第6話 誘惑
香菜の行方を掴む手掛かりを見つけるため、僕と摩咲は共に行動していた。
香菜の部屋へ入る手段がある、摩咲はそう言ったのだが―――
「ねえ、摩咲。もしかしてとは思うけど君、香菜の部屋の鍵をピッキングするとか言うつもりじゃないだろうね……?」
裏庭で隠れていたときにぽろりと口にした彼女の言葉から僕はそう推測した。
ちなみにこの寮の鍵は安易に開けられるワケがない。お金持ちのお嬢様が通う学生寮なのだ。もちろん敷地内に入るだけでもかなりの困難を極めるが、寮自体のセキュリティもそれなりのものだ。
さらに言えば渋谷香菜はレベル5、最高級クラスの家柄を持つトップのお嬢様である。いやほんと、まったくそんな風には見えないのだけれど。
「いや、流石のオレでもそれは無理だろ」
しかし摩咲は当たり前だと言うようにそれを否定する。つまりなにか他に方法があるということだ。
「それならいったい、どうやって?」
「簡単だろ。そもそもここは学生寮だぜ? それを管理してんのは寮監だろうが。ここまで言えばオマエだってわかるだろ?」
なるほど。
どうやらその部分から説明をしなければならないらしい。
今日は土曜日、休日には寮監はこの寮にはいないという情報を僕は既に持っている。
「残念だけどそれは的外れだよ摩咲、今日は何曜日だか知ってる?」
「……は? 土曜日だろ?」
「そう、土曜日なんだ。その手段は不可能なんだよ。だからやっぱり他の方法を考えなくちゃいけない」
「オマエ、さっきから何言ってんのかわかんねぇぞ?」
本当に意味がわからないと言うように、摩咲は困惑した表情をしている。
ここで問答を続けていても時間の無駄だろうし、他の手段を見つけるためにすぐにでも行動を起こさなければならない。
そう思っていた矢先、ポケットの中からスマートフォンが着信音と共に振動する。
「おっと、ちょっと失礼」
僕は摩咲に一言断ってスマホを取り出す。
そこに表示されていたのは『蜜峰漓江』の名前。連絡先を交換していたのだが、もしかしたら何か進捗があったのかもしれない。
「もしもし。紅条です」
『蜜峰です。今はお電話しても大丈夫でしょうか……?』
遠慮がちな言葉。この声は間違いなく蜜峰さんのものだ。
「大丈夫。どうしたの?」
『一度、私の部屋へ戻ってきては頂けませんか? 情報の整理と、これからの方針について協議をと……』
彼女もどうやら一段落ついたのか、あるいは行き詰まってしまったのか。どちらにせよこちらの情報が欲しい、ということだろう。
それなら好都合だ。僕も大した成果は得られなかった。あるとすれば学院にいた謎の黒服集団くらいのものだが、もしかすると蜜峰さんが何か知っているかもしれない。
「わかった、今ちょうど寮に戻ってきたところなんだ。すぐに向かうよ」
『そうなのですね。それでは準備をしてお待ちしておりますわ』
「うん。じゃあ、また」
僕はそこまで言って通話を切ると、怪訝な顔をしている摩咲の方へと再び向き合って、
「そういうわけなんで、僕は用事ができたよ」
「はあ!? いやいやなんだそれ、香菜のコトはどうすんだよ」
「香菜を探してるのは僕だけじゃない。協力者がいるんだよ。僕は今からその人のところへ行く。摩咲も今は同じ仲間だし、一緒に来るなら―――」
「ふざけんなよ、オレの話聞いてなかったのか!? 行くなら一人で行きやがれクソ野郎!!」
どうしてここまで怒っているのかわからないが、なんだかご機嫌斜めのようだった。
「ああ、うん。まあ嫌だって言うなら無理にとは言わないけど。あ、そうだ」
僕は手元のスマホを操作しながら、それを摩咲に差し出して、
「連絡先だけでも交換しておこう。また何か解ったらすぐに連絡取れるように」
「テメエ、マジか……」
摩咲は呆れたような表情をしつつも、僕の言う通りに自分のスマホを取り出して準備を始めた。
なんだこのヤンキー、もしかしていわゆるツンデレってやつなのか……?
