第196話
「天上院さんのところ、今資金繰りが悪いんでしたっけ?」
優司がそう問いかけると、光画はハンカチで額に滲み出た汗を拭いながら「お恥ずかしながら」と言った。
「娘さんを恭弥の傍使いに、となると、当然我が家と天上院家の間に繋がりが出来たと勘ぐる人達は出てくるでしょうね。天上院さんもそう思って恭弥の申し出を飲んだはずだ」
「その通りです。その……違うのですか?」
「少し、汚い話しをしましょうか」
ゴクリ、と生唾を飲み込む音が光画から聞こえた。
「天上院、僕の手足になる気はないか?」
「そ、それは……!」
「僕は早い内に恭弥に当主の座を渡すつもりでいる」
「父さん?」
「ただこの通り、恭弥はまだ腹の探り合いは得意じゃない。公私共に恭弥をサポートする役が欲しいと思っていたんだ。娘と共にやってくれないか?」
「我が家に分家になれと、そういうおつもりですか?」
「血縁関係を結ぶかどうかは恭弥次第だからわからないけど、形としてはそうなるね。もしこの話を飲むというのであればいくらでも資金は援助してあげるよ。その代わり――」
裏切りは許さないよ。
優司は冷徹な目をしてそう言った。
光画は忙しなくハンカチで額を拭っている。緊張から喉が乾いたのだろう、震える手で何度も失敗しながら湯呑を持ち上げてようやく喉を潤すとこう言った。
「い、今すぐの返事というのは難しく……」
「わかってる。だが返事は早い方が嬉しい。僕としてもあまり家に他家を入れたくはないからね。出来る事なら一元化したいと思ってるんだ」
「我が家を選んでいただけて光栄で――」
「ああ、勘違いしないでほしいんだけど、別に数ある御家の中から天上院を選んだのはたまたまタイミングが良かったからだよ。君のとこじゃなきゃ駄目な理由はない」
初めて見る父の交渉をする姿は、どこまでも苛烈だった。相手に付け入る隙を与えない。自分に都合の良いように餌を垂らし、相手がそれに不満を漏らせばすぐに餌を引き上げる。
(なんつー頼もしい姿だ……天上院さんが可哀想になってくるレベルだよ……)
先程はあれほど巨大に見えた光画が、今は文字通り小さく縮こまっている。
「そんなに心配しなくても、一週間くらいは猶予をあげるよ」
「い、一週間……?」
「うん。それだけあれば決められるだろう? 何事も即断即決だよ。君もすぐに帰って考えたいだろうから、娘さん達は今日一日僕のところで預かってあげるよ。それでいいね?」
「わ、わかりました……では早速。本日は貴重なお話が出来ました。また一週間後に」
そそくさと退室しようとする光画の背に向けて優司はこう言った。
「一週間後だと別の人に決まっちゃってるかもね」
「か、可能な限り早く決断致します!」
パタン、と扉が閉じる音が部屋に響き渡った。あまりの展開の早さに恭弥は暫くの間放心していたが、やがて正気を取り戻してこう言った。
「当主の座を渡すってマジで言ってるの!?」
声を荒げて問いただす恭弥に対して、優司はどこまでも平静を保っていた。
「うん。そんなに驚く事かな? だって恭弥、今身体は小さいけれど、中身は二十歳過ぎてるんだろう? だったらそろそろ当主の座につく事考えないと」
「そりゃそうだけど……だけどさあ! 父さんなんでも急過ぎるんだよ! こういうのは事前に言ってくれよ!」
「事前に言ったら準備しちゃうだろう。それじゃ訓練にならないよ。交渉事において不測の事態はつきものだ。そういう時どういう対応を取るかで力量がわかるんだよ」
「訓練って……」
「そう、訓練だよ。もっとガンガン要求を突きつければいいのに恭弥ったら相手の言う事を聞いちゃうんだもん。聞いててハラハラしたよ」
「そりゃ父さんと比べたら誰だってそうなるよ……光画さん、見てて可哀想なくらい狼狽えてたもん」
「いいかい、僕達は大抵の相手にとって目上の人間だ。だから相手の要求なんて聞いてあげる必要がないんだ。狭間家にはそれが出来るだけの力がある。恭弥はまずそこの認識から変えていく必要がある」
「頼もし過ぎてなんにも言えないよ……」
「ま、この件はとりあえず僕が預かるから恭弥は文月ちゃんだっけ? に会っておいで。ちゃんともてなすように言っておいたから今頃客間にいるんじゃないかな?」
「了解……」
釈然としない気持ちはあったが、今は切り替えて文月との再会に備えるべきだ。恭弥は一度自室に戻り、身なりに問題がないか確認すると彼女が待つ客間へと向かった。
部屋の扉を開けると、ピンと一本線が入ったように綺麗な姿勢で椅子に座る幼女の背中が目に入ってきた。彼女は一本一本がはらりと垂れる絹のように美しい金髪をしていた。間違いなく、彼女が文月だろう。あれほど綺麗な金髪は文月以外にいない。
