天使の棺 ー虚ろな罪人と無垢なる少女ー

在処

第一章 邂逅編

第1話 それは、運命の出逢い

 ひとりの無垢なる少女は、地獄のような世界から飛び出すことを決意した。


『誰か……、お願い―――』


 その切実な想いは果たして無事に叶うのか。

 これは、そんな少女が『僕』と出逢い、救われるための物語。


  ◇◇◇


 綺麗な月が浮かぶ満天の星空の下、暗闇の中にひとつの白い影が揺れ動く。


 ―――日本国内、関東地区。

 都市部から外れた区画に存在している一等地に、とある財閥が運営する『茨薔薇いばら』と名の付けられた私有区域があった。


 深夜零時を過ぎた頃。

 その区域から出てすぐの位置にあるコンビニエンスストアの周辺には人の気配がなく、そこを中継地点として茨薔薇の敷地へと続くように伸びている道路には車さえ走っていない。


 それはまるで果てしなく終わりのない冥土へと続く黄泉路よみじのようであり、そんな静寂と暗闇が支配する世界で、一人の少女が息を切らせながら青ざめた表情で走っていた。


「はぁっ、はぁっ……」


 真っ白なワンピースを身にまとい、腰まで伸びた黒髪を揺らしながら、少女は必死に駆け抜ける。

 どこか走り辛そうにしているのは、足を守るべき靴を履いていない所為せいか、それとも単純に体力が限界に近付いているのか。


 少女は背後に迫りくる『なにか』の手から逃れようと必死になっていた。

 今にも襲い掛かってくるかもしれない―――そんな恐怖から全身全霊の力を振り絞って走り続けているその姿は、猛獣に追われながらも希望に縋る衰弱しきった小動物のようだ。


 ともかく、少女が危機的状況に陥っていることは確かだった。


「っ、くっ……はぁ、はぁっ―――」


 本来は車がタイヤで走行すべきアスファルトの道路の上を、少女は裸足ひとつで走り続ける。


 少女にとって唯一の希望とも呼ぶべき場所―――コンビニエンスストアまでの距離はおよそ百メートル。

 目と鼻の先のように見えていても、息は切れかけて走ることさえも困難な少女にとって、その距離は地獄のような遠さに感じられていた。


 暗い、とにかく灯りがない。

 周囲一帯に光源はほとんどなく、深夜帯ということもあって、あっても自販機や、点滅している街灯が申し訳程度に設置されているくらいのものだった。


 それゆえに、少女にとって背後から迫り来る存在の姿ははっきりと視認できず、追われているという事実だけが襲いかかる恐怖となり、彼女の心をより一層追い込んでいく。


 あと少しで人のいる場所に辿り着く―――そんな希望だけが彼女の背中を押し、限界を迎えつつある両脚を動かす原動力となっていた。


 目指すはただ一点、光のある場所。

 少女は背後にその視線を向けることもなく、ただ遠目に見える光だけに意識を集中させながら走り続けて、


「―――っ……!?」


 それが仇となったのか、気が付けば少女の視界はぐるりと反転していた。

 続けて襲うのは全身を強打する衝撃、鈍痛。

 悲鳴をあげる間もなく少女の視界はブラックアウトする。


 落ちていた空き缶に足を引っ掛けて勢いよく転倒てしまったという事実を、この時の少女は冷静に判断できずにいたのだ。


「……ぁ、う―――」


 終わりだ、と少女は思う。

 ここまで身体の限界を超えるくらい走ってきたのに、これではもうおしまいだ。


 そもそも貧弱で動かすことすらままならない肉体を酷使し、やっとの思いでここまできたのだ。そんな状態で立ち上がれるわけもない。


 少女は夢想する。

 地獄のような場所から逃げ出してきた自分を救い出してくれる、そんな存在と出逢えることを。


  ◇◇◇◆◆◆


 ごうん、ごうん、ごうん―――


 洗濯機が音を立てて回り始める。

 普段なら雑にやってしまう洗濯だけど、今回は徹底的に。宝物を扱うよう優しく入念に。


 ふう、と息を吐いて一段落。

 僕は洗濯機に腰を預けながら、昨日の出来事を思い返す。


 真夜中のコンビニ。

 なんとなく小腹が空いたので夜食を調達しに行った、それだけのつもりだったのだが―――


(まさか、こんなことになっちゃうなんてなあ)


 僕は深呼吸を繰り返す。

 別に緊張しているわけでも興奮しているわけでもないのだけれど。


(平常心、平常心)


