だれもカノジョのカオをしらない

やまなしレイ

菱川 渚 編

1.「よくある朝の風景」

 5月13日 水ようび


「おにいちゃーん、そろそろ起きないと間に合わないよー。」


 かすかに聞こえたトントンというノックの音と、妹の声で飛び起きる。

 普段から物静かな妹だから、ドア越しのノックと声も小さなものだったろう。なのに、それに気付いてすぐに目覚めることができたのは、いついかなる時でも愛する妹の声だけは聴きもらすまいと鍛錬を磨いてきたからだ―――とか言っている場合ではない。


 急いで起き上がりベッドを見ると、そこはもぬけの殻だった。


「あ、起きたんだ……おにいちゃん、床で寝ているの?」

 ドアを開けて兄の部屋を見た妹からすると、起こそうと思った兄がベッドではなく床に転がっていることにツッコまずにはいられなかったようだ。

「あぁ、前に腰を痛めたサッカー選手がベッドより床で寝た方が調子イイって言っているのを読んだことあってな。一度試してみたかったんだ。」

 試してみたかったのはウソではない。試さなくちゃいけなくなった事情を言っていないだけで。


「おにいちゃん、腰が痛いの……? 私で良ければ、マッサージするよ?」

 そのまま部屋に入ってこようとする妹。

 しまった、オレの妹は天使だったので半端なウソは傷口を広げるだけだった。

「いやいやいや! 大丈夫。試してみたかっただけで、オレ自身は特に痛めていないから!」


 秋由あきよし 汐乃しおの―――

 小柄な体の背中まで伸ばしたサラサラの黒髪と、透き通るような白い肌のコントラストが美しい。丸っこい頬と、ちょっとタレ目気味な大きな黒目、まだ低い鼻と小さな口……といったカンジに、ついこないだ中学生になったばかりの妹なのでまだまだ幼さが残っているのだが、「将来美人になるだろう」なんて推測ではなく「現在進行形の完全無欠の美少女」と言わざるを得ない。要約すると、すげえかわいい。そして、内面も天使。


「そうだ。おにいちゃん、昨日も夜に抜け出してたでしょ? お母さんにバレたら大変なことになると思うよ。」

「んー、夜の11時までには帰るようにしてるんだけどな。」

「じゅーぶん遅いよ……だから、疲れて寝坊しちゃったんじゃない?」

 菱川のマンションからウチまでは走って30分もかからないはずだが、結構オレの体もなまっているのかも知れない。まぁ、行きも30分かけて走ったし、菱川が帰ってくるまでの1時間半マンションの周りを走っていたんだけどさ。


「また、なにかの事件……?」

 言いにくそうに汐乃が訊いてくる。変な心配はかけたくないが、ウソはつきたくない。

「あぁ、ちょっと頼まれたことがあってな。大丈夫、今度のはそんなに危ないものじゃないから。心配は要らないぞ。」

 多分、と妹に聴こえない程度の音量で最後に言っておいた。

「そっか。大丈夫、もし仮におにいちゃんが大けがしちゃっても、一生かけて私が介護してあげるからね。」

 ニコっと笑った妹の顔は純度100%の天使なのだが、その覚悟は朝から重すぎる。


 ◇


 かわいいかわいい妹がドアを閉めて出ていった後、しばらく経ったのを待ち、やっと声をかける。


かもめ、どこにいるんだ?」


 キョロキョロと部屋を見回すと、ついさっき妹が立っていたドアのすぐ横から声が聞こえた。


「ここ、ここ。クローゼットの前。」

「すごいな。汐乃のすぐ横にいたのかよ、よく気付かれなかったな。」

 んーっと、少し考えてからかもめは答える。

「妹ちゃんの一人称視点をイメージしてもらえれば分かるんだけど、準稀じゅんきはベッドで寝ていると思うじゃん? だから、ベッドを真っ先に見る。んで、そのすぐ下の床で寝ていることに気付く。そこにロックオン。そうなると、もう部屋の他のところなんて目につかなくて、わざわざカメラをグルグル回して確認したりしないよね。」

 そんなものか。

 案外そんなもので、人の盲点は突けるものなのか。


 一条いちじょう かもめ―――

 この女こそ、オレが床で寝るハメになった原因だ。

 高校生に与えてもらった個室としては一般的だと思うのだが、オレの部屋にはベッドが一つしかない。先週からとある事情でこの家出娘を部屋に置いておくことになったのだけど、同じベッドで寝るワケにもいかないのでオレが床で寝ることにしているのだ。


「なぁ、やっぱりオレの家族にくらいはオマエのことを話した方がイイんじゃないか?」

 ウソをつくのは好きじゃない。いつまでも内緒にしておけるとも思えない。

 家族ならかもめの事情を察して、家に置いておくことにも理解をしてくれると思う。協力もしてくれるだろうから、今よりももっと楽な生活ができるようになる。具体的には、寝るときのマットが欲しい。


「いやいや~、やめた方がイイと思うよ。既に1週間以上、この部屋に上がりこんじゃっているワケじゃん? お兄ちゃん大好き大好き死ぬほど大好きな妹ちゃんからすると、お兄ちゃんが1週間以上も女を連れこんでたなんて知ったらトラウマ級のメンタルダメージになるよ?」

