第3話 少女ではあるけれど

 ようやく堅苦しい学業の時間から解放され、僕は一人で帰路についていた。


 いつもは香菜と一緒に帰っているのだが、今日は用事があると連絡があった。

 それはそれで丁度いい、僕にも急いで帰る理由がある。


 寮の部屋の前で深呼吸する。

 鍵は掛かっているし、誰かが出入りした痕跡は特になさそうだ。

 安心しながら僕は鍵を開けて部屋の中へ入る。慎重に、周囲に人がいないことを確認しながら。


「ただいま、っと」


 小声で呟きながら奥にある寝室へと向かう。そこで僕は違和感を覚えた。


 寝室の扉が開いている。

 確かに部屋を出る時には閉めたはずなのに。


「まさか」


 心臓がどくり、と鼓動する。

 冷や汗が額に流れ、背筋が凍った。


 寝室へと駆け寄って中を確認すると、そこには誰もいなかった。


「え……?」


 昨日助けたはずの少女。

 そして今朝まで確実にベッドの上で眠っていたはずの、あの子の姿がない。


 迂闊だった。

 少しでも目を離すべきではなかった。

 学業も大切だが、いま一番大事なのはあの少女だったはずなのに。


 僕は、


「うっ……く……!」


 ズキリ、と脳裏を走る痛みに襲われる。

 昨日の時といい、最近になって頻度が高くなっているようだった。

 だが、しかし―――今は、そんなものにかまけている余裕はない。


 探さなければ。

 僕が助けると決めたのだから、その責任は最後まで全うしなければならない。


 振り返って玄関へ。

 申し訳程度に設置されている靴箱の中身を確認する。


「靴は……減ってない。あの子、まさか素足で……?」


 倒れていた少女を拾い上げた時、彼女は靴を履いていなかった。

 足の裏に無数の傷があったので消毒をして包帯を巻くまでの処置はしたものの、そのまま外へ出るなんて愚かにもほどがある。


 嫌なイメージを振り払うように僕は部屋から出ようとした、その時だった。


「ひゃぁっ」


 背後にある洗面所の扉の向こうから、甲高い悲鳴のような声が聴こえた。


 僕は咄嗟にその扉を開いて、その先にあるシャワー室の扉も勢いのままに開け放って。


「………、え?」


 そこには。

 あられもない姿で倒れている、真っ裸の少女の姿があった。


  ◆◆◆


 さて、結論だけ言ってしまおう。


 件の少女は、外へ出ていたわけではなく、ただ単にシャワーを浴びていた。

 部屋はかなりの防音加工が施されているのでシャワー音が漏れず、気付くことができなかった。悲鳴レベルの音量となると話は別なのだけれど。


 そして、現在。


 どうやらシャワーを浴びている途中に滑って転んでしまったらしい少女が、顔を真っ赤にしながら僕の寝間着をまとって縮こまっている。


 恥ずかしくて言葉すら出てこないのだろう。かく言う僕も彼女の肢体をまじまじと眺めてしまった都合上、何を言えばいいのかわからない。


「ああ……えーっと」


 気まずい、とても気まずい。

 卵のような白く美しい肌と、僕や香菜にはない女性らしさのある身体つき。具体的に言うと特に胸部の辺り。彼女の細身には似つかないほどのものである。

 

 いやまあ、昨日の夜に彼女の汚れたワンピースを洗うために脱がしているからその時にも見てはいるのだけれど、下着までは脱がさなかったし―――そもそも、出来る限り見ないように気を付けてはいたので、これはあくまで不可抗力ということで許していただきたい。


「……あの」


「うわっひゃい!?」


 とても年頃の女の子が出すべきではない声が自分の口から出た。めちゃくちゃ緊張しているのでそこは見逃して欲しい。


「え、あ……その。ごめんなさい」


 あまりに僕の醜態を見てられないからか、彼女は目を逸らしながら謝り始めてしまった。


「いやいや、僕が悪いから。その、気にしないで欲しいと言うか」


 そうして気まずい空気が再来する。

 どうしたら会話が成立するのか、とにかく今のこの空気をなんとかしなければならない。


「あの、えっと……」


 そんな僕の心情を理解してくれたのか、そうでもないのか。彼女の真意は理解できないが、それでも先に口を開いたのは彼女だった。


「失礼なことを聞くかも知れませんけど―――」


 少女はとても言い難そうにもじもじと俯きながら、それでも視線は僕へと向けて上目遣いに問いかける。


「あなたは、女の子……ですよね?」


 ああそうか、と理解する。

 昨日のことを考えれば意識の薄かった彼女がそう思ってしまうのも無理はない。

 なにせ今の僕の格好を見れば疑問に感じるのは当然だった。


「うん、僕は女だよ。れっきとした女の子、みたいだね」


 曖昧な言葉。

 そう、僕は―――紅条穂邑こうじょうほむらは身体的にも戸籍上も間違いなく女性だ。


 ではある、のだけれど。


「えっと……みたい、って……?」


 少女は明らかに理解の及ばない表情をして、


「ああいや、その。不思議な話に聞こえるかもしれないんだけど、


 あまりに躊躇いもなく、あっさりと。

 この事実を話したのは親友である香菜くらいのものだったのに―――それでも、この少女には何故かすんなりと話してしまった。


 そう、これが僕の現在いま

 少なくとも今の僕にとって、それが心からの本音であったのだ。


  ◆◆◆


 僕は夕食の準備をするということで、少女を部屋で待たせつつ台所に立っていた。

 ちなみにあれから特に話が膨らんだりはせず、少女の反応というのも、


『その……なんと言ったらいいのか……』


 余計に混乱させてしまった様子である。

 こればっかりは仕方ない。嘘は言っていないし、彼女の疑問に素直に答えた結果なのだから。


 冷蔵庫にはまだ買い溜めしていた食材が少し残っていた。この際なので全て消費してしっかりとした夕飯を用意してやろう。

 あの子もビックリするほどの、頬が落ちるくらいの、すごいやつだ。


(ああ、そういえば。名前……まだ聞いてなかったな)


 乾燥機にかけてからベランダで干していた白のワンピースを少女に返却したので、今頃は着替え終わっていることだろう。


 いつまでもお互いの名前すら知らないというのは不便なものだ。それに、彼女がどうしてあんなところで倒れていたのか。

 聞きたいことは山ほどある。落ち着いてきたことだし、次はしっかり会話をしなければ。


(よし、カレーにしよう。食材の申請をしに行くタイミングも考えなきゃだし、多めに作って何日かはこれで―――)


 方針も決めたところで、僕はさっそく準備に取り掛かった。


  ◆◆◆


「よーし、できた! ほら、食べて食べて!」


 少女は僕の作ったカレーを見て目を丸くしていた。口も半開きになっているし、よほどお腹が減っていたのかもしれない。


「えっと、その……これ、食べてもいいんですか?」


「もちろん。あ、特に変なものとかは入ってないから。安心して食べて」


「い、いえ。なんと言いますか―――」


 少女はまるで、見たこともないものを見るような瞳で、


「これは、なんという食べ物なんでしょうか?」


「知らない? ウソでしょ?」


 ……え、マジで?

 カレーですよ、あの国民的料理の。いや日本が発祥ではないとはいえ、この世界でカレーを知らない年頃の女の子とか、いる?


 それとも僕が作ったコレが、まともなカレーには見えませんとか、とても食べられるものとは思えないとか、そういう煽りの一種ですか?


「あっ、あの、その。ごめんなさい! とてもおいしそうだなって、思うんですけど……見たこと、なかったから」


「これ、カレー、です」


 思わずカタコトになってしまった。


「カレー……?」


「え!? ほんとに知らないの!?」


 ショックと言うよりは戸惑いに近い。

 まさかこの少女は、この清廉潔白そうな見た目そのままの存在だとでも言うのか。純白であり無垢。そんな人間がこの世にいるのか?


「ごめんなさい。その、驚かせてしまうかも知れないんですけど」


 少女は意を決した表情で、僕の目をまっすぐに見つめて、


「―――わたし、記憶喪失なんです」


 それは、聞き間違いなどでないのなら。


 僕にとって決して見過ごすことのできない、無関係とも言えない事実であった。

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