否応なく鼓動が高まる。文月が自分の事覚えていなかったら? 覚えていたとしても、きっと糾弾されてしまうだろう。自分はそれだけの事をしたのだ。悪い考えばかりが頭に浮かんでは消えていく。
静かに部屋に入ったおかげでまだ彼女はこちらに気付いていない。なんて声をかければいいのだろうか。恭弥は何度も手を握っては開いてを繰り返していた。
(……こんな事じゃ駄目だ。覚悟を決めて、文月に謝るんだ)
一歩、また一歩と少しずつ彼女に近寄っていく。そして遂にその時が訪れる。文月が気配に気付いて後ろを振り返ったのだ。
「文月……」
「え……?」
二人は無言でお互いの目を見つめ合った。それからややあって、文月が大粒の涙を流しだした。
「お、おい、どうしたんだよ、急に?」
「す、すみません。恭弥様……私の事がわかりますか……?」
「まさか……文月も?」
「はい……!」
感極まった文月は恭弥に抱きついた。恭弥もまた、きつく彼女を抱きしめた。
「そっか……そっか……ごめん。ごめんな……文月には辛い思いをさせた。本当にごめん」
「ぐすっ……いいんです……またこうして、恭弥様に会えただけで私は満足です……」
これ以上の言葉は無粋だった。今はただ、互いの温もりで安心したかった。
◯
「あらまあ……」
文月と抱きしめ合っていると、不意に声が聞こえた。振り返ると、見慣れない女性が立っていた。金髪碧眼の妙齢の女性だった。スタイル抜群のロングヘアにはどこか見覚えがあるような――。
「初めて会うのに随分と仲がいいじゃない。私がいない間に何があったの?」
「まさか――」
「あ、お母様」
「マジか!」
慌てて文月から離れると、女性はコロコロと笑いながらこう言った。
「ハロー。はじめまして、恭弥坊っちゃんよね? 私はアリスです。文月の母よ」
「は、狭間恭弥です。これにはその、事情がありまして……」
「そんなに慌てなくても大丈夫よ。文月は坊っちゃんに会うの楽しみにしてたからね。大方メソメソ泣き出したんでしょう? その子昔から泣き虫ちゃんだから」
「もう! 違いますお母様!」
文月は顔を赤くして否定するが当たらずも遠からずな辺り子の事をよく理解している母のようだった。
「坊っちゃんがここに来たって事は交渉が終わったって事よね?」
「ええ、まあ……ですがその、坊っちゃんというのは……」
「なんでよ? 坊っちゃんは坊っちゃんでしょう?」
文月の気質がたおやかなものだから、てっきりその母親も似た系統だとばかり思っていたが、どうやら正反対らしい。
恭弥は少々面食らいながら「とりあえずかけてください」と言った。すると、アリスが恭弥の対面に座ったのに対し、文月はちゃっかり恭弥の隣に腰を下ろした。それを見たアリスがまたニヤニヤとこちらを見てくるものだからやり辛くてしょうがない。
「コホンッ……えーお二人の処遇についてですが、文月に関しては僕の傍使い、アリスさんは当家の住み込み女中という事になりそうです。もちろん、お二人の同意があれば、ですが」
恭弥の言葉を聞いた文月が「よかった……」と言ったのに対しアリスは、
「本当? やったね! お金無くて困ってたのよねー。住み込みって事は部屋も用意してくれるのよね? いやーやっぱお金持ちは違うわね」
どこまでもフランクな態度だった。本当に文月の母親なのかと疑いたくなるが、外見はどこを見ても文月の面影がある。親子でここまで性格が違ってくるものなのだろうか。なんて思っていると、
「お休みは? やっぱり週休二日制? 有給休暇とかは? お給料はいくらもらえるの?」
「お母様!」
文月が恥ずかしそうに質問攻めするアリスを止める。
「ま、まあまあ文月。実際働く上で大事な事だから。とりあえず、お二人共当家で働くという事でいいですか?」
「もちろん! 外人だとなかなか条件いいところは雇ってくれないから困ってたのよ。この子もちゃんとした学校に行かせてあげたかったし。それで、お給料は?」
「そこは父と相談していただく事になると思いますが、平均以上はお渡ししたいと思っています。万が一足りないようであれば僕の方から父に言いますので、ご安心ください」
「やりい! それじゃ早速お父様に相談してこなきゃ。お父様はどこにいるかわかる?」
「書斎か私室にいると思いますよ。女中に聞けばわかるかと」
「はいはい。それじゃ、後は若い二人でごゆっくり!」
そう言ってアリスは文月にウインクを一つすると、言うが早いか部屋を出ていった。
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