第188話

 机に座り、今夜の範囲はどこだったか思い出していると、家庭教師のしまさんが入ってきた。


「こんばんは、恭弥坊っちゃん。昨日お出しした宿題は終わっていますか?」


「こんばんは、島さん。とっくの昔に終わってるよ。今日は国語だったっけ?」


「いえ、今日は算数です。ですので、国語の教科書は仕舞ってください」


「ああ、そうだったそうだった」


 島は恭弥の隣に置かれた椅子に座ると、自身も算数の教科書を机に置いた。そして、今日の範囲である分数の計算が書かれたページを開いた。


「坊っちゃんは大変優秀であられるのに忘れっぽいのが玉にキズですね」


「簡単過ぎるんだもん。人間どうでもいい事は忘れっぽくもなるさ」


 言ってから、今のが失言だった事に気付いた。ただでさえ三歳児が分数の計算をしている時点でおかしいのに、それを簡単などと言ってしまったのだ。島の目がキラリと光った。


「……ふむ。実は先程中学生のお子さんの家に行ってきたので、中学生向けの教科書を持っています。もし坊っちゃんが出来るというのであれば、やってみますか?」


(あーどうしたもんかなあ。学生として勉強する分はほぼ記憶に残ってるから中学の内容だろうと高校の内容だろうと全部答えられるんだよなあ……)


 恐らく、島としては鼻持ちならない金持ちお坊ちゃんの鼻っ柱を折ってやろうという心積もりなのだろうが、正直中学生レベルの問題を出されたところで事によっては暗算で答えられる。


 加えて、そんな事をしようものなら確実にどこで覚えたのかという話しになるのは目に見えている。とはいえ、現状は大人が算数ドリルをやらされているようなものだ。あまりに退屈過ぎる。恭弥はイタズラ心半分で島の提案に乗った。


「そうですか。では比例の問題をお出しします。それを解いてください」


 島はy=12xについて。x=―2の時yの値を求めよという問題を出してきた。前提となるy=axの式を理解していないと解けない問題だ。


 逆をいうと、y=axの式を理解していれば特に捻っているような類の問題ではないので、簡単に解ける。


「マイナス24でしょ」

 恭弥は暗算で答えてみせた。これに驚いたのは島だ。

「どこで覚えたのですか?」


「本を読んで覚えたんですよ。なんなら数Ⅰ、数Aの範囲までならたぶんイケます」


 実際は本を読んで覚えたのではなく、ただ記憶に残っていただけだ。だが、こう言った方が信憑性があるので恭弥はそう言った。


 人間使わない記憶は忘れていくのでそれ以降となると怪しいが、数Ⅰ、数Aの範囲ならばまだギリギリ記憶に新しいので今問題を出されても答えられるはずだ。


「どうやら坊っちゃんには家庭教師はいらないようですね」

 島はため息一がちに稼ぎ場所が減ってしまった事を嘆くようにそう言った。


「いや、そういう訳でもないんですよ。社会と神道はぜひ教えてほしいです。どういう訳か父は僕にその類の本を読ませてくれないので」


 家庭教師を受けるようになってから知った事だが、この世界では神道が必須科目となっているようだった。


 前の世界では大学に入り専門科目として学んでいたような事を、今の世界では小学生の頃から徐々に噛み砕いて教えているらしいのだ。恭弥はその事に疑問を持っていた。


「坊っちゃんは狭間家の大事な跡取りです。お父様には何か深いお考えがあるのでしょう」


「いや、これだけ妖が至るところにいるのに身を守るための手段すら教えてくれないというのは納得出来ない。島さんにはそこまでやってほしいとは言わないけど、最低限社会の動きがどういう風になって神道が必須科目になったのかを教えてほしいんだ」


 恭弥がそう言うと、島は顎に手やり暫し考える素振りを見せた後こう話し始めた。


「神道に限らず通常宗教というものは社会情勢に依ってその役割を変えていきます。妖が世に蔓延る以前では、神道をベースに仏教の要素を取り入れた「陰陽道」は「陰陽師」という職業を生み出しました。彼らの主な仕事内容はご存知ですか?」


「暦の作成と「占い」だよね」


「はい。彼らは土地の吉凶を読み取ったり、占いの結果を元に危険を回避する方法をお偉方に指示していました。しかしそれは、妖が世に蔓延る以前の話です。妖の存在が確認されて以降は、妖と戦う不思議な力を持った「陰陽師」は「退魔師」へと姿を変えていきました」


 退魔師は何かしらの宗教をベースにその異能を得ている事が多い。そのため、恭弥が知る限り以前の世界での宗教というものは妖と戦うためのものであった。民間に浸透しているような救済を求めるための宗教というものはあまり幅を利かせていなかった。


 ところが、今の世界は退魔師が用いるような攻撃的な宗教と一般的な人が求める救済的な宗教が二大巨頭としてそびえ立っている。以前恭弥はそれを父に問いかけたが、上手くはぐらかして答えてくれなかった。それがどうにも不思議に思って心に残っていた。


「俺が疑問に思ってるのはそこなんだよね。宗教の役割ってのは魔を祓うためにあるのに、島さんから教えてもらった神道は自らの身を守るためのものだ。それじゃあ守る事は出来ても攻撃する事が出来ない。どうしてなの?」


「坊っちゃんの言う内容は宗教の一側面に過ぎません。私は退魔師ではないので詳しくはわかりませんが、恐らく住み分けなのだと思います」


「住み分け?」


「そうです。皆が皆退魔師が用いる攻撃的な宗教を修めてしまうと、いざ妖と対峙した時攻撃する手段しか持ちえません。そうすると、殺すか殺されるしか選択肢がなくなるのです。ですが、一般の方はそんな切った張ったのやり取りは出来ません。普通は逃げます」


「なるほど。だから逃げるための時間を稼ぐ守りの宗教って訳か……」


「そういう事なのだと思います。そう考えると、宗教のベースとなっている神道が必須科目になっている現状に説明がつくかと」


「おまけに子供のなりたい職業上位が退魔師だもんなあ。世も末だな」


「そう言う坊っちゃんだって子供ですよ」


「そうだったね。ちなみにだけど、必須科目になるにあたってなんか事件とかあったの?」


「それは…………いえ、まだ坊っちゃんには早いです。もう少し大人になったら教えます」


「なんだよ、気になる言い方をするじゃないか」


「これは聞かれても教えられません。坊っちゃんの情操教育によろしくないので」


 ほとんど答えを言っているようなものだった。恐らく妖関連で大勢の人が死ぬような事件が過去にあったのだろう。それ以降、自分の身は自分で守れるように神道が必須科目になったのだ。


「まあなんとなくはわかったよ。島さんには悪いけど、今後は社会と神道だけを教えてほしい。もし父さんへの言い訳が必要なら定期的に他の科目のテストをやればいいと思うから」


「……しょうがないですね。お父様には私から上手く言っておきましょう。その代わり、私が出すテストは必ず満点を取る事。それが条件です」


「わかったよ。無理を言ってごめんね」

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