第37話 文芸サロン
「すまない、レティシア。君が車酔いをするとは思わなかった」
「……いえ、大丈夫です。私も今、初めて知りました」
これからは乗り物に乗る時は事前に確認しよう。
それと、どうしても乗らなきゃいけない場合は遺書をしたためよう。
そう固く心に誓って、私はセシルに支えられながら目的の店に入った。
恐怖で膝が笑ってまともに歩けないからだ。
この時ほど、トイレに行ってて良かったと思った時はない。
とりあえず、帰りはセシルが何を言おうと徒歩で帰ると心に固く誓いながら受付を済ませる。
「あの、お連れ様の顔色が大変優れないようですが……」
「精神的なものなのでお構いなく、じきに血色はマシになります……」
「さ、さようですか……」
心配してくれた職員をドン引きさせながらも会場に入る。
白の布クロスが引かれた長テーブルに二人の男女が座っていた。
椅子の前にはネームプレートが置かれている。
どうやら座る席が決まっているらしい。
「こっちだ、レティシア」
セシルが私の名前を呼んだ瞬間、席に座っていた男女が風切り音と共に振り返って私を見る。
じろじろと眺めまわした後、今度は無言で私の顔を凝視し始めた。
その視線に割り込むようにセシルが私の前に立つ。
「俺の客人が何か?」
凄むような声に、私はトラブルが起きる予感がしていた。
喧嘩が起きたとして、素早く安全に逃げるためのルートをそっと確認しておく。
ここ最近で身についてしまった悲しい習慣だ。
威圧的なセシルの言葉に、椅子に腰掛けていた一人の妙齢の女性がふらふらと立ち上がる。
「今、そちらのお嬢様のお名前をなんと仰いました?」
まるで幽霊でも見たような顔で私を凝視している。
ここはコミュニケーションに問題があるセシルに任せるよりも、私が喋った方がいいだろう。
セシルが退いてくれないので、ぴょんぴょん飛びながら自己紹介する。
「レティシアと申しますっ!」
「まあ、レティシア! あの『塔の王女と無名の騎士』をご執筆なされたという!?」
「はいっ!」
飛び跳ねるのも疲れたので、横から顔を覗かせる。
女性はわなわなと震える唇で「ありえない」「まさか」とひとしきり呟いた後、目をカッと見開く。
「お慕い申しておりましたわ! レティシア様、是非とも私に物語の紡ぎ方をご教授してくださいまし! いえ、教えていただくまでは逃がしませんとも!!」
その女性はセシルを押し除けて私の手を両手で握る。
ふわりとフローラルな香水の香りが鼻腔をくすぐった。
「お、教える!? 私が、ですか?」
「ええ! きっと歴史に名を残せますわ!」
きらきらとしたアーモンド色の瞳で私の目を見る女性は、はっと我に帰って優雅にカーテシーをした。
「申し遅れました、私はブレンダ・ステイシー。あちらに座っていらっしゃる方々は貴女に憧れて本を出版した人たちですわ。かくいう私も、まだ一冊の若輩者ですが……」
恥じらった様子で、口元を隠して微笑んだブレンダはまたもセシルを押し除けて私の手を引いて椅子に座らせる。
椅子の前にあったプレートをぽいっと放り投げて、私の隣に座る。
反対の席にはすっかりむくれたセシルが座る。
「女とは思えん。なんだ、あの怪力は……?」
力で押し負けたことが悔しいようで、腕を組んで眉をしかめていた。
「まあ、私ったら今日の主役にお茶も出さずにいたなんて! 紅茶の銘柄にこだわりはありまして? 五種類ほどご用意させていただきましたから、きっとお好みの紅茶をお出しできますわ」
「えっと、お構いなく……折角なので、ダージリンをお願いします」
「かしこまりましたわ。それにしてもレティシア様は本当にお人形のように美しいのねぇ……!」
そしてブレンダは華奢な細い手でティーポッドに茶葉を入れ、蓋をして砂時計をひっくり返す。
「ブレンダさんはたしか『シャラ』という恋愛小説を書かれていましたね。とても素敵で切ない物語でした」
「まあ、レティシア様のお耳に入っていただけていたなんて感激ですわ!」
『シャラ』という小説は、一年を通じて沙羅双樹の移ろいと男女の機微を綺麗な文章で描写した恋愛小説だ。
女は不治の病にかかっているが、男の幸せを祈り、病でままならない身体を動かして
