第92話 ※残酷描写あり

 風呂を上がり、ドライヤーで髪を乾かし終えると、台所で腰に手を当ててフルーツ牛乳を一気飲みした。これは、恭弥の風呂上がりの儀式のようなもので、ここまでやって初めて彼は風呂に入ったと実感出来た。


「ふう、相変わらずフルーツ牛乳は最高だぜ。そういや千鶴さん」

 相変わらずソファに寝転がって猫番組を見ている千鶴に声をかける。


「はい、どうしました」


「千鶴さんの復帰ですけど、椎名パパが援護してくれる事になりました」


「秋彦さんが? 珍しい事もありますねえ。彼は家の事以外に興味がないとばかり」


「ダメ元で頼んでみたんですけど、快諾してくれました。なんだか知らないですけど、結構好意的でびっくりしました」


「私にしても驚きです。私を庇うとなれば、彼の立場も危うくなるかもしれないというのに」


「まあ気にしてもしょうがないです。援護してくれるっていうんですから、ありがたく好意を受け取っておきましょう」


「そうですね。私の復帰がスムーズにいくのであれば越した事はありません」


 恭弥はドカリと音を立ててお気に入りの座椅子に腰掛けた。そして、スマホを開いて神楽から大量に送られてきていたラインの返信に着手した。


「うげ……あいつ何通送ってきてんだ。グループラインじゃねえんだから……」


 見れば、百四十八件も未読になっていた。断言していいが、これを上から丁寧に見ていったところで実のある話はない。全て今何してますか、とかそういった取り留めのない内容だ。だから、ザッと見て一番下のラインに返信した。