「ほらよ、オレの連絡先のコードだ」
「よしオッケー、そっちはそっちで任せたよ」
「あー、クソ。まさかコイツとこんな……」
「? 何か言った?」
「なんでもねえよ! ようはオレに任せるってコトでいいんだな?」
どこか居心地の悪そうにしながら、摩咲は少し顔を赤らめながらそう言った。
(ツンデレ。なるほど、これはこれで……)
そんなこんなで、僕と摩咲は別行動をすることになるのだった。
◆◆◆
そうして僕は再び蜜峰さんの部屋へと訪れた。
インターホンを鳴らすとすぐに扉が開かれて、そこには蜜峰漓江の姿があった。相変わらず良い匂いを漂わせている。
「お待ちしていました、紅条さん。どうぞお入りになって下さいませ」
「うん。お邪魔します」
それにしても、まさかこの短時間で他人の部屋に二度も上がり込むことになるなんて。この一年間、香菜の部屋にすら入ったこともないというのに。
友達というか、それなりに喋ったりする相手はそこそこいるけれど、ここまで親しくなる相手はいなかった。
どうしてだろう。
蜜峰さんに対して、これほどまでに惹かれてしまうのは。
同じ目的を持った仲間だから、というのはもちろんある。そうでなければ気軽に連絡先なんて交換しないのだ。けれど、それとは別の、何か……僕の内側から湧き上がるこの感情は……。
「お疲れ様ですわ、紅条さん。実はゆっくりお休み頂きたいと思い、少し趣向を凝らせて頂きましたの」
そう彼女が指し示す先にはテーブルがあり、その上にポットのようなものが置かれている。栗のような形をしたそれの先端には小さな穴が空いていて、そこから桃色の煙がゆったりと吹き出ていた。
「これは……?」
「私が研究しているお香ですわ。匂いだけではなく、精神、身体ともに疲労をやわらげてくれる効果があります」
「へえ、すごいね。そういえば、蜜峰さんは科学研の……あ、わかった。その香水も?」
そういえは昨日、船橋さんと香菜の会話の中で聞いた気がする。船橋さんが付けていた香水は、蜜峰さんが製作したものだ、と。
「流石です、紅条さん。これはこのお香の副産物……と言いますか。本来、私が作っていたものはこっちのお香の方なんですよ」
「なるほど……」
僕は素直に関心しながら、そのお香とやらの匂いを嗅いでみる。なんだか身体の内側からふわふわする感じ。こういう物には詳しくないけれど、とても効果がありそうな品物に思えた。
「さて。それじゃあさっそくだけど、情報の整理といこう」
「はい、私もそのつもりでお待ちしていました。紅条さん、学院の方はいかがでしたか?」
僕と蜜峰さんは当たり前のように二人でソファーに座って話を始める。
「うん、こっちは残念なことにあんまり収穫はなかった。ただ驚かないで欲しいんだけど、学院に不審者がいたんだ」
「ふ、不審者……ですか……?」
「うん。黒服にサングラスをした男、それも複数。明らかに異常だったよ」
「殿方、ということですの……? この敷地内は男子禁制とまで言われていますのに……!」
そう、この学院は生徒はもちろん教員や職員に至るまですべて女性で構成されている。
お嬢様が安心して暮らし、勉学に励み、青春を謳歌する。その為の茨薔薇女学院なのである。
そういう場所である以上、男性に対してあまりにも免疫のない女の子もいるのだが、蜜峰さんもその類のような反応を示していた。
やはりあの黒服集団は異常なのだ。
それを再確認できたし、何より蜜峰さんはその存在についての情報は持っていなさそうだった。
「あの様子じゃ学院には近付けないと思う。裏庭に回って機を伺ってはいたんだけど、ヘマをして奴らに見つかりかけちゃってさ」
「裏庭、ですか」
「うん。まあなんとか逃げ切れたし、姿も見られてないはずだから安心して」
僕がそこまで言うと、蜜峰さんが以前と同じように僕の手を握ってきた。
「まあ……とても怖かったでしょう? ごめんなさい、そんなことになってしまっていたなんて、思いもよらなくて」
些か握る手に熱がこもっている。
あの時は冷たかったけど、今は違う。
そうしてこちらを見つめる瞳も、また―――
「み、蜜峰さん……?」
「もう大丈夫ですわ、紅条さん。ここには怖いものは何もありません。見てわかる通り、私と貴女の二人きりです」
「あ、あの、えっと……」
自分の顔が熱くなるのがわかる。
いつの間にか二人の距離はどんどん縮まっていて、もはや目と鼻の先に彼女の顔がある。
「紅条さん、なんだか落ち着いていらっしゃいます……? あの時はもっと、
そっと、彼女のもう片方の手が僕の胸元に添えられる。貧相な胸だが少しは膨らみがあるので、他人に触られることに慣れていない所為か、その感触に動揺を隠せない。
「えっと、蜜峰さん。ちょっと―――」
とても綺麗な手だった。
握られてる手の感触。触れられている胸の感触。くっついた脚の感触。伝わる熱。彼女の整った顔立ち。息遣い。匂い。
「もしかして、あの後……ご自分で、されたのですか……?」
さえずるように息を混ぜながら小さく、一言。
そんな彼女の声に、僕の思考は完全にやられてしまう。
「み、つみね……さ……」
思考が纏まらない。
僕は今、何をしているんだ……?
いや、こんな美少女お嬢様を前にして、これだけの
「私、初めて見た時から感じていたのです」
二人の身体はもはやぴったりと触れ合って、その息は交わり、今にも一線を超えてしまいそうなほどの熱量がそこにあって。
「
彼女の唇が近付いてくる。
あと僅か数センチ。
僕はもう成されるがままになっていて―――
その瞬間。
スマートフォンの着信音が、静かな部屋の中に鳴り響いた。
「わわっ! ご、ごめん、僕のみたい」
「い、いえ。その、ごめんなさい。私ったら、つい……お恥ずかしいですわ」
二人は驚いて距離を取る。
残念な気持ちと助かったという安堵、その二つが入り混じって微妙な気持ちになっていた。
いや、僕はさっきなにをしていたんだ?
まさか、この短期間で……?
とにかく、流れに身を任せてしまうのは良くないことだ。ここは素直に電話を掛けてきた人間に感謝しよう。
「ごめん、蜜峰さん。電話取ってもいい?」
「ええ、もちろんです。それなら私は少し外しますね」
蜜峰さんは気を遣ってくれたのか、リビングからお手洗いの方へと向かっていった。
そこまでしなくても良いのに、とも思ったが正直助かる。少し距離を取って気持ちを落ち着かせたかったし。
僕はそうして鳴り続けているスマホの画面を見ると、そこには―――
(まあ、予想通りなんだけど。空気が読めるのか読めないのか……)
―――濠野摩咲、と表示されていた。
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