第216話

「本当に大丈夫なのかね……」

 小さい足を一生懸命動かしながら恭弥の三歩後ろをついてくる彼女の姿を見ながら恭弥は独りごちた。


 彼がそう思うのも無理はない。というのも、先程彼女は恭弥の姿を見るなり慌てた様子で額を地面に擦り付けてこう言ったのだ。


「狭間恭弥様とお見受け致します。わたくしめの名はハク。貴方様の式神にございます」


 話しに聞いていた危険な式神とは一体なんだったのかと思わずにはいられない。悪行罰示神が試練もなしに従うなど聞いた事がなかった。


 白い着物の袖が歩くたびに揺れる様を見ていると、ただの幼女としか思えなかった。霊力の類もあまり感じられない。しかし、彼女が悪行罰示神であるのは間違いないようなので、恭弥はハクを伴って再び優司の私室を訪れた。


「父さん、連れてきたよ」

「随分早かったね……ん?」


 書類と睨めっこをしていた優司が顔を上げ、ハクを見た途端疑問を浮かべた。


「なんだか僕の知っている姿と違うようだけど?」


「やっぱり? 危険な式神って言ってたのにそれっぽい様子がないからおかしいとは思ってたんだ」


「君はハク、で合っているんだよね?」

 優司がそう問いかけると、ハクは尊大な素振りでこう言った。


「よもや忘れたとは言わせぬぞ。暫く見ない間に頭まで老け込んだのか」


 恭弥はハクの自身に対する口調と優司に対するそれがあまりに違う事に驚いた。しかし、優司にとってはそれこそが彼女である証明だったようだ。


「その口調、ハクで間違いないみたいだね。だけど、その姿はどうしたんだい? 僕と会った時は大人の格好だったと記憶しているけど?」


「それは――」

 ハクは言葉を区切って恭弥の顔色を伺った。まるで言いづらい事を口に出すか否かの許可を取ろうとしているかの動作だった。


「俺の事は気にせず言いたい事を言ってくれ」


「感謝致します。失礼ながら、ご主人様のお力はハクを使役する段には未だ至っていないご様子。故に、ハクは力を封印しているのです。幼女の姿はその弊害でございます」


「まあ、そんなところだろうなとは思ってたよ。悪行罰示神が試練もなしに従う訳がないもんな」


「いえ、ハクはご主人様に忠誠を誓っております。しかし、力を解放してしまうとご主人様の御身体に障ってしまうのです」


 その言葉を聞いて、優司はポリポリと頭を掻きながら、「どうしたものかな……」と呟いた。彼の見立てでは、恭弥の実力はハクを完全に使役出来るものだとばかり思っていたのだ。