「風呂から上がってまったりしてるっと……文月さんや」

 ぞんざいに返事をした恭弥は、台所で明日の準備をしている文月に声をかけた。


「どうされましたか?」


「明日は久しぶりにお務め入れてないから今日は夜ふかししようと思うんだよね。なんか夜食作ってくれない?」


「かしこまりました。でしたら、ちょうど長芋の浅漬があるのでそれと何か二品お作り致します。何かご希望はありますか?」


「結構ガッツリ系のが食べたい。肉とかにんにくとか」


「にんにくチャーハンなどはいかがですか? 他にはスパイシーポテトとハンバーガーなどもご用意出来ます」


「すげーよだれ出てきた……両方お願い。犯罪的な夜食だ……」


「かしこまりました。久しぶりのお休みですからね、腕によりをかけてお作り致します」


「いいなぁー。私もお夜食が食べたいです……」

 そんな二人の会話を文字通り指を咥えて聞いていた千鶴が言った。ご飯を前に「待て」をされた犬のように悲しそうな目をしている。


「いやあんたはついこの間お肉が気になるからダイエットですとか言ってたでしょう……」


「でも食べたい……」


「夜食は肥満の元ですよ。ダメ、絶対」


「こんにゃくなどを使用したものでよければあまり脂肪がつきにくいヘルシーなものも作れますが……」


「本当ですか!」


「ええ。こんにゃくとブロッコリーのペペロンチーノなどはまだ脂肪がつきにくいかと」


「やったー! ぜひ作ってください! ビールも飲んじゃおうかなあ」


「こうやって人は堕落していく……」


 ボソリと呟いた恭弥に目ざとく反応した千鶴はこう言った。


「うるさいですよ。運動すればいいんです!」


「ダメだこりゃ」


 こうして狭間家の夜は更けていった。


 その晩も夢を見た。


 古い日本家屋が燃えていた。白髪の十代中頃の少年が燃え盛る炎に向かって何事が叫んでいる。


「母さん!」


 木造の日本家屋は火の回りが早い。ボロボロと焼け焦げて、家を構築していた柱が次々と燃え落ちていく。万が一にでも中に人がいたとすれば、とても助かる状況にはなかった。


「どうして……どうして僕らがこんな目に遭わなきゃいけないんだ!」


 少年は哭きながら地面を叩いた。その顔は右半分が火で焼けただれていた。


「許さない……! 僕は絶対に許さないぞ!」


 少年は自らの灼け潰れた右目に殺生石の欠片を埋め込んだ。


 これは夢。そう理解はしていても、どこまでいっても現実であったという認識を拭えなかった。見ている事しか出来ないのが歯がゆい。


 夢は更に進む。


 少年の目の前には血に塗れた桃花がうずくまっていた。


「妹に勝てないようじゃ、とてもじゃないけど君が当主を継ぐ未来はないだろうね」


 安い挑発だった。だが、あろうことか桃花は奥歯を噛み砕かんばかりに憤った。その姿は、恭弥の知る桃花からは遠くかけ離れたものだった。


「でも、これがあれば君は妹に勝てるよ」


 少年は桃花に見せびらかすように殺生石の欠片を差し出した。


「馬鹿な事を……! 舐めないでください。そのような外法に頼らずとも、わたくしはわたくしの力で奪い取ります……!」


「本当に出来るのかい? 君は妹に力で負けるだけに留まらず『彼』も奪われようとしているじゃないか」


 桃花の目が見開かれた。怒りに身を任せて雷斬を横薙ぎに振るうが、少年は優雅にステップを見せて躱した。そして、再び挑発するように「ふふふ」と嗤った。


「君は何も手にする事はないんだ。誰からも信用されず、誰の助けも得られずにひっそりと独り死んでいく。それでいいのかい? よく考えるんだ。これがあれば君は全部手に入れる事が出来る。何も難しい事はない。いいかい? 僕の手を取るだけでいいんだ」


「わたくしは……」


 結局、桃花はその手を取ってしまった。次のシーンで、桃花は月満ちる夜の下、神楽の腸を手に勝利宣言をしていた。


「これで……これで『清明さん』はわたくしのものです……!」


 夢が変わった。


「桃花さん! 僕が動きを止める!」


 安物の霊装を着た少年が霊力を物質化させて作成した鎖で鬼を拘束していた。あの鬼には見覚えがあった。天城が取り憑いた千鶴だ。


 桃花が駆ける。身動きの取れなくなった鬼の身体を雷斬で切り裂いていく。


 肉が裂け、血しぶきが舞い、骨が露出する。だが、それだけだ。切り裂いた箇所は時間と共に回復していく。こちらの体力だけ消耗していくだけだった。


 そして、そんな圧倒的に不利な天秤を傾けたのは鬼だった。安物の霊装を着た少年のほんの僅かに見せた隙に拘束を引きちぎったのだ。鬼は腕をがむしゃらに振り回した。


 固く握られた拳が少年の腹部に突き刺さった。体躯の倍以上も横幅のある柱に激突すると、柱は根本からポッキリと折れてしまった。


 少年は柱の下敷きとなった。徐々に徐々に赤い血が広がり、最後には血溜まりが出来上がった。生者が出していい血の量ではなかった。


 夢が変わる。


「はじめまして、僕の名前は『――』よろしくね、椎名桃花さん」


 安物の霊装を着た少年が言った。正面から見ているというのに、顔の部分に黒いモヤがかかっていて誰なのかがわからなかった。


「馴れ合うつもりはありません。足手まといにはならないでくださいね」


「……『また』ここからか」


「何か言いましたか?」


「いや、何も言ってないよ。ただ、評判通り気難しい人なんだなって」


 桃花はその言葉に返す事はなく、一人ザッザッと前に進んでいった。


 少年は一歩離れたところから後を追う。


 そうして森の中を歩いていくと、牛鬼が現れた。


「…………牛鬼……そんなはずは」


 驚く桃花をよそに、標的を見つけた牛鬼はズンズンと歩みを進める。


 二人の奮闘虚しく、牛鬼の圧倒的な力の前では敗色濃厚だった。そして、遂にその時は来る。牛鬼の爪が桃花の身体を貫こうという時が来たのだ。


「危ない!」


 少年は桃花を庇った。だがその代償に、桃花を貫くはずだった凶刃はしっかりと少年の横腹を切り裂いていた。腸が溢れている。どうやっても助からないだろう。


「なぜ……?」


「……ぼ、僕は……桃花さんが生きてくれれば、それで、いい……」


 少年は事切れた。それと同時に、長い夢の旅は終わりを告げた。


「……なんつー夢だよ……ちくしょう」


 目覚めは最悪だった。カーテンの隙間から溢れる朝日すら今は鬱陶しく感じられる。


 通常これだけ長い夢であれば時間の経過と共に忘れ去られるものだが、どうした事か朝食を食べ終え、自室のベッドに寝そべってもくっきりと覚えていた。


「クソ! 胸くそ悪い。なんだってんだ」


(まさかここにきて転生の弊害的な何かがやってきたのか? だとしても、俺はあの夢の内容は何一つ知らない事だった。仮に俺の知らない夜に哭くのストーリーがあったとしても、あの男は誰なんだ? 俺に似ていたが、まさかそんな事はないはずだ……)


「……考えてもしょうがない、か」


 恭弥は居間に下りると、珍しくソファに座りくつろいでいる文月と小説を読んでいた千鶴に腹ごなしの散歩に行ってくると行って家を出た。


 普段お務めでもない限り霊装を着る事はなかったが、なんとなく今日は着物を着たい気分だったので、霊装とベージュ色の外套を羽織って外に出た。

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