第183話 ※残酷描写あり。

 山の頂へと繋がる道のりは物理的な困難を極めた。血反吐で滑る沼のような坂道を乗り越えたかと思えば、剣山のように尖った地面が立ちはだかった。


 歩くたびに鋭く尖った木の枝が足の裏を刺し貫く。踏みしめた足を上げると、木の枝がずるりと抜けて穴が空き、血が吹き出す。また一歩、歩みを進める頃には痛みだけを残して傷痕は再生している。だが、その踏みしめた一歩で再び穴が空くのだ。


 終わりのない痛みと再生のループは永遠にも思われた。痛みという感覚に対して疑問を覚えるほどに脳が麻痺し始めた頃になって、先を行く天城がこう言った。


「見つけた」


 声を出す余裕すらなかった桃花は、やっとの思いで顔を上げた。するとそこには羊水のような液体の中で蹲る恭弥の姿があった。


 大樹の根本にぽっかりと空いた穴の中で恭弥は幸せそうな顔をして眠っていた。その周囲には彼を守るようにこれまで記憶の中で戦った相手が立っている。


「何か作戦はあるのですか」

 やっとの思いで剣山から抜け出した桃花はそう天城に問いかける。


「我と小僧が邪魔者を蹴散らす。お前は一心にアレを迎えに行け」

 天城の視線の先には羊水の中で眠る恭弥の姿があった。


「しかし……あれだけの数を相手に大丈夫なのですか」

「我を誰じゃと思っとる」


 たった一言。だが、その一言が今は何よりも頼もしかった。


「我と小僧で穴を作る。その隙にやるのじゃ」

「頼みました」

「行くぞ!」


 爪を尖らせた天城が駆ける。恭弥もまた駆け出した。彼が引きずっていた棺桶は今桃花に託されている。


「すごい……!」


 血の舞踏会だった。両の爪で舞うように血飛沫を上げていく天城は暴力的な笑みを浮かべていた。負けじと幼い恭弥も両手に生み出した霊刀で敵を刈り取っていく。


 敵の群れに空隙が生まれた。桃花はそこ目掛けて駆け出そうした。だが、踏み出す一歩がなかなか前に進まなかった。まるで棺桶の中に眠る人形が歩みを進めるのを拒否するかのように痛烈なプレッシャーをかけてくるのだ。


(っ! 重い! なぜ? そんなにも現実に戻りたくないのですか、恭弥さん……!)


 力を振り絞って一歩、また一歩と歩みを進める桃花。すでに先程生まれた空隙には再び敵の群れがあった。それでも、


「進め! 道は我らが作る! 歩みを止めるな!」


 進む。進む。一歩踏み出すたびに棺桶が重くなっていく。鎖が掌に食い込む。これを手放す事が出来ればどれだけ楽だろうか。


(そんな事は許されない。わたくしが止まれば全てが無に帰す)


 桃花の姿は敵の群れの中にあった。その無防備な背中を食い破ろうと死霊が襲いかかる。だが、幼い恭弥が自らの身体を犠牲にして食い止めた。鮮血が桃花の衣服を汚す。


「恭弥さん!」

「振り返るな! 進め!」

「っ!」


 すでに鎖を握っている手の感触はない。歩みも最初の一歩とは比べ物にならないほどに重たくなっていた。それでも止まらない。止まる訳にはいかない。


 遂に大樹の根本までたどり着いた桃花は、恭弥を救い出さんと手を伸ばした。だが、どれだけ手を伸ばそうと彼に触れる事は叶わなかった。見た目以上に奥行きがあるようだった。


