第91話
「ただいま」
「おかえりなさいませ。夕食とお風呂、どちらになさいますか?」
恭弥の着ている外套を脱がせながら文月が尋ねる。
「飯で。何も食ってないから腹減っちゃったよ」
「かしこまりました。今ご用意致します」
自室で部屋着に着替えて居間に下りると、ちょうど文月がおかずをちゃぶ台に並べ終えていた。今夜も豪勢な食事だった。
「緊急の会合だったそうですね。何が起きたのです?」
座椅子に腰掛けてお茶をすすっていた千鶴が言った。
「殺生石の封印を解いたバカ野郎の話です」
「やはりそうでしたか……あの封印には私も携わっていたので、もしやと思いましたが、まさか本当に封印を解く者がいるとは」
「アレの封印が解ければ大変な事になるってのに、まったく、最悪の厄ネタですよ」
「白面金毛九尾の狐……玉藻。厄介ですね。ですが、私が表舞台に上がるのに最適な状況が生まれそうです」
「不幸中の幸いですね。どさくさに紛れてしれっと復帰しましょう」
「とはいえどうなる事か……。殺生石の力は使い方を誤れば災害が起こり得ない代物です。本当に、困った事になりましたね」
「でも、今回ばかりは心当たりがあるんですよね。っても、そいつは殺生石を悪用する事しか考えてない野郎ですけど」
「知り合いですか?」
「知り合い……知り合い、ではないですかね。ただ、こっちが一方的に知ってるって感じです。だけど、目的はわかってもどこに現れるかとかはわかりません」
「そうですか……殺生石は悪用以外の用途が限られてますからね。大事にならない事を祈るばかりです」
「心の底からそう思いますよ。ごちそうさまでした。文月、風呂はもう沸いた?」
「はい。長湯されますか?」
「考え事したいからそうする」
「かしこまりました」
文月はそう言うと水筒にスポーツドリンクを入れた後、スマホを入れる用のジップロックを恭弥に渡した。
「せんきゅ。んじゃお風呂いただきまーす」
脱衣所でササッと服を脱ぎ、風呂場のドアを開ける。シャワーで軽く身体を流して湯船に浸かった。お気に入りの音楽をジップロックに入れたスマホで再生し、思考の海に潜る。
(殺生石の封印が解けるの事態は原作でも起こる事だから、それ自体はいい。だが、時期がおかしい。あれは終盤も近い中盤に起こる出来事だ。何が影響して冥道院の野郎は殺生石を手に入れたんだ? この時期はまだ稲荷のところの彼女も目覚めてないはずだ……)
原作における殺生石イベントは主に桃花ルートに関係している事だった。冥道院という人物が殺生石の欠片を桃花と神楽のいずれかに渡し、元々抱いていた憎しみを何倍にも増強させ、発露させる。結果、姉妹どちらかがどちらかの臓物を手に勝利宣言をするというトゥルーエンドとグッドエンドを否定させるイベントだ。
そんなイベントの前兆が原作開始直前の今起こっている。最近異常発生していた、いきすだまの件も、冥道院が絡んでいるというのであれば納得だ。大方殺生石の担い手に相応しい人物を探す過程で憎しみを煽った結果だろう。
とはいえ、現状椎名姉妹の仲は良好だ。冥道院が殺生石を姉妹に渡しても最悪の事態にはならないだろう。とすると、冥道院は別に担い手を探している事になる。だが、いくらなんでも早すぎる。現状強い憎しみや後悔といった負の感情を抱いている人間は少ない。いたとしても強靭な精神力を有している人間ばかりなので殺生石の誘惑に乗るような事はないだろう。そんな事はあの冥道院であれば理解しているはず。にもかかわらず、ここまで派手に動いているという事は何かがあるはずだ。
「冥道院の野郎……あいつさえいなけりゃまだマシだってのに……」
恭弥がそう言うのも無理はない。桃花ルートに限らず、冥道院は全ルートで致命的ともいえる禍根を生み出すのだ。冥道院のせいで死ぬ事になった登場人物の数は知れない。
冥道院さえいなければ殺生石の封印が解けたところで並大抵の人間には扱いきれない殺生石の力に飲まれて自滅するだけだが、憎らしい事に冥道院は殺生石を扱えるだけの力を持っている。母親に異常なまでの愛情を示すだけのマザコン野郎ではないのだ。
原作において冥道院は権蔵を始めとして退魔師トップクラスの実力を持った人物達をことごとく退けている。はっきり言って原作で倒す事が出来たのは清明の主人公パワーのおかげみたいなものだった。
そんな清明にしても現時点では正宗を抜く事すら出来ていない。いくら世界の見えない加護を受けていたとしても無駄死にするのがオチだろう。
そうは言っても何かしらの対策を講じなければ災害級の騒動が起きるのは目に見えている。こちらの切れる手札は千鶴のみ。冥道院を相手とするには少々心もとない。
「悩んでおるようじゃの」
「うわびっくりした! いきなり出てくんじゃねえよ!」
