第159話

「どれ、もう少しやる気を出させてやるとするかえ」

 白面金毛九尾の狐はここにきて初めて足を進めた。


 動きが速かった訳ではない。むしろ、ゆったりとした歩みだったはずだ。なのに、瞬きをした次の瞬間には彼女の姿を見失っていた。


 気がつけば白面金毛九尾の狐は恭弥の背後に移動していた。事が済んで初めて全員がそれを認識出来た。この段になってようやく彼女が人の意識の隙間を縫って移動していたのだという事がわかった。だが、


「惜しいのお。やはり惜しい。お主はよい匂いがする」


 全てが遅すぎた。白面金毛九尾の狐は恭弥の首元に手を回し、彼の耳の裏の匂いを嗅ぎながらそう言った。


「臨・兵・闘・者――あぅ!」


 咄嗟に千鶴が印を組もうとしたが、扇子で仰がれて吹き飛んでいってしまった。後に残ったのは地面に倒れ込んでいる英一郎と、命を握られた恭弥だけだった。


「のう、やはり我と同じ道を歩む気はないのかえ?」


 白面金毛九尾の狐は耳に息を吹きかけながらこの上なく甘えた声で媚びる。傾国の美女とまで呼ばれた彼女の囁きは、理性をぐずぐずに溶かしてくる。しかし、恭弥は血が滲むほど強く拳を握って耐え難い誘惑に抗う。


「……お断りだ。テメエのせいでどれだけの人間が不幸になってると思ってるんだ!」


 一度目はそれで断れた。しかし白面金毛九尾の狐は、今度は恭弥に胸を強く押し当てて再度誘惑してきた。文月の身体でそれをやられた事で、彼女との情事が蘇る。


「グッ……!」

「知っておるぞ。お主とこの身体の持ち主は好い仲じゃったのじゃろう? ほれ、ちょっと頷くだけでもっとよい事をしてやるぞ?」


 恭弥は小刀を生み出して肩に突き刺した。そうする以外に、この強烈な誘惑から逃れる手段が思いつかなかった。


「断るって、言ってんだろうが……! 俺は、俺の役目を果たす! もう迷わないって決めたんだ!」


 ――カチンッ。オイルライターの蓋を開ける音が響き渡った。


 音の出処に目を向けると、英一郎が地面に寝そべった状態で煙草に火をつけていた。


「よく言ったな、狭間。男子三日会わざればなんとやらって言うが、まさにだな」

 英一郎は「イテテ」と言いながら緩慢な動作で立ち上がった。


「……無粋な輩じゃな。去ね」


 白面金毛九尾の狐は扇子を仰いだ。それは先程千鶴を吹き飛ばしたのと同じ衝撃波だった。誰もが吹き飛ばされる、そう思った。しかし、英一郎は両腕を交差させてそれを防ぎきってみせた。およそ先程まで地面に倒れ込んでいた者が出来る芸当ではなかった。


「……初めてお前に会った時は、なんて不安定な存在なんだって思ったよ。歳の割に落ち着いてるように見せて、その癖ちょっとした事でメンタルがやられる」


「え、英一郎さん……まさか……!」


 彼の破れたスーツの隙間から見える肌が、徐々に石のような色になっていく。


「俺は教師って職業が天職だと思ってる。手のかかる教え子が成長していく様を見るのがこの上なく好きだ。そういう意味では狭間、お前は手のかかる教え子だったんだぜ?」


「ぐだぐだと訳のわからぬ事を、しつこいのは嫌いじゃ」


 白面金毛九尾の狐は空気の弾丸を次々と英一郎の身体に撃ち込んでいく。しかし、英一郎は決して倒れなかった。


「……おいおい、最期くらいおじさんに語らせてくれよ」

「最期って……英一郎さん!」


「んな悲しそうな顔すんじゃねえよ。教え子が覚悟見せたんだ。おじさんが命張らねえでどうすんだよ」


 そう言った英一郎の肌はすでに、顔まで石と化していた。彼は自らの血に流れる石妖の力を完全解放する事を選んでいた。


 妖の血の完全解放はすなわち、自らの命を捧げる事を意味している。英一郎はここで死ぬつもりなのだ。


「……芦屋と土御門にすまんと伝えといてくれ」

「英一郎さん!」


「もしやお主、命を懸けているな! よい、実によいぞ! 我は頑張る男ノ子が大好きじゃ! じゃがどうする? お主の可愛い教え子は我の手の内じゃ」

 白面金毛九尾の狐は頬を赤らめて興奮気味にそう言った。


「まあそう慌てなさんさ。人生最後の一服くらいゆっくりさせてくれや」


「うむ、うむ! いくらでも待ってやる。ゆっくりと吸うがよい。美しいのお、人が命を燃やしてまで頑張る姿は実によい!」


「ふぅ……あんがとよ。ところで、一つ聞くが」

「なんじゃ?」


 白面金毛九尾の狐がそう言い終わった時にはすでに、英一郎の姿は彼女の側面にあった。


「神なんだ、当然回復能力くらいはもってるよな?」


 石下灰燼流の本質は爆発力にある。よくカウンターこそが真髄であると誤解されがちだが、それは石下灰燼流の上辺を見たに過ぎない。


「カフッ……!」


 肝臓への一撃から始まった一連の攻撃は留まる事を知らなかった。息をする事すら許さない全身への強烈な打撃の連続に、徐々に、本当に少しずつだが白面金毛九尾の狐は後ずさっていった。


