第二部「明けの哭き声」

第187話

 その日、一人の赤子が産声を上げた。


「旦那様! 男の子です!」


 看護師が生まれたばかりの赤子を抱き上げ出産を見守っていた男の元まで持っていく。


「そうか! でかした梨沙りさ!」

「あなた……私にも見せてちょうだい……」

「ああ! 今見せるぞ!」


 男は赤子を落とさないよう慎重に慎重に梨沙の顔元まで移動した。そうして赤子を梨沙に見せると、俺達の子供だと笑みを浮かべながら彼女の手を取って赤子の頬に触れさせた。


「なんて可愛らしいの……この子がそうなのね……?」


「これだけ立派な男の子なんだ、そうに違いない! いいかい? お前は恭弥だ。狭間恭弥だよ」


「恭弥……私にも抱かせてちょうだい……」


 梨沙の願いはしかし、叶う事はなかった。身体が弱かった彼女には出産という重労働は耐えられなかったようだ。梨沙はそのまま眠るように息を引き取った。


「梨沙? 梨沙!」


 これが、新たな生を受けた狭間恭弥の原初の記憶だった。


   ◯


 本来の狭間恭弥が過去に戻った弊害で、世界は大きくその姿を変えていた。まず協会という存在が消えていた。代わりに「陰陽座」という組織が生まれ、大半の退魔師がそこに所属して民間からの依頼を受けて妖を討伐する世になっていた。


 以前とは異なり、妖の存在は人々に知られるようになり、それに伴い退魔師の存在も人々の認知するところとなっていた。それどころか、人々を守るヒーロ然としたプロパガンダがなされている上に高給取りという事もあり子供のなりたい職業上位になっている。


「一体何がどうなってこうなったんだ……」


 恭弥は自身のすっかり縮んでしまった身体を嘆息混じりに眺めながら呟いた。


 そもそも、あの悲惨な記憶を余すことなく引き継いだ状態で新たに生まれたというのが意味がわからなかった。


 今現在恭弥の年齢は三歳になったばかりだ。相応に身体が小さい。だというのに、頭は大人の思考なものだから暫くの間そのちぐはぐさに慣れるのに苦労した。


 その上、以前の世界では協会の末席だった狭間家がどういう訳か今はかつての竜牙石家を凌ぐ御家となっている。そんな事だから、


「坊っちゃん、お夕食の準備が整いました。すでに旦那様がお待ちになっております。お早い準備のほどをお願い致します」


 すっかり広くなってしまった狭間家には何人もの女中がいるし、恭弥に至っては坊っちゃん扱いである。


「わかったよ。すぐに行く」


 恭弥は屋敷の中を歩いて食堂に向かった。小さな身体で移動するにはこの屋敷は広すぎた。どうせ金は余っているのだから今度移動用にセグウェイでも強請ろうかなどと考えていると、立派な扉が見えてきた。食堂の扉だ。


 うやうやしく礼をした女中が扉を開ける。すると、そこには父である優司ゆうじが席に座って恭弥が来るのを待っていた。


 恭弥が席に座ると、女中達が暖かな料理を運んできた。今日の料理は和食のようだった。


「また本を読んでいたのかい?」


 優司が魚の煮付けをほぐしながら問いかけた。その声音は退魔師である父が子にかけるものとしてはあまりに優しすぎた。


「まあね。まだ身体が出来上がっていないからそれくらいしかする事がないし」


 実を言うと、恭弥は優司の事を苦手に思っていた。恭弥的には自身を大人と認識しているのだが、いかんせん身体は三歳児なものだから優司は当然何をするにも子供扱いしてくるのだ。


 亡き妻の忘れ形見である恭弥は、優司にとってまさに宝であり、過保護過ぎるほどに過保護だった。恭弥はそれを鬱陶しく思っているのだ。


 それに加えて、母親である梨沙が恭弥を生んだ時に死なせてしまったという負い目があるのだ。そのせいで、恭弥はなかなか優司と親子のコミュニケーションというものを取れずにいた。