 ところが、本人の口から使役する段に至っていないと言われてしまったのだ。これでは予定していた伝承の話も聞かせていいものか悩むというものだった。


「ハク、状況はわかっているよね?」

「一年前だろう?」


「そうだ。予定ではもう恭弥は君を使役するだけの力をつけているはずだった。だけど、結果はこの通りだ。話すべきかどうか、君の判断も仰ぎたい」


「話さぬ事には何も始まらないだろう。ご主人様も明確な目標があった方がよいに決まっている」


 優司はハクの言葉を受けて、机の上に置かれていた煙草を手に取った。

 二度、三度と煙を吐き出して尚、優司は迷っている様子だった。


「何を迷う事がある。ご主人様は狭間恭弥様であるのだぞ」


 意味が通っていないとすら思えるハクの発言にしかし、優司は大きな反応を見せた。


「だからこそ、だよ。恭弥が狭間恭弥であるからこそ、僕は親として、狭間恭弥の運命から解放してあげたいと思っているんだ」


「何を言うかと思えば……狭間恭弥様は否定しようと思って出来るようなものではない。お主とて、それくらいの事はわかっているだろうに」


「親として、抗いたいと思う気持ちはわかってほしいな」

「わかりたくもないわ」


 二人の会話の意味こそ理解出来なかったが、恭弥は優司が親として自身の運命に抗おうとしてくれている事だけは理解出来た。だからこそ、


「父さん、気持ちは嬉しいけど、俺の運命は、俺が決めたい」


 優司はうつむきがちに煙を大きく吐き出した。どこかため息にも似たそれが終わり、再び顔を上げた時、彼は一抹の悲壮感を抱いているように見えた。


「いいよ、話そうか。少し待っていてくれ、巻物を取ってくる」


 そう言って、優司は煙草を口の端に咥えたまま部屋を出ていった。残された恭弥は未だ座る事なく彼を守るかのように自身の後ろに立っているハクに話しかけた。


「父さんが戻ってくるまで少し話しをしよう。君の事を聞かせてほしい」

「かしこまりました。何からお話ししましょうか」


 恭弥としては今の言葉は暗に席に座れと言ったつもりだったのだが、どうやら彼女には届かなかったようだ。仕方がないので、直接「ソファに座りなよ」と言うと、


「と、とんでもございません。ハクなどがご主人様と同じ席に座るなど……!」


 わちゃわちゃと手を何度も横に振って固辞するハクに苦笑しつつ、「いいから」と言って無理やり座らせる。


「ハクはなんで封印されていたんだ?」


「昔、道満様がハクに言われたのです。遠い未来、狭間恭弥はまた生まれる。その時、君の力を貸してあげてほしい、と」


 狭間恭弥の名を出すハクの様子はとても嬉しそうだった。僅かに頬を赤らめ、彼こそが自分の全てであると言わんばかりだった。


「あいつの事が好きなんだな」


「はい! それはもう! ハクにとって道満様は全てでございます。あの方がいなければ、ハクはいません。ですから、ご主人様はハクの命に代えてもお守り致します」


「気持ちは嬉しいけど、俺とあいつは別人だぞ?」


「何を言うのですか。ご主人様は道満様の生まれ変わりとお聞きしております。別人などと、悲しい事は言わないでください」


「あいつに聞いてないのか? 確かに俺とあいつは身体は同じだけど、中身は別だぞ?」


「いいえ、ご主人様は狭間恭弥様なのです。であれば、蘆屋道満様であるのと同義。別人なはずはありません」


 この時になってようやく気付いた。ハクは恭弥を通して「蘆屋道満」を見ているのだ。彼女にとって恭弥は蘆屋道満本人であり、恭弥ではないのだ。


(この間違いは正すべきか? いやでも……)


 ハクの瞳には怪しい輝きがあった。彼女にとって蘆屋道満は重要な拠り所なのだろう。それを否定してしまえば、どうなるかなど想像に容易い。だが、


(これからハクを使役していくにあたってこの間違いは正さないといけない)


 意を決して口を開こうとした時、黒いシミから天城が現れた。


「おい発情狐。勘違いもほどほどにしておけよ。こやつは狭間恭弥じゃ。蘆屋道満などではない」


「お、おい天城、何もそこまではっきり言わなくても……」


「いいや、この手の馬鹿にははっきり言わんとわからんよ。それに見ろ」


 ハクの様子を見ると、俯いてぷるぷると身体を震わせていた。ショックを受けて悲しんでいるのかと思い、声をかけようとしたら、


「鬼風情が私を否定するな!」


 ハクが吠えた。目尻はこれほどかというまでにつり上げられ、大きく開けられた口から鋭く尖った犬歯が覗いている。


 ハクは悲しみから身体を震わせていたのではなかったのだ。怒りによって身体を震わせていたのだ。


「鬼風情じゃと? 狐ごときが何を言っている。身の程を弁えよ」

「身の程を弁えるのは貴様の方だ」


「はんっ! 弱い狗ほどよく吠えるとは本当の事のようじゃな。その様子では、先の言葉も怪しいものじゃ。狭間恭弥はお前を邪魔に思ったから封印したのではないのかえ?」


「……道満様を馬鹿にしたな? 私と道満様の関係も知らぬ癖に!」


 天城の発言はハクにとって超えてはいけないラインだったようだ。ハクは天城に飛びかかった。天城もまたそうなるように誘導していたので、慌てる事なくハクを受け止める。


「あーあーバカ野郎! 家がめちゃくちゃになる!」


 たった一瞬のやり取りでソファは吹き飛び、後ろの本棚が倒れてしまった。何も知らない優司が戻ってきたらなんと言う事か……。


「ああ、机が……! 外でやれバカ野郎!」


 とはいったものの、ハクはすっかり頭に血が上ってしまっているらしく、恭弥の言葉が耳に届いている様子はない。今も真っ二つに折った机を天城に向かって振り回している。


「頼むから……外でやってくれ……」


 もはや声を張り上げる気力すら失った恭弥がそう言うと、天城は「しょうがないのお」と言ってハクの着物を掴んだかと思うと二人仲良く窓ガラスを割って外に出ていった。


 暫く放心状態で項垂れていると、

「……何があったんだい?」

 巻物を取ってきた優司が部屋に戻ってきた。


「悪行罰示神なんて嫌いだ……」

 恭弥の呟きで優司は何かを察したようだった。ポンと肩に手を置くと、


「頑張って使役するんだよ」

「勘弁してくれよおおおお!」


 恭弥の叫びは天城とハクの出す戦闘音にかき消されるのだった。

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