「所詮は夢幻。どうなっても構いません……!」

 意を決した桃花は、自らの身体ごと羊水に飛び込んでいった。


「行ったか……」

 そんな桃花の姿を見送った天城は血塗れになった両手をパッパッと払いながらそう言った。気が付けば、あれだけいたはずの敵の姿がどこにもなかった。


「これで我らの役目は終わったかの」


 天城は手に付いた血を払い終えると、その場に寝転がった。両手を枕にして、すっかり昼寝でもしそうな様子だった。そんな彼女に一つの影が近づいていく。


「何も終わってないさ。これから始まるんだ」


「さてどうなるかの。お前は祝姫じゃったが、小僧は何を得るかのう」


「さてね。まったく、我が事ながら羨ましくてしょうがないよ。彼女をあんなに本気にさせるなんてさ」


「それでも、お前はあやつを救いたいのじゃろ」

 彼は天城の問いには答えなかった。


「儀式の準備をしよう」

「……そうじゃな。お前との長きに渡った契約もこれで終わりか」


「終わらないよ。形を変えるだけだ。不死性だけ残してくれればそれでいい。後は全部彼に」


「あいわかった」

「それから、彼にすまなかったと伝えてほしい」

「そんなもん自分で伝えんかい」


「柄じゃないからね。それに、僕は恨まれているくらいがちょうどいい」


「ひねくれ者じゃな」

「どうとでも」


 天城は億劫そうに上体だけを起こすと、近づいてきた彼の肩口に噛み付いた。


   ◯


 気が付くと、桃花の意識は狭間家のリビングにあった。目の前には湯気を立てた湯呑があった。どうやら座布団に座ってお茶を飲んでいたところらしい。桃花はこれまでの経験からそういう「設定」なのだと解釈した。


(また訳のわからぬ……あちらから動作があるまで待つしかありませんか……)


 その時は然程待たずとも訪れた。外出していたらしい恭弥が帰ってきたからだ。

彼は桃花の姿を認めると眉根を八の字にした。そうして卑屈な態度を取って、見るからに弱々しい雰囲気を作り上げながらおっかなびっくりこちらに近づくとこう言った。


「何か出来る事はないかな? 役に立ちたいんだ」

「……貴方は誰ですか?」


 そうした言葉が出てしまうほどに、今の恭弥は記憶の中にある彼の様子とあまりに違っていた。


「僕は僕だよ。どうしてそんな事を言うんだ」

「僕……? 貴方は狭間恭弥なのですよね?」


 再びの問い。恭弥は困ったような顔をするだけで質問には答えなかった。


「恭弥さん、今外では皆冥道院と戦っています。貴方だけこんなところにいていいのですか」


「冥道院って誰の事だい? あ、何かご飯を作ろうか! 何が食べたい?」


「恭弥さん!」


 桃花が声を荒げると、恭弥は見ていて気の毒になるほど身体をビクリとさせて驚いた。


「お、怒らないでくれよ……何か気に障る事を言ってしまったのなら謝るから……」


「恭弥さん、本当にどうしてしまったのですか? ここがどこで、どういう状況かわかっているのですか?」


「そんなの、わからないよ……でも、ここは快適だよ? 誰も僕を責めないんだ」


「現実ではないのだから当たり前です! 目を覚ましなさい! 戦うのです!」


「嫌だよ……もう痛いのも苦しいのも嫌だ。僕はこんなに頑張ったのに……」


「逃げてなんになるというのです! 逃げた先には何もありません!」


「うるさい! 知ったような口を利くな! 僕はもう誰かのために生きるのは嫌なんだ!」


 乾いた音が響いた。桃花が恭弥の頬を叩いた音だ。恭弥は叩かれた頬を抑えて目を見開いている。桃花がそんな事をするとは思わなかったようだ。


「なんで……?」


「一端の口を利くのなら、自分自身の尻ぬぐいが出来るようになってからなさい」


「なんでそんな事するんだ! 桃花が……桃花さえいなければ俺は……!」


「そうやって全てを人にせいにすれば楽でしょうね」


「お前がいたから、お前のせいで俺は生まれてしまったんだ!」


「誰だって生まれたくて生まれてくるのではありません。等しく親の都合で生まれる。それは貴方もわたくしも変わりありません」


「っ! 神楽、文月、千鶴さん……!」


 正論を突きつけられた恭弥は自分を肯定してくれる女性の名を呼びながら辺りを探しだした。すると、3つの肉塊がベタベタと現れた。


 肉塊は恭弥に寄り添って何事か囁きながら彼を抱いた。彼の目にはあの肉塊が神楽達に見えているようだった。


「醜いですね。ここまで堕ちてしまったとは」

 桃花は雷斬と燧を抜き放つと、肉塊を完膚無きまでに焼き払った。


「ああああああああああああああ! な、なんて事を! 人殺しぃ!」


「わたくしが憎いですか? 憎いでしょう。憎みなさい! 闘争心を思い出すのです!」


 桃花は恭弥の眼前に燧を突き立てる。こうして発破をかける事で少しでも恭弥が正気に戻ればという思いからだった。


「うううううう………………うわああああああああああ!」


 恭弥は突き刺さっていた燧を抜き放つと、桃花に向かって振り乱した。桃花は力任せの一太刀一太刀を避ける事なく雷斬で受け止めた。


「そうです! 戦いなさい!」


 桃花の思惑通り、一合二合と刀を交わらせるほどに恭弥の剣戟は鋭くなっていった。だが同時に、恭弥の剣戟はどんどんと軽くなっていった。


 気が付けば、恭弥の剣戟は勢いだけは鋭いのに刀の重さ以上のものが感じられない魂のこもっていない一撃になっていた。


「どうしたのです! わたくしが憎くないのですか!」


 遂には恭弥は得物である燧を放り投げてしまった。


「……もう、無理だよ。俺は戦いたくないんだ」


 そう言った恭弥の表情は俯いているせいで伺いしれなかったが、先程までと違い声に理性が乗っているように感じられた。


「正気に戻ったのですか?」


「正気なんてものはここじゃクソの役にも立たないさ。せっかくここまで来てくれたのに悪いけど、俺はもう心が折れたんだ。戦えない。だからもう、放っておいてくれ」


「なぜです?」


「なぜも何もないさ。勝てもしない相手に挑んで、大事な人ばかり死んでいく。しかもそうするためだけに生み出されたなんて、どこにやりがいを見い出せばいいって言うんだ?」


「それは……」


「なあ、教えてくれよ。俺は何か間違った事を言ってるか? 戦っても戦っても得るものはなく、失っていくばかり。俺達はなんのために戦ってるんだ?」


「……貴方にだって大切なものくらいあるでしょう」


「それすら戦えば失っていくんだ。俺が動けば必ず誰かが不幸になる。ならもう、何もしない方がいい。そうは思わないか?」


 今度は桃花が正論を叩きつけられる番だった。何度も何かを声に出そうとして、そのたびに自問自答して、長きに渡る逡巡の末桃花はこう言った。「わたくしのために戦ってくれるのではないのですか」と。


 卑怯な事を言っている自覚はあった。だが今は、これ以外に何か言葉を出せなかった。


 その言葉を聞いた恭弥はフッと鼻で笑った。


「随分卑怯な事を言うじゃないか。桃花がそんなだから、俺はこんなになってまで死ねないんだぜ?」


「どういう事ですか」


「呪いだとさ。過去に戻るには俺が死ぬ必要がある。けど、桃花が生きてる内は、俺は自殺出来ないんだ」


「そんな……それでは――」


「まあ、そういう事だよ。責任の一端は桃花にあるって事だ。それがわかって尚そんな事が言えるなら尊敬するよ」


「……わたくしが憎いでしょうね」


 先程までの発破をかける意味ではない、本当の意味でそう問いかけた。


「どうだかな。俺はもう訳がわからないよ。何が正解で、どうすればよかったのか」


 桃花は雷斬を抜くと、自らの心臓に突き刺そうとした。しかし、恭弥が燧でそれを止めた。


「っ! 何故止めるのです! わたくしが……わたくしが死ねばやり直せるのですよ!」


「過去に戻ったところで、また勝てない戦いをするだけだ」

「だからと言って……」


「想像してみろよ。前の世界では感動的なシーンと共に涙を流して見送った人間が、過去に戻ったら平気な顔して笑いかけてくるんだ。俺はもうそんなの耐えられない。人の死はそんなに軽くあっちゃいけないんだよ……」


「ではどうするつもりなのですか!」


「だからずっと言ってるだろ。もう戦わない。運命を受け入れるんだ」


 桃花は俯いてブツブツと独り言を言うばかりになってしまった。これまでの旅の精神的疲労に加えて、目的としてきた当の恭弥がこんな様子だったので壊れてしまったのかもしれない。


「そうだ……それでいいんだ。暫くしたら肉塊が肯定してくれるようになる」


 恭弥は再び肯定感の海へと潜り込まんとその場にあぐらをかいた。その時だった!


「……貴方が出来ないのなら、わたくしが……!」


 突如として桃花が恭弥に斬りかかった。恭弥は反射的に側にあった燧で桃花を斬ってしまった。切り裂かれた腹から内蔵がこぼれ落ちる。


「あ、ああ……どうして……こんなはずじゃ……! 桃花!」

「これで……これでいいのです……」

「なんでこんな事を!」


「こうでもしないと……貴方はわたくしが死ぬのを止めたでしょう? だから、これでいいのです……」


「だからって!」

「あそこに、貴方の心があります……後は、頼みましたよ……」


 言うだけ言って桃花は事切れてしまった。直後、彼女は光の粒子となって消えていった。後には人形の欠片が残されていた。


「こんな……こんなのってありかよ……!」

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