第180話

 蕩けるように心地良かった。ここでは誰も否定してこない。皆が認めてくれて、優しくしてくれる場所だった。


 ――貴方はすごい。

 ――頑張りましたもんね。

 ――皆褒めてますよ。

 ――恭弥さんにしか出来ない事です。


「そうだよな。俺はすごい。頑張ったんだ。誰にも出来ない事をやり遂げたんだ」


 まさしく楽園だった。彼はいつしか目を開ける事すらやめて、自らを褒め称える柔らかな声にだけ耳を傾けるようになっていた。


「な、なんですか、ここは……?」


 桃花は困惑していた。今彼女の眼前には、夜の闇が広がっていた。空には煌々と輝く満月が一つ。それだけが周囲を照らす光源だった。


 地面はゴツゴツとした岩なのか土なのかすらはっきりしないものがびっしりと敷き詰められていた。前後左右を見渡しても何もない。いや、よくよく見ると、遙か先に何かがある。


 不意に、自身の両手を見た。そこには無いはずのものがついていた。冥道院に切り落とされたはずの両手だ。


「わたくしは一体……」


 肉の揺り籠に雷斬を突き立てたところまでははっきりと覚えている。だが、その直後意識が吸い込まれる感覚があったかと思うと、気が付けばここに立っていた。


 暫く立ち呆けていると、背後から何かを引きずる音が迫ってきた。振り返ると、いつの間にここまで近づかれていたのか、ボロ布をまとまった薄汚れた子供が立っていた。


 彼は太い鎖を両手で握っていた。その鎖には、子供が引きずるには到底大きすぎる大人サイズの棺桶が繋がれていた。


「貴方は……?」


 桃花は子供と同じ目線になるために片膝立ちになり、俯いて見えなかった彼の顔を伺った。すると、驚くべき事実が発覚した。


「恭弥さん?」


 ボサボサの髪に埃で汚れた顔、おまけに年齢まで遥かに幼いが、間違いなくこの子供は恭弥だった。


 桃花は暫く彼に向かって話しかけたが、どうやら言葉を発する事が出来ないようで、一言も返ってくる事はなかった。しょうがないので、彼が背負っていた棺桶の中を見ようとすると、それまで何を話しかけても黙っていた恭弥が突然暴れだした。


「お、落ち着きなさい! 見るだけです。何もしませんから、ね?」


 桃花は暴れる恭弥を優しく抱きとめて頭を撫でた後そう言った。彼はジッと桃花の事を見つめると、何かを理解したのか腕の中からすり抜けて自ら棺桶を開けた。


「これは……」


 棺桶の中にはバキバキに割れて壊れた人形が入っていた。身体を構成する物が足りないので、パッと見では何かわからなかったが、顔にあたる部分に目が一つ入っていたのでかろうじてわかった。


「小僧の心じゃな」


 背後からニュッと姿を表した天城が言った。あまりに唐突な登場だったので、桃花は腰に差した雷斬の柄に思わず手を伸ばしていた。


「……驚かせないでください。今までどうしていたのですか?」


「すまんすまん。我にも都合があってな、小僧の中におったんじゃ」


「そうですか。ここは一体どこなのですか? 天城さんがいるという事は死後の世界ではないようですが……」


「生と死の狭間の世界。かくりでも現しうつしよでもない場所じゃ。お前達の言葉で言うならば精神世界といったところかの」


「つまりここは、恭弥さんの精神世界という事ですか。なぜそのような場所にわたくしが?」


「お前受胎の儀に割って入ったじゃろう。肉の揺り籠に血を入れるとか。覚えがあるんじゃないかえ?」


 言われて、桃花は雷斬に自身の血が付着していた事を思い出した。


「そういう事じゃ。本当は我と小僧二人だけの旅のつもりだったんじゃがな。来てしまったものはしょうがない。お前も付き合え」


「付き合え、とは?」


「お前も見たじゃろ、壊れた人形を直すんじゃ。あれは小僧の心そのものじゃ」


「人形を直せば恭弥さんは戻ってくるのですか?」


「さあの。戻るかどうかはあやつの選択じゃ。我らは手助けしか出来んよ。しかし、ほとほと狭間恭弥という人間はお前と縁があると見える」


「どういう事ですか?」


「考えてもみい。そもそも小僧が生み出された原因は元の狭間恭弥がお主に心奪われたからじゃ。そこからお前を救うためにこんな事になったというのに、今度はお前が小僧を救おうというんじゃから、これが縁と言わずしてなんと言う」


「……あまり前世などというものは信じていませんが、恭弥さんとわたくしは前世に何かあったのかもしれませんね」


「どうじゃかな。しかし、どうせ来るなら神楽とかいう小娘に来てほしかったわ」


「どういう事ですか?」


 天城は「今にわかる」と言ってさっさと歩きだしてしまった。恭弥も棺桶を引きずって彼女の後について行ってしまったので、桃花も後を追うしかなかった。


   ○


 道無き道をひたすら歩いていた。ここには時計も無ければ太陽もない。およそ時間というものから切り離された場所であるから、どれだけの時間そうしていたのかわからなかった。


「天城さん、人形を直すといってもどうやって直すのですか」


 しびれを切らした桃花は先を行く天城にそう尋ねた。鬼である天城はもとより、棺桶を背負っている恭弥ですら疲れを見せる素振りがなかった。


「記憶を辿る。こいつの記憶は普通のそれと比べて短いからの、楽じゃよ」


「記憶を辿る?」


「そうじゃ。小僧は退魔師じゃからの、大半が戦いの記憶じゃろうなあ」


「という事は――」

「噂をすれば、じゃな。来たぞ。戦いの支度をせい」


 眼前には牛鬼がいた。身長三メートル程度の筋骨隆々の漆黒の身体に牛の頭が乗った鬼。


 一般的な鬼と同じで概念系の攻撃などはせず、見た目通り力任せに拳を振るうだけの相手だ。少なくとも、今の自分にとってその程度の相手なはず。なのに、桃花は自身の身体を襲う恐怖を抑えられなかった。


 間違いない、あの牛鬼はまだ駆け出しの頃に恭弥とペアでのお務めで現れた牛鬼だ。理屈ではなく心がそう言っている。まるであの時そうだったように、雷斬を握る手が震える。


「そういえばこいつはお前とも縁がある相手じゃったな。我は手を出さんからお前と小僧で仕留めろ」


「そんな……!」

「昼寝でもしてるから終わったら教えとくれ」


 どうやら天城は本当に戦う気がないらしい。その場に寝転がると、あくびをして目をつぶってしまった。


 隣に立った子供姿の恭弥は、小さいながらに戦う力はあるらしい。両手に霊力で作った刀を生み出して今に斬りかかろうとしていた。その姿を見ても尚、桃花の足は恐怖にすくんで動かなかった。


「っ!」

 恭弥が駆け出した。宙に飛び、空中で一回転してその勢いのまま刀を振り回す。小さい身体を器用に活かした戦い方だった。だが、やはり力が足りない。牛鬼の表皮を僅かに傷つけるに留まるだけだった。しかし恭弥は諦めなかった。何度何度も挑んでいく。その度に牛鬼は傷ついていくが、同じ分かそれ以上に恭弥が傷ついていった。


(どうして……! なぜ動いてくれないのですか!)


 目の前で幼子が傷ついているというのに、未だに桃花の足は動く事を拒否していた。


「ああそうそう、言い忘れておったが、小僧の記憶を辿るという事はその時の感情も追体験するという事じゃからな。お前が過去あいつに対して恐怖を抱いて、その時の恐怖心を克服出来ていなければ、身体は動かぬままじゃよ」


「バカな! わたくしはあいつ相手に恐怖など……」

「身体は正直じゃよ。動かんというのが何よりの証拠じゃ」


 プライドを傷つけられた桃花は、恐怖を抱いたままがむしゃらに駆け出した。そして、牛鬼の重たい一撃を土手っ腹に食らって吹き飛んでしまった。


「くっふ……!」


 椎名家の強力な霊装がなければ今頃腹に風穴が空いていた。立ち上がろうにも膝が笑って上手く立てなかった。今度は精神的なものではない、物理的に足が動かなかった。


 恭弥は懸命に牛鬼に攻撃を仕掛けるが、その甲斐なく牛鬼の視線は完全に桃花に向けられていた。弱った相手から始末するのは自然の摂理である。


(……何もかもあの時と一緒……わたくしはまた繰り返すのですか……?)


 桃花の眼前では幼い恭弥が諦めずに何度も何度も牛鬼に斬りかかっていた。


「救う側がこれでは笑えませんね……」


 桃花は雷斬を支えにして立ち上がると、最後の力を振り絞って技を放った。


「蛇追雷華!」


 雷斬から放たれた雷の蛇が牛鬼の身体を焦がし尽くす。締めは恭弥だった。倒れ伏した牛鬼の首に斬馬刀を落とし込み首を断つ。


 牛鬼は光の粒子となって天に消えていった。後には人形の欠片が残されていた。


「ふわあ……あ。やっと終わったか。随分手間取ったようじゃが、初めてならこんなものかの。どれ、欠片欠片」


 天城はトコトコと歩いていって人形の欠片を拾うと、疲れ切って地べたに座り込む桃花に差し出した。


「いつまで疲れた振りしとる。とっとと人形に戻してこんかい」

「いえ、振りではなく本当に疲れて――はて?」


 ふっと自分の調子を確認すると、先程までの不調が嘘のように元気で満ちていた。


「記憶を辿り終わったんじゃから、その記憶での出来事はなかった事になるのじゃ」


「……先に言っていただきたいですね」


 人形の欠片を受け取った桃花は、棺桶を開けて割れ果てた人形の上にそっと置いた。すると、欠片は人形に吸い込まれていった。見れば、最初見た時よりも人形は人形らしくなったように思う。


「……まだまだ先は長そうですね」

「なあにすぐじゃよ。ほれ、ぼうっとしとらんと行くぞ」

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