 それでも軋轢が出ないでいるのは、ひとえにお互いがお互いを尊重しているからだろう。


「何もそんな歳から退魔師を目指す事もないだろうに。もっと子供らしい遊びをしたいとは思わないのかい? 例えば……ブロックが欲しいとか」


「前から言ってるけど、そういうのはいらないよ。今俺が欲しいのは退魔師の歴史本かな。出来るだけ詳しく書いたやつ。父さんなら手に入るんじゃないの?」


「そりゃあ、手には入るけど……前にあげたやつじゃ不満だったのかい?」


「あれは子供向けでしょ。もっと詳細が書いてある本がほしい。特に、白面金毛九尾の狐について書かれた本がほしい」


 恭弥がそう言うと、優司はそれまで浮かべていた柔和な笑みを解いて真面目な顔をしてこう言った。


「恭弥、前にも言ったけど、白面金毛九尾の狐なんて妖は存在しないよ」


「本当に? 何か、似た名前でもいいんだ。とにかく狐の妖で強いのがいればそれについて書かれた本がほしい」


 再三問いかけるも、優司は首を横に振った。


「とりあえず、退魔師の歴史書を取り寄せておくから今はそれで満足しなさい」

「わかったよ」


 基本的にいつも柔和な笑みを浮かべて叱るという事をしない優司だったが、どういう訳か白面金毛九尾の狐の話題を出すと決まって不機嫌そうな顔を見せるのだ。それが返って、何か恭弥に隠している事があるのではと猜疑心を抱かせた。しかし三歳児である今の恭弥には父親から与えられる書物以外目を通す事は出来ない。じれったいが、今は辛抱するしかなかった。


 それから何気ない会話をしながら食事を終えた恭弥は、自身に与えられた広すぎる自室にいた。


 本当は書斎にでも籠もって優司の持つ書物を読み漁りたかったが、どういう訳か屋敷内の大半の部屋は鍵がかけられていて、優司は恭弥が部屋に入る事をよしとしなかった。


「マジでどうなってるんだ……いっそ夢幻の類だとでも言ってくれた方がマシだ」


「夢でも幻でもないぞ。現実を見よ」

 地面に黒いシミが出来たかと思うとそこから天城がヌッと身体を出して言った。


「そうなんだよなあ……お前の存在が何よりの証拠だもんな。天城はなんでこんな事になったのかわからないのか」


「推察くらいは出来るぞ。聞くか」

「聞かせてもらおうじゃないか。どうせ時間は腐るほどあるんだ」


「うむ。そもそも、我らはお主に狭間恭弥をやらせる事で小娘の因果を断ち切れんか試しておったのじゃ。じゃが、それが不可能であると悟った時目的が変わった。お主に戦い抜くだけの力をつけさせ、狭間恭弥本人は因果の元である白面金毛九尾の狐が生まれる前の過去に戻る事にしたのじゃ」


「力をつけさせるだって? 初耳だぞ」


「言ってなかったからの。しかし、それがまさか狂姫になるとは思わんかったがの。お主らは揃いも揃って使いづらい渇望の術式を見出しおって」


「その渇望の術式ってのはなんなんだよ。それに狂姫って? あの時俺意識がなかったからよくわからないんだよ」


「ええい質問攻めをするな! 順を追って説明してやるから黙って聞け。渇望の術式とは文字通り術者が渇望した時のみ得る事が出来る術式じゃ。大元となる術式は一緒で、術者が何を望むかによって顕現する姫の名が変わるのじゃ。お主あの時何者かに問いかけられたはずじゃ。覚えておるじゃろう?」


 言われて恭弥は思い出す。あの時確かにしなやかな肢体を持った黒猫に問いかけられた。


「そしてお前は何事か渇望のぞんだはずじゃ。何を渇望のぞんだのか言うてみい」


「あんまり覚えてないけど、確か誰かが死ぬのを見たくないとかだった気がする」


 そう言うと、天城は「妙じゃな」と言って首を捻った。


「狂姫は相当根源的な殺意がなければ顕現せん類の姫なんじゃが……その渇望じゃとまもりひめや祝姫が出てくるはずなんじゃがなあ……まあよい。とにかくお主に戦うだけの力がついた事を確認した我らはかねてよりの計画を実行に移したという訳じゃ」


「……ちょっと待て。渇望の術式ってのは一朝一夕では身につかないんだよな?」


「そうじゃな。簡単に言うと、術者が絶望の淵に立って深淵を覗かねばならん」


「じゃあ何か、あの悲劇は全部お前達が計画した事だって言うのか」

「見ようによってはそうじゃな」


 恭弥は一瞬カッとなって天城に掴みかかりそうになったが、そうでもしなければ桃花の因果は断ち切れなかった事に気づき、深呼吸して自らを鎮めた。


 何より、天城達がそうしなければならなかった理由の一端には自身の弱さがある。ここで天城にあたるのはお門違いだ。


「いいんじゃよ。殴りたければ我を殴れ。お主にはその権利がある」


「……いや、誰にもそんな権利はないよ。皆自分の置かれた状況で最善を尽くそうとした結果だ。誰かを責めるのは間違ってる」


「くふふ。大人になったではないか」


「茶化すなよ。あれだけ色々な事があったんだ。諦めが早くなっただけさ」


「そうかえ。して、肝心要のなぜ世界がこのように変わってしまったかじゃが――」


 人の気配を察知した天城はスッと黒いシミに消えてしまった。ややあって、女中が部屋をノックする。


「坊っちゃん、家庭教師の方が来ています」


 保育園に行くにしては恭弥の頭は聡明過ぎる。そう判断した優司は屋敷の中に家庭教師を招き入れ、教育を施していた。


「よりによってこのタイミングで……わかったよ。部屋に案内して」

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