全体を通して、淡い昼過ぎの光のような優しさに満ちた雰囲気を持つ小説だった。
前書きで私の作品にインスパイアされて書いたと丁寧な文章で感謝していた人なのでよく覚えている。
紅茶を飲む老人と目があったので、挨拶でもしておこうと思い、話しかけてみる。
「そちらの男性は『熱砂の国』を書かれたフィッツ・カーター様でしょうか?」
『熱砂の国』は伝記小説だ。
各地を放浪する行商人から見た世の不条理から社会のあるべき正義を問いかけるような内容の小説だ。
その生々しい心理描写は読むだけで気力を根こそぎ消費するような情熱があった。
前書きで私の作品のような人の心を動かすようなものを書きたいから書いてみたとこれまた丁寧な文で書いていた。
作家冥利に尽きる嬉しい言葉だったので、こちらもまたよく覚えている。
老人は目を丸くして、私の顔をじっと見る。
「あ、ああ。よく私がフィッツだとお分かりで」
「ええ、あの文章の重みはダンディな方にしか出せない風味がありましたから」
「風味とは、なかなか乙なことを仰りますな。いかにも私がフィッツ・カーターと申します」
フィッツは皺のある目元を細めてカップをソーサラーに置く。
母やブレンダ、アランとは違った上品さをもつ所作だった。
「セシルだ。セシル・サンガスター」
「『宵闇の宴』という謎解き系の小説を書いた方ですわ」
名前しか名乗らなかったセシルの自己紹介に補足を入れる。
すると、私の隣に座っていたブレンダがにっこりと微笑みを浮かべてセシルに話しかける。
「まあ、あなたがあの『宵闇の宴』の作者様? 店の出口はあちらですわ」
「侮辱しているつもりか?」
「まあまあ、そうかっかなさらないで。貴方のような方はきっと燦々と日光が照らす外がお似合いですわ」
この世界では、家に招き入れることは最低限のマナーとして扱われている。
ケースバイケースだが、出会い頭に帰宅を促す言葉、別の部屋を勧める言葉はそれだけで無礼に当たるとされている。
そのなかで建物の外へ追い立てるような言葉は最大級の皮肉。
つまり、ブレンダはセシルに皮肉を込めて『身の程知らずは立ち去れ』と言っているのだ。
またも一触即発のような空気に呆れるしかない。
「ふん、レティシアの後追いのくせに……」
「あらあら、旋風のような拙いお言葉ですわね」
険悪な雰囲気になるにしても、私を挟んで口論を始めるのはやめていただきたい。
「ああ、そう言えば。私の姪のサリーがお世話になっていると伺いました。あの子も貴女の作品を楽しんでいるようで、よく読書会に誘われますの」
「サリーのご親戚様でしたか。お楽しみいただけているようで、作者冥利に尽きます」
苛立ちながら貧乏ゆすりを始めたセシルに紅茶を注いでやると、すぐに機嫌が治ったのでとりあえず茶菓子もよそって食べさせておく。
というか、三対一という座席はよろしくない。
全員と会話がしづらいことこの上ない。
「あ、そういえば本の交換会があると伺いましたわ。私、『塔の王女と無名の騎士』を持ってきたのですけれど……新作の方がよろしかったかしら?」
「いえいえ、何冊あっても嬉しい名作ですわ! その、もしよろしければ、なのですけれど」
断りを入れてからブレンダはおずおずとガラスペンとインク壺を鞄から取り出してテーブルに置く。
「その、表紙の裏の余白にサインを頂いても構わないかしら」
「私のサイン、ですか」
「勿論、無理のない範囲で構いませんわ」
前世では作者のサイン本を貰えただけでワクワクしたものだ。
自分のサインにそこまでの価値があるとは思えず、つい困惑してしまった。
けれど、ファンの要望に無理のない範囲で答えるというのもファンサービスの一貫なのだろう。
「名前だけで良ければ構いませんよ」
「まあ、嬉しいわ!」
手を合わせて喜ぶブレンダの姿はなるほど確かにサリーと似た雰囲気を感じる。
少し恥ずかしさも感じながら私はさらさらとサインを書いた。
「それじゃあ、早速交換会を始めましょう!」
ブレンダの弾んだ声を合図に、本の交換会が始まった。
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