいたくて仕方がないようですね」


「やめろ!!!」


 僕は耐えきれなくなってその場から駆け出そうとした。たった数歩で辿り着く距離だ。彼女があれを使う前に、なんとしても止めなければ。


(いや、待て、あれは―――)


 その時、僕はに気付く。

 部屋の入口。

 そこに、人影がある。


「ふふ……楽しみですわ。これだけはしたない人ですもの、きっと蕩けた姿はさぞいやらし―――」


 蜜峰さんが持つ瓶が摩咲に届くよりも先に、それは彼女の手を掴んでいた。


「えっ……?」


 驚愕の声も束の間。

 蜜峰漓江の首筋に走る一閃、手刀の一撃。

 それだけで彼女はあっけなく、そのまま意識を失ってしまった。


「まったく、無茶しすぎだろこのバカ」


 そこに立っていたのは僕も会ったことのある人物。どこかやる気のなさそうな顔をしていて、背が高くボサボサとした黒髪の女性―――だった。


 さらに、見間違いでなければ。

 その後ろに隠れるようにして、二人の少女の姿がある。


「ほむりゃんっ!!」


 それは行方不明だったはずの親友、渋谷香菜であった。


「香菜、どうしてここに!?」


「ウチのバカが気付いたんだよ、蜜峰がこいつらを監禁していた場所をな。それでアタシが助けに行ったのさ」


 寮監の女性が摩咲を見下ろしながら言う。

 それに応えるように、摩咲は掠れた声で、


。今は使われてないあそこなら監禁にピッタリってワケだ。まさかこんな早く戻ってくるとは思ってなかったけどな……」


「ま、それについては後で説明してやる。お前は少し休んでろ」


 寮監がそれだけ言うと、摩咲は安心したかのようにぐったりと壁に身体を預けた。

 どうやらスプレーの直撃で相当堪えているようではあるものの、そこまで大したことはなさそうだった。


「蜜峰さん……!」


 さらにもう一人の少女が現れる。それは香菜と同じく行方不明だった船橋さんだ。

 彼女は倒れている蜜峰さんのもとへ駆け寄ってそれを抱き寄せる。


「大丈夫だ、気を失っているだけだよ」


「どうして……どうして、こんな……」


 船橋さんは涙を流しながらその場にへたり込む。

 そんな彼女の様子を寮監が見守っていた。


「ほむりゃん、無事でよかった……」


 僕の傍に香菜が駆け寄ってくる。

 その表情には安堵と悲哀が入り混じっているように見えた。


「香菜こそ。本当に、よかった」


 しかし僕は香菜の顔をまともに見れないでいた。

 彼女を助けると決意したのに、結局なにも出来ないまま最後には助けられてしまう形になったこと。

 媚薬のせいだったとしても、蜜峰さんに欲情して本来の目的を見失い、溺れそうになっていたこと。

 そんな自分を許せない気持ちでいっぱいだった。


「ほむりゃん、なんだか顔が赤いけど……」


 香菜はそんな僕の気も知らず純粋に心配そうな目でこちらを見つめてくる。

 僕は最低だ。こんな状況でありながら、そんな彼女の顔を見て、どこまでも愛しくて仕方がなくなっているのだから。


「ごめん香菜、僕は……その……」


 なにを言えばいいのかわからない。

 すべては無事に解決したはすだ。蜜峰さんがこれからどういう処分を受けるのかはわからないけれど、それでもみんな無事に助かった。


 なにも憂うことはない。

 それなのに、僕の心はざわついて止まらなかった。


「もしかして、ほむりゃん……蜜峰さんの……?」


 香菜がどこか気まずそうにしている。

 そうだ、香菜も蜜峰さんの媚薬にやられているかもしれない。というかほぼ確実にやられてる。

 ということは、まさか―――


「香菜、もしかしてヤられた!!??」


「は、え!? いやそれはその、なんと言うか」


 僕はそんな事実に気付いて顔が沸騰するかのように熱くなる。

 勢いで問い詰めるように香菜の肩を両手で掴むと、ふわりと良い匂いがした。

 これは媚薬でもなんでもない、香菜の匂いだ。


「ほむりゃん……?」


 香菜の身体に触れた途端、僕はもうそのことしか考えられなくなって、


「え、ちょ……んむっ―――」


 気が付けば、僕は香菜の唇を奪っていた。


「オイオイ、いちゃつくなら人目のないところで……って聞こえてないか」


 寮監の呆れたような声が聴こえてきた気がしたが、構わない。

 正直に言って我慢の限界だった。僕が今までどれだけ気を張り詰めていたのかがよくわかる。そのタガが外れてしまったのだ、これくらい許して欲しい。


「ん……ちゅ、ぷは……っ」


 僕と香菜の息が、唇が、舌が、唾液が混ざり合う。

 抵抗されるかとも思ったが、意外とすんなり受け入れてくれた。むしろ僕の行為に対して行為で返してくる。

 そうして僅かなひとときを終えて、二人の顔がゆっくりと離れる。香菜のこちらを見る瞳が潤んでいるようだった。


「ちょ、ちょっと待って。これ以上は、恥ずかしい……」


 香菜が顔を背け、羞恥に塗れた表情で呟く。

 やばい。これはやばい。破壊力の塊だ。こんなの、今の僕に我慢できるわけがない。


「おい、そこまでにしときな紅条。どうしても我慢できないってんならお前らの部屋でやるんだな」


 傍までやってきた寮監の言葉で、僕は正気を取り戻す。


「え……、あ。ご、ごめん、香菜……」


 ああもう、最低だ。まさかこんな勢いに任せて大切な女の子を穢してしまうような真似をするなんて。

 香菜はとても顔を合わせられないようで、言葉もなく黙り込んでしまった。


「さあ、これでこの件はおしまいだ。後はアタシが引き受けるから、お前達は自分の部屋に戻って少し落ち着け」


 こうして、行方不明事件の幕は閉じられた。

 僕にとってはどうしようもなく締まりの悪い終わり方ではあったが、香菜が無事に助かったことは素直に喜ぶべきことだろう。


 それにしても、不明点はまだ色々と存在している。

 落ち着いたらすべて明らかにしよう。

 そうでもしないと僕の心のざわつきは収まらない。


 そう、この事件はこれでおしまい。

 そのはずだったのに。


 これが単なる始まりに過ぎないのだと、この時の僕にはまだ知るよしもなかった。

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