ヌッと浴槽の底から天城が現れた。ちゃっかり全裸になって頭にタオルを乗せている辺りすぐにいなくならずに風呂を楽しむつもりなのだろう。
「くふふ。我もたまには風呂に浸かりたいのでな。それに話す事もあったし、ちょうどよいと思っての」
「話す事って?」
「懐かしい匂いを感じた。女狐の匂いじゃ」
「女狐って、まさか玉藻の事じゃないよな」
「玉藻本人ではないじゃろうが、分け身じゃろうな。アレの鼻につく匂いがぷんぷんする」
「どっちだ……? 男の方か女の方か」
「そこまではわからん。ただ、気配は二つ感じるぞ」
「どっちもじゃねえか! 最悪だ……完全に殺生石イベントが始まってる……」
「放っておけばよいじゃろう。あん小娘共に殺生石が渡っても今なら大丈夫じゃろ」
「桃花と神楽が大丈夫でも他の人間の手に渡れば意味ねえよ。間違っても秋彦さんが担い手に選ばれたら手がつけられない。世界は今どのルートに進んでるんだ? 殺生石イベントが発生しているという事は桃花ルートなのか? だけど……」
「そんなのどうでもよいじゃろ。お前は細かい事は考えんと目の前の今出来る事をやればいいんじゃ」
「そりゃそうだけど……まかり間違ってもヒロインの誰かが殺生石に魅入られちまったらって考えると落ち着けないよ」
「そんな事より我の均整の取れた美しいプロポーションを見よ」
そう言って偉そうにふんぞり返る天城だったが、てっぺんから足先に至るまで悲しいほどに凹凸のないつるぺただった。ローションでも塗ったくればスキーが出来そうなほどだ。
「どこをどう取ったら美しいプロポーションになるんだ? イカ腹の幼児体型以外の何者でもないだろ……」
「ふん。お前にはこの黄金比がわからんのじゃ。これはこれで需要があるんじゃぞ」
「ああそうですか……なんか悩んでるのがアホらしくなってきた」
「それでいいんじゃ。お前は考え過ぎなんじゃ。少しは無鉄砲になる事を覚えるんじゃな」
「へいへい。まあ確かに、冥道院の野郎の事はここで悩んでもしょうがないからな。今は小春の件をどうするかだな」
「あの小娘も大概不幸じゃな。家族を亡くしたと思ったら今度は親友が死んでしまうかもしれんとは。不幸の星に生まれているとしか思えん」
「そうなんだよ。だからヒロイン側の主人公なんて呼ばれる訳だけど、それが切っ掛けで強くなるみたいなんだよなあ。戦力を取るか、人として当たり前の事をするか」
「どちらを取っても後悔するのなら、人を助けて後悔してみるのもよいのではないかえ。あの召使いとて、結局は助けてよかったではないか」
「そう、だな。先の事を考え過ぎてもよくないもんな。元々、ヒロインを救いたいと思ってた訳だし、頑張るとするよ。もう神楽の時みたいな事にはなりたくないしな」
「そうじゃ。それでいい。お前は主人公には出来ない事が出来るんじゃから、主人公にはならずとも、似たような事をすればいいんじゃ」
「そうだな……いい加減のぼせてきた。とっとと洗って上がろうっと」
ザバリと湯をまといながら立ち上がると、恭弥は椅子に座って頭を洗い始めた。天城はその姿を風呂の縁に置いた腕に顎を乗せて楽しそうに眺めていた。
「のう」
「ん? なんだ?」
シャンプーを洗い流し、タオルで頭を拭きながら聞き返す。
「我にシャンプーしてくれんか」
「ええ……。自分で洗えよ。それぐらい出来るだろ」
「人に洗ってほしい気分なんじゃ」
「しょうがないな……ほれ、こい」
恭弥がそう言うと、天城は浴槽から上がって恭弥の足元にペタリと座り込んだ。
天城の頭をシャワーで軽く流して、シャンプーを泡立てていく。
「すごい泡立ちいいな」
「我の身体は常に汚れを弾いているからの」
「シャンプーする必要ないじゃねえか」
「人にやってもらうと気持ちええじゃろ。マッサージみたいなもんじゃ」
「そんなもんかね。でも、天城の方からコミュニケーションを取ろうとするなんて珍しいな。なんか心境の変化でもあったのか?」
「どうじゃろうな。お前とは身体を共有しとるし、少なからず影響は受けとるじゃろうな。小娘の一件で、お前はしこたま堪えたじゃろ。結果、以前は漠然としていた強くなるという気持ちが明確なものになりつつある」
「どうなんだろうな。確かに神楽の一件は俺の中でターニングポイントだった感はある」
「それに、冥道院とかいう明確な敵が現れた。倒すには力が必要なのじゃろ? 人間明確な目標があるとそれに向かって成長しようとするものじゃ」
「あのクソ野郎はファン共通の敵だからな。俺も相応に苛ついたし」
「その調子で強くなれ。そうすれば、いずれ我を――」
最後の言葉は小さな呟きで聞き取る事が出来なかった。聞き返したが、天城は答える事はなかった。
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