「やましいことは何もしてないだろ。」

「少なくとも、お兄ちゃんのことは嫌いになるかな。」

「内緒にしておこう。」


 即答した。

 妹に嫌われるくらいなら、多少寝づらいことには目をつむろう。


 ◇


 かもめを部屋に残し、さっさと着替え、身支度を済ませ、食卓に着いたころには既に父も母も妹も朝食を食べ終えていた。

 寝起きであまり食欲がないが、「朝食を多めに作ってくれ」と頼んでいるので全部食べなくては。オカズを全部ワカメの味噌汁みそしるで体内に流し込んでいると、セーラー服に着替えて髪を二つに結んだ汐乃が隣の席にチョコンと膝立ひざだちになってスマホを構えていた。


 カシャリ


 おなじみのシャッター音の後にニンマリする妹。なんてことはない、兄が朝ごはんを食べている姿を写真に撮っただけだ。よくある兄妹の風景だろう。


 完食し終わった後、今度はこっちがスマホを構える。恥ずかしそうに目を逸らしたところをカシャリ。

 なんてことはない。毎朝欠かさず妹の姿を写真に撮って大切に保存しておく、よくある兄妹の風景だ。今日の汐乃も世界一かわいい。



 その後、急いで歯を磨いて学校に向かう。今日は寝坊したからあまり時間がない。その間に汐乃も先に家を出ていたみたいだ。

 家族に見つからないように、玄関でかもめと合流して外に出る。エレベーターに乗り込むとちょうどオレら二人以外に誰もいない状況だったので、かもめがようやく口を開いた。


「どんな兄妹だよっ!!!」


「何かおかしいところがあったか?」

「普通の兄妹は毎朝欠かさずお互いの写真を撮って保存したりしねえよ! そんなワケの分からないシーンをモノローグで済ませようとすんじゃねえ!」

「毎朝じゃないぞ、朝晩1回ずつだ。」

「より重症じゃねえか! 」


 確かにオレは昔から重度のシスコンだと言われているし、一般的な兄弟姉妹よりかは仲がイイと思うが、例えばこれが親子だったら毎日娘の写真を撮るのがおかしいだなんて言われないだろう。


「落ち着け、かもめ。中学生の妹の写真を毎日撮っている現在だけを見たら確かに妙に映るかも知れないが、これは昔から続いている我が家の習慣みたいなものなんだ。」

「ほう?」

「オレのパソコンには妹が4歳の頃からの写真が50000枚くらい保存されているからな。」

「やべーヤツ感がより倍増したぞ、今の説明で。」


 ◇


 この街の朝は人が多い。

 マンションを出発したオレ達は、他の人に会話を聞かれないように無言でを進める。


 本来なら電車で4駅のところにある高校に行くのだが、そこそこの時間をかけて徒歩で向かう。一つの理由は「かもめがいる状態で満員電車には乗れないから」だが、もう一つの理由は「朝食をとっていないかもめに朝食を買ってあげるため」だ。


 立ち寄ったコンビニで朝食を選ぶかもめ

「私、フライドチキン2本でイイよ。」

「野菜も摂りなさい。チキンを1本やめてサラダにするか、野菜ジュースを飲むか。」

「小うるさい父親かよ。じゃあ、片方フライドポテトにするよ。」

「じゃがいもを野菜扱いして誤魔化すんじゃない。緑黄色野菜を食べなさい。」


 1週間以上一緒にいて分かったが、かもめは食の好みが恐ろしいほど偏っている。若いうちはそれで問題がないかも知れないが、バランスの良い食事は健康な身体の基本だ。何とかして矯正きょうせいしてやりたい。嫌いな食べ物を無理に食べさせても意味がないから、好きな野菜を見つけさせることくらいはしたい。


「仕方ないな、そこのレタスも入っているサンドウィッチにするよ。」

「学校に着いたらちゃんと歯磨きするんだぞ。」

「マジでアンタ、私の父親なの?」



 近くの公園の石垣に二人して座る。

 「二人して座る」というのは正確ではないか。正しくは、オレが一人で座ったので、恐らくかもめもその辺に座っているだろうと推測したのだ。


 コンビニ袋からフライドチキンを取り出し、「ほら、チキン」ととりあえず空中で制止しておく。間もなく「ハイよー、ありがたくいただきます」という声が聞こえて、チキンがかもめの手に渡った感触がする。

 その瞬間、確かにさっきまで見えていたフライドチキンが消失する。比喩ひゆではなく、かもめに渡したとたんにフライドチキンは俺には見えなくなったのだ。



 透明化――――


 初めてその現象を見たときは驚いたが、流石に1週間以上一緒に生活しているのでもう見慣れた。これが、一条かもめの“特殊能力”なのだ。“特異能力”とか、“超能力”とか、“超常現象”とか、呼び名は何でもイイ。


 一条かもめの「所有物」になったものは例外なく、本人が望もうが望むまいが自動的に強制的に矯正的に、すべて透明になって彼女以外には見えなくなってしまうのだ。


「いただきまーす♪」


 透明になったフライドチキンを、透明になったサンドウィッチを、透明になったオレンジジュースを美味しそうに平らげるかもめ。だが、その表情は俺には分からない。

 分からないという話をするならば、彼女がどんな服を着て、彼女がどんな体型をして、彼女がどんな顔をしているのかも俺には分からない。1週間以上一緒に生活していても。


 “一条かもめの「所有物」になったものは例外なく透明になる”というルールは、



 要約すると、彼女は透明人間になってしまった家出娘なのだ――――

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