 なんて自分自身に心の中で言い聞かせながら、僕は洗濯機のある洗面所を後にした。


 ここは僕が暮らしている寮の一室で、寮と言うのは、僕が通っている学校の一部生徒が利用している『茨薔薇の園いばらのその』という学生寮のことである。


 そう、学校。

 僕―――紅条穂邑こうじょうほむらは学生なのである。


 今年で十七歳、学年にして高校二年。

 成績は中の上くらい。

 友達はあんまりいない。


 容姿は仲の良い友人によると悪くないらしい。女の子に告白されたこともあるし、自分ではわからないがそこそこの見た目なんだろう。


 まあ少し貧相な体型であるとは思うが、実際インドア派だからスポーツは不得意なのである。


 さて、そんな平々凡々とも言うべきこの僕が遭遇した事件について思い返してみよう。


 あれは、そう。

 言うなれば、運命の出逢いだった。


  ◆◆◆


 深夜のコンビニ付近。

 この時間帯は辺りに人影はなく車も走らないため静寂に包まれている。そんなこの場所が僕はなんとなく好きだった。


 だから、というわけでもないけれど。

 ただ少し気分が乗って寮からこっそり脱走して夜食を買いにやってきた、ただそれだけのつもりだった。


 真っ直ぐ伸びる舗装された道路。

 昼間なら危なくて歩けるような道ではないがこの時間帯なら問題ない、なんて僕は悠々とそんな道を歩いていたら、道端に白い影が見えた。

 壊れかけの街灯がチカチカと照らしているそれは、遠目に見てもわかる。


 ―――人間だ。

 それも、華奢な身体付きをした少女だった。


「ちょっ……え?」


 あまりの出来事に我を忘れそうになったものの、僕はすぐさま少女のもとへと駆けつけた。


「ええと……大丈夫……?」


 声をかけても反応はない。

 少し躊躇いつつも背に腹は変えられない。心の中で少女に触れることを謝罪しながら僕はその身体を揺さぶった。

 しかし、少女が意識を戻すことはなかった。


 最悪の状況を想像する。

 まさか、いや―――そんなことは。


 近くにあるコンビニへ向かって救助を要請する?

 それともスマホで救急車を呼ぶ?

 いや、何かしらの事件に巻き込まれたのかもしれないし警察か―――


 駄目だ、唐突すぎて思考がまとまらない。

 とにかく、これは僕一人では抱えきれない問題だ。この少女のためにも、僕にできる最善手を取らなければ。


 僕がなんとか平常心を取り戻そうとしていると、ぴくりと少女の身体が動いた。


「ちょっ……だ、大丈夫!?」


 僕は思わず少女の首元に手を潜り込ませ、抱き起こすようにして長い黒髪に隠されていたその顔をこちらに向けて、


 ズキン、と。

 なにか得体の知れない頭痛のようなものが急に襲いかかる。


「……ぁ……」


 小さくか細い声が聴こえる。

 少女の口元が微かに動く。

 僕は頭の痛みを無理やり抑え込んで、彼女の声に神経を集中させる。


「た……すけ……て……」


 助けて、と。

 彼女は確かにそう呟いた。


「わ、わかってる。大丈夫。僕が今から救急車を呼んで―――」


 がしり、と腕を掴まれる。

 もうそんな気力も残っていないだろうに、それでも力を振り絞って、懇願するように。


「それは……ダメなんです。出来れば……隠れられる場所……。誰にも……見つからない、ところに……」


 ホテルみたいな個室を望んでいるのだろうか。

 なんにせよ僕は彼女の要望に全力で応えてあげなければならない。なぜかはわからないけれど、そんな気がしたのだ。


「わかった。でも、ここら辺にそんな場所は……あ、いや……」


 あると言えば、ある。

 それもお金もかからない、絶好の場所が。


 だけど、それって法律的に大丈夫?

 誘拐とかになっちゃわない?

 なんて僕が悩んでいると、


「おね……がい……します。た、すけ―――」


 少女の力が抜ける。

 それはまるで眠り姫のようで、少女の整った顔つきが余計に美しく見えて。

 僕は、そんな少女を抱きかかえて、立ち上がる。


「うぐ……。やっぱり、どれだけ華奢でも重いものは重い……」


 それでも、と脚に力を入れる。

 ここから寮までさほど距離はない。

 まあ、間違いなく明日は筋肉痛だろうけど、それくらいで済むのなら無問題だ。


 僕は決意した。

 やっぱり理由はわからないけれど。

 理屈ではなく常識は捨てて、感情だけに身を任せた愚かな行為なのだとしても。

 

 僕はこの少女を助けたい。

 助けなければならないのだと、心の底からそう感じたのだから。

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