 油断していたとはいえ、一瞬の内に懐に入り込まれた白面金毛九尾の狐は、英一郎の放つ乱桜の連撃を為す術なく喰らい続けていた。


(な、なんという連撃じゃ……じゃが、所詮は人間の技、どこかで息継ぎの必要があるはずじゃ……その時を待てば……)


 しかし、どれだけ経っても英一郎の乱桜が途切れる事はなかった。それもそのはず、石妖の力を解放した英一郎の肺は、最早肺として機能していない。ただ身体を頑丈に保つための石と化しているのだ。つまり、彼は今呼吸を必要としていなかったのである。


 その事実に白面金毛九尾の狐が気付いた頃には、彼女は回復を必要とするほどのダメージを負っていた。


「チッ! 燃えよ!」


 殴られながら、なんとか右手を打撃の外に出した白面金毛九尾の狐は、人差し指に小さな灯りを灯した。それは狐火と呼ばれるものだった。


 狐の妖であれば誰もが使える当たり前の術。だがそれを神とすら称される白面金毛九尾の狐が使用すれば効果は絶大だった。英一郎の身体が炎に包まれる。霊装などまるで意味をなさなかった。


 一般的なイメージでは石をどれだけ熱しても燃え崩れる事はないが、白面金毛九尾の狐が放った狐火は妖力が込められていた。そうなると、相性の問題ではなくなる。互いの霊力と妖力のぶつかり合いだ。


「グッ……クソ、まだ!」


 自身の身体が燃え盛って尚、英一郎は連撃を止めなかった。だがその勢いは先程までのものとは程遠い非力なものだった。


「素晴らしい! 己が身が燃え盛って尚立ち向かうか! よいぞ! もっとじゃ! もっと頑張れ!」


 炭化した右腕がボロボロと崩れ落ちてしまった。それでも尚残った左腕を前に出す。だが、


「……チク、ショウ……!」


 その左腕は白面金毛九尾の狐が突き出した扇子によって払われてしまった。その衝撃で、肩を残して左腕が崩れ落ちてしまう。それどころか、踏ん張りを入れていた足すら足首から炭化して体重を支えきれずに粉々になってしまった。


 前のめりに倒れ込んでいく英一郎の身体を、白面金毛九尾の狐は優しく抱きとめる。


「よう頑張った。我の身体に傷をつけたのじゃ、冥土の誉れとするがよい。最後に、お主の名を聞かせてはくれぬか?」


「……北村、英一郎だ……クソッタレ……!」

「お主の名、しかと覚えたぞ」


 英一郎は完全に炭化して粉々になってしまった。サラサラと風に乗って彼だったものが流れていく。その様を見た恭弥は激高した。


「テメエエエエエエエエエエエエエエエエェ!」

 渾身の一撃だった。宙に足場を作って空に飛び、三角跳びの要領で加速したまま童子切安綱を振り下ろした。しかし、白面金毛九尾の狐はこともなげに扇子でそれを受け止める。


「少し落ち着かんか。礼に欠けるぞ。命を賭した者を快く見送ろうという気はないのかえ?」


「ふざけんじゃねえ! テメエが殺しといて!」

「異な事を言う。これは戦じゃ、どちらかが死ぬは当たり前の事じゃろう?」


 あまりに暴論で、しかしどこまでも正論だった。勝つという事に慣れてしまった現代の退魔師にとっては耳が痛い言葉だった。


「だからって!」

「命のやり取りをしているという自覚に欠けるのではないかえ?」


 恭弥に注意が向いているのを好機と見た桃花が背後から駆け寄り雷斬を突き刺そうとする。だが、後ろに目でもついているのか、白面金毛九尾の狐は空いた手でそれを制止した。


「クッ! 父上!」

「わかっている!」


 両腕が塞がっている今がチャンスだった。秋彦は自らの得物をがら空きの胴体に突き立てる。が、情けない音を立てて刀が折れてしまった。


「なっ……!」


 だがまだ諦めない。慶一が、薫が、千鶴が、それぞれの得物を手に白面金毛九尾の狐に襲いかかる。


「お主らでは力及ばずじゃよ。まったく、ほんに弱いのお。お主らも英一郎のように命を燃やせんのかえ?」


 まるで面倒だとでも言わんばかりに白面金毛九尾の狐は妖力を発散して群がる有象無象を弾き